第3章(11)

 *


「……それから、もう峻哉君に嫌われたかもしれないって思って……避けちゃって……」

 終始、僕と目を合わせることなく彼女は話し続けた。

「……でも、そうだよね、そうなんだよ。峻哉君には、土曜日の記憶がないんだから……」

 こたつに両手をつき、うなだれる彼女から、自分を責めるような色の声が聞こえ続ける。

「……だから、峻哉君には関係なくて……」

「『僕』には関係あった、と」

「う、うん……」

 当然だが、北上さんのキス未遂事件の記憶はない。持っていない。

 まあ、全部彼女の妄想と一蹴できることはできるけど、ならここまで僕の知らない土曜日をスラスラとでっち上げられるか?

 きっと、本当のことだ。

 じゃあ僕の持っている一人で家にいたという記憶は何なのか、ということにもなるけど、それを考えるよりもまず北上さんのことを考えないと。

 ……ってあれ? 北上さん、「僕」にキスしようとしたの?

 それって……え?

「あ、あのさ……変なこと聞くけどいい?」

「な、何……?」

「し、栞は……僕のこと、どう、思っているの?」

「…………」

 彼女は僕の方をチラッと見て、またすぐに恥ずかしそうに視線をそらす。

 その仕草だけで、想像はできた。

 でも、それがどうしても信じられなくて。

 友達もいない僕に、そんなことがあるのかと、疑ってしまう。

「……好き、だよ」

 消え入るような、終わりかけのろうそくの火のように吹けばなくなってしまうような、そんな声で彼女は僕に言った。

「友達として、とかそんなのじゃなくて……男の子として、の」

 疑いの余地なんて、もうなかった。

 目の前で彼女が僕を好きと言ってくれた。

 これ以上、嬉しいことなんてあるだろうか。

 もし、それが僕も好きな女の子からだとしたら。

「僕だって」

「え……?」

 その言い出しを聞いて、彼女は呆けた声を出してしまう。その声でさえ。可愛く聞こえてしまうんだ。

「僕だって……栞のこと、好きでっ……だから、いきなり距離を取られて……どうしたらいいか……」

「う、うそ……」

「『土曜日の僕』はわからない。でも、少なからず、ここにいる僕は栞といると、なんか楽しくて、もっと一緒の時間を増やしたくて……」

 北上さんはみるみるうちに顔を桃色に染めていった。ようやく目線が合ったときには、彼女のまあるい瞳からはポツリポツリと涙が零れていた。

「わ、私、てっきり……そういうふうに見られていないって……思ってたのに……うそ……」

 泣きじゃくる北上さんは両手で顔を覆い、涙を拭い始めた。

「嘘なんかじゃない」

「…………」

 少しして涙が収まったのか、赤くなった目で僕をじっと彼女は見つめる。

 涙目の北上さんを見るだけでも、心臓のドキドキが速くなり、体温が上がるような気がする。

「……もし、離れ離れになっても、私のこと、好きでいてくれる?」

 きっと、最初に言っていた別れた元彼さんのことを言っているのだろう。潤んだ声で彼女は僕に問いかけた。

「そ、そんなの」

 決まっている、って言おうとした。

 喉元まで出かかった。

 でも、そのとき、脳裏に僕の父親の姿がよぎった。

「……そんなの?」

 離れていないにも関わらず、あいつは母親を捨てた。いや、利用し続けた。

 そんなケースを間近で見て、絶対なんて、言えない。

「…………」

 だから、僕の口から答えは出てこなかった。

「まあ、そうだよね……遠距離になったら、わかんないよね。こうやって話すこともできなくなるし。触れることもできなくなるし、きっと、普通の付き合っている二人ができることのほとんどができなくなるもんね」

 必死に言うべき言葉を捜す。でも、上手い言葉が見つからない。

「峻哉君が、身体目的で告白するような人じゃないって思っているけど、でも、できないよりはできた方がいいでしょ?」

 ああ、きっと北上さんは不安なんだ。

 僕も彼女の心から離れるんじゃないかと。

 元彼さんと同じように。

「僕はただっ」

 だから、それを打ち消す言葉を、僕は口にしようとする。

「栞としたいから告白したんじゃないし、別に……遠くたって……それに、距離なんて近くたって冷めるときは冷めるんだ。それが理由になるんだったら、最初っからそうなるんだよ……」

 僕の両親のように。

 近くたって冷めるものは冷める。

「本当に……?」

「距離が理由で、心が離れたりはしない」

 なら、遠くても冷めないものがあってもいいじゃないか。

 きっと、僕はこの先そうそう女の人と関わることはしないと思う。そんななか、北上さん以上に惹かれる人なんて、いるのだろうか。

 多分、いない。出会える自信はない。

 きっと、この先、僕が異性に話しかけることなんて、怖くてできない。

「だから――」

 僕が二の句を継ごうとしたそのとき。

 北上さんのスマホから、着信を知らせるメロディが鳴った。

「ご、ごめんね」

 そう言いつつ彼女は画面を見て――硬直した。

「な、なんで……今更」

「……出ないの?」

「……ありがとう――も、もしもし」

 彼女は、立ち上がり神妙な顔つきで電話に出る。そして、何度か言葉のやり取りを相手としてからだろうか。

「ふざけないで」

 まるで、突き放すような。そんな色の声を出したんだ。

「侑真が他に好きな子できたって言ったから! じゃあ仕方ないかって別れたのに、今度はより戻そうって……勝手だよ!」

 そして、僕はその色の声に見覚えがある。

 黒くて、青くて、悲しい感情がこもった、色の声を。

「折角折り合いつけてってところに……そんなこと言わないで!」

 あれほど、もう聞きたくないと願った、色の声だ。

「……やめて」

 気づけば、僕は声に気持ちを出していた。

「え? あ、いやこっちのこと。侑真には関係ないから」

「……そんな声、出さないでよ」

 もう嫌だった。

 誰かの「そんな声」を聞くのが。

 それが、北上さんの声だとしたら。

 きっと、今一番聞きたくないものになっていたと思う。

「っ――だ、だから、もう電話してこないで」

 彼女はそう言いスマホをこたつのテーブルの上に置く。

「……ごめん、大きな声を出して」

 薄桃色の唇をキュッと噛みながら、そう言う。

 見つめる先は、自分の足元。

「……いや、いいよ。……元彼さんから?」

「うん」

 はぁとひとつため息をついて北上さんは続ける。

「……復縁しよう、だってさ」

「……え?」

「勝手だよね、付き合っている子と別れたら、また私のところに戻ってきて。クリスマスに彼女なしは寂しいからとか、どうせそんな理由だと思うけど」

 半分開き直ったかのような、そんな様子の彼女。

「……断ったよ、当然だけど。もう、気にしないって決めたんだから、そんな自分の状況で他人を振り回す人より、峻哉君の方がいい」

 少し頬を紅潮させながら、そう呟いた北上さんは、きっと今までのなかで一番可愛く見えた。

 結局その日、僕が家に帰ったのは、夜の十時だった。


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