第3章(10)

 そして、日をまたぐ前にお互い眠りについた。

 いや、私は寝付くのに時間がかかったからお互いではないか。

 まあ、とにかく、「こんな状況」でも彼は私に何もすることなく、静かに寝息を立てていた。

 外から鳥のさえずりが聞こえるようになった頃。私は目を覚ました。

 隣には、まだ優しい表情をしながら寝ている……峻哉君。

 私の予想が正しければ、きっと――彼は目覚めてすぐ、何かしらの驚きの反応を浮かべるはず。

 土曜日の記憶がない「峻哉君」なら、そういう反応をする。

 色々着替えとか済ませて本を読んで時間を潰していた午前十時。

「ここは……?」

 ふとそんな声が、私に聞こえた。

 ……やっぱり。

 今の峻哉君に昨日の記憶がない。

 きっと、どういう理由かはわからないけど、土曜日の記憶だけ切り離されている。それはきっと金曜の深夜、日が土曜日に切り替わった瞬間、彼が倒れこむように眠ってしまったのと関係があるはず。

 昨日、峻哉君のお母さんが言っていたことも、多分。

「……目、覚めた?」

「え、僕……なんで」

 土曜日の彼が今日も泊めてって頼んだのは、もしそのまま土曜日に自宅に帰ると、日曜日に「自宅に帰った」っていう記憶がないまま朝を迎えてしまうから。それはまずいと彼は思ったから、私にもう一晩泊めて欲しいって頼んだんだ。

 でも、なんとなくわかった。

 何か、ある。って。


 その後はもう一度峻哉君に事の説明をして、朝ご飯を食べた。あっという間に作ったオムライスを食べてしまい、少し嬉しかったりもした。

「ごめん、長居しちゃったね……そろそろ帰るよ。今度、お礼するから」

 時計を見やりながら、峻哉君はそう言う。

 よいしょと立ち上がりそうな彼を見て、ある想いが私の頭の中を走った。

 もう少し、一緒にいたい。

 だから。

 気が付けば、私は口走っていた。

「あ、なら……今度から、名前で呼び合おう?」

 自分でもどんな表情をしていたかはわからない。ただただあと少しだけでも彼と話していたくて、紡いだ言葉だったから。

 いや、本心ではあったけど。

「え、ええ?」

「なんか、酔ったときもそんなこと言ったみたいだけど、でも、実際名前で呼び合ってもいいかなーなんて、思うんだよね。だってお泊りしたんだよ? 私達」

「それはそうだけど」

 理由なんてどうでもよかった。ただ、もっと峻哉君と話していたい。距離を詰めたい。

 それだけだった。

「……峻哉君は嫌?」

「っ」

 意図しない形で、声が少し潤んだ。

 普段が普段だから、わざとって思われているかもしれないけど、これは偶然。

 でも、そんな思いがバレるのも嫌だから、私は精一杯いつもの笑顔を浮かべながら、手元ではこっそり服の裾をつかんでいた。

 しばらく時が二人の間で止まった。何も音がしない、無音の空間が出来上がっていた。

「……栞」

 風に吹かれた葉と葉がこすれるような、そんな大きさだった。

 まさかこんな簡単に呼んでくれるなんて思っていなかったから、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。

「え、ちょ、なんでこういうときに限って素直に名前で呼んでくれるの? 予想外で嬉しいんだけど恥ずかしいよ」

 小さな声でも、その声は優しくて。

「も、もう一度呼んでみて?」

 つい、私はもう一度を求めてしまった。見上げる彼の顔は、ほのかに朱に染まっていて、少し照れているようにも見えて。

「……栞」

 今度は、はっきりと、聞こえるように呟いてくれた。

 胸のあたりから、キュウと何かが締め付けられるような気がした。


 それからというもの、峻哉君とも、「峻哉君」とも会うとき会うときがドキドキだった。

 髪の毛はちゃんとできているか、どこかおかしいところはないか、そんなことを前よりも考えてから会うようになっていた。

 映画も一緒に見に行ったし、また峻哉君を家に呼ぶこともできた。

 それなりに近づけていたと思っていた。

 でも、きっと私は焦りすぎたんだ。

 だから、あんなことが起きたんだ。


 この前の土曜日。

 その日は「峻哉君」を私の家に招いて宅飲みをしていた。ここのところ、スーパーでお酒を買って一緒に私の家で飲むってことをしばしばやっていた。

 私はそんなにお酒が強い方じゃないけど、それは彼も同じようだった。

 こたつで丸くなりながら缶チューハイを開けて、晩ご飯を食べる。

 それなりに数をこなしてきたシチュエーションだった。

 でも、彼が二本目のチューハイを開け切ったときに、異変は起きた。

「――そういえば、その場面って……あれ?」

 普段通り、本について話していた私達だったけど、向かい合って座っている彼の頭がフラフラと左右に大きく振れ始めたんだ。

 私が気づいた頃には、ドサっと音を立てて横になってしまった。

「ね、寝ちゃった?」

 確かに、彼もあまりお酒に強いタイプではなかった。でも、いつも二缶はきっちり飲み切る人なんだけど……今日はあまり体調良くなかったのかな……。

 私は毛布を取り出し、彼の体にそっとかけつつ、声を掛ける。

「峻哉君? 眠くなっちゃった? 酔っちゃった? ここで寝たら風邪ひいちゃうから駄目だよ?」

 でも、彼は何も反応しない。

「し、峻哉君……?」

 顔を見つめながら、彼を起こそうとしたけど、その呼びかけは途中で切れてしまった。

 ……もしかして、今なら……。

 多分、私も素面ではなかったんだ。だから、いつもより考えることが飛んでいたんだ。

 彼の体のすぐ横に腰を落とし、彼の耳元にふぅと息を吐くように囁く。

「……峻哉君、起きて……」

 ほんのわずかな間、彼の耳がぴくっと可愛く動いた。けど、それ以上の反応はない。

「……峻哉君」

 もう一度、囁く。

 すると、

「んんぅ……」

 彼はそううなりつつ寝返りをうった。急の出来事に私は少し腰を浮かせてビックリしたけど、結局起きなかったのでそのまま彼の側に居続けた。

 そして。

「……あ」

 彼が寝返りをうったことで、服がめくれてしまい、彼のお腹が見えてしまっていた。

 ドクン。

 顔が熱くなってきている。お酒のせいか、それともこの状況のせいか。多分、両方だと思う。

 胸の鼓動が段々速くなり、彼との距離も詰まって来た。

 引き締まった彼の体が、私の視界に入り続ける。

 少し煽情的な彼の姿は、私のストッパーを外してしまったんだ。

 呼吸が少しずつ荒くなるなか、私はゆっくりと彼の唇に顔を近づける。

 すぐ近くで聞こえる彼の寝息は、私の気持ちをより昂らせた。

 私は彼の顔を挟むように手を床に置く、床ドンみたいな格好になりつつ、あと数センチのところまで近づいた。

 あと、あと少しで――

 もう、唇と唇が合わさる、そんなときだった。

「んん……ごめん、僕、寝ていたっ……え?」

 唇より先に、彼の目と目が合ってしまった。

「え、ええ? ちょっ、ちょ待っ……え? ど、どうしたの、急に?」

 彼は慌てて私の腕の間からすり抜け、こたつから抜け出した。

 驚きと、困惑が混じった、そんな目で私を見つめる。彼はゆっくりと後退りながら、私と距離を取っていた。

「ど、どうしたの……? き、急にこんな……キ、キスなんて……?」

 彼の震えた声を聞いて、その反応を見て、私も我に返ったんだ。

「え? い、今私何を……あ、ご、ごめん、ち、違うの、こ、これは……え、えっと……」

 慌てて言うべき言葉を捜し始めるけど、そんな急に見つかるほど私は語彙が豊富ではないし、冷静でもない。

「ごっ、ごめっ……違うの、峻哉君が酔って寝ちゃってるのを見てたら……つ、つい」

「そ、そう……」

 まずい、引いている。きっと彼は今、引いている。

「ぁ、えっと……」

 そうとわかると、ますます何と言えばいいか、見当もつかなくなって。

 震える体を、きつく抱きしめながら。

 声にならない音を、私は漏らすしかできなかった。


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