第3章(7)

 でも、あのときあのお店に入っていなかったら、私と「峻哉君」が出会うことはなかったのかもしれない。

 たまたま目に入った静かそうなお店に入る。一人カウンターに座り、力の入らない手でメニューを広げた。

 何、頼もうかな……。

 そう思いつつ上から下へと視線をずらしていく。でも、段々その文字が次第に歪んでいって――

「……あの、どうかされました?」

 私の後ろから、そんな声が掛けられたんだ。

「ふぇ……?」

 振り向きざまに、そんな間抜け声を出してしまった。

 傷心した私に声を掛けたのは、今まで話したことすらない同じゼミの男の子だった。

 な、なんで……いや、確かに私も入ったことない隠れ家的な雰囲気がするいいお店だとおもうけど。

 ……よりによってこのタイミングで大学の人と会っちゃうの……?

「あ、失礼しました。なんか……様子があれだったので、つい……」

 その男の子は、大学で見る雰囲気とは全く違くて、最早別人なんじゃないかと思うほどだった。

 今考えれば、人格が違ったからある種別人と言えばそうなんだけど。

「……何か、お辛いことでも……?」

 彼は、木目の床に膝をついて目線を私に合わせてそう聞いて来る。

 座っている私と、膝をつく彼。

「あ、いや……その」

 こんな出会って間もない人に漏らしてしまうほど、私は苦しかったのかな。

「……ごめんなさい、急になんだよって話ですよね、よかったら一緒にどうですか? あいにく、僕も今一人なもんで」

 彼はそう言いつつ、私の反応をうかがう。

「い、いいですよ……」

「ありがとうございます」

 彼はニコッと笑みを浮かべ、私の隣の席に座る。

「あ、マスター、僕にカルピスサワー一つ下さい」

 常連なのだろうか、隣の彼はカウンター内にいる初老の店員さんに慣れた様子で注文する。

「だから俺はマスターじゃないと何度……まあいい。カルピスサワーな、ちょっと待ってな」

 店員さんも、お約束のやり取りと言わんばかりの感じで応対する。

「あ、あの……よくここに来られるんですか?」

 薄暗い照明の中、くっきりと見える彼の柔らかい笑みは、沈んでいた私の気持ちを少しずつ溶かしていく。ついさっきまであんなだったのに。

「はい。……あ、自己紹介がまだでしたね、僕は雫石峻哉。大学生です」

「ふふっ……」

 同じゼミでもう顔は知っているのに、わざわざ自己紹介してくれたことがおかしくて、つい笑ってしまった。

「あの……何かおかしかったですか?」

 いけないいけない。怪訝そうな顔をしている。

「ご、ごめんなさい、私、あなたと同じ大学で、同じゼミに所属しているんです。だから改めて自己紹介されるとは思っていなくて……」

 その言葉を聞くと、彼はみるみるうちに表情を硬くさせる。「やってしまった」といかにも言いそうな、そんな顔。

「あ、ああ……。ごめんなさい、僕、あまり友達付き合いなくて、名前とか覚えていないもので」

 今だから言えるけど、きっと「土曜日の峻哉君」は、自分が別の「雫石峻哉」であることを隠したかったんだろう。だから、私が同じゼミにいるって聞いたとき、やってしまったって顔をしたんだと思う。

「まあ、じゃあ私も。北上栞です。雫石君と同じ文学部二年です」

「北上さん、ね……よろしく。話を戻そうか、ここには週一で来ていてね、毎週土曜日はここに来ることにしているんだ」

「そうなんだ、毎週……じゃあ、結構もう常連で?」

「二十歳なってからは毎週行っているから、それなりかな……」

「へえ、そうなんですね」

 私と彼とで会話をしていると、カウンターから店員さんが彼に白い液体の入ったグラスを差し出す。

「お待たせ、カルピスサワーね。お嬢さんは、何か頼む?」

 白いひげを生やした優しそうな男性は、そう尋ねる。

「あっ、私、何も注文しないまま……ごめんなさいっ」

「いいよいいよ。入って来たとき、すごい辛そうな顔していたから。それより、何だよ峻哉、お前が一緒に酒飲もうって誘うなんて、意外じゃねえか。タイプだったのか?」

「そんなんじゃありませんって。ただ、あんな顔をされた女性が一人でお酒を飲むのもあれかなって思って」

「あ、いいんですいいんです、えっと……私はレモンサワーお願いします」

「はい、レモンサワーね。少し待ってね。その間、峻哉がトークで酔わせてくれるから」

 ニカっと白い歯を見せつつ、男性は奥の方に戻っていった。

「ったく……いい人なんだけどね、マスターは」

「だからマスターじゃあねぇって」

 どうやら聞こえていたらしく、キッチンの方からそんな声が響いてくる。

 彼は首をすくめ「やれやれ」と両手を広げて見せる。

「でも。だいぶ落ち着いたみたいで何よりです」

「あ……」

 気づけば、いつもと同じくらいのテンションで、彼と話していた。

 お店に入った時は鉛を抱えたかのように重かった気持ちが、今は羽が生えたように軽い。

「よかった、やっぱり泣いているより、笑っている方がいいです」

「あ、ありがとう……ございます」

「それで……どうしてあんな顔を?」

「…………」

 最初に聞かれたことに戻り、不意に黙りこくってしまう。

「あ、ご、ごめんなさい、こんなぽっと出の男になんかに話すことじゃないですよね行過ぎましたごめんなさい」

 そんな私を見てか、慌てて謝りだした彼。そんな彼の誠実な姿を見て、話してもいいかな、なんて思ったりした。

 話したら、スッキリできるかもしれない。そう、思ったんだ。

「高校生のときから、付き合っていた彼氏に……今日振られちゃって……」

「それは……そうだったんですね……」

 彼はハッと息を呑み、そう呟く。そして、私が自分のペースで話せるようにか、それ以外の反応は見せなかった。

「彼氏は――侑真って言うんですけど――横浜に住んでいて、遠距離になっていて。もともと私も侑真も東京に住んでいて、お互い遠距離になるのはわかっていたんだけど、……どうしても、高校生のときのような気持ちが持てなくて……物理的な距離が離れちゃうと、こんな簡単に気持ちって冷めるもんなんだなあって、悲しくて……」

「はいお嬢さん、レモンサワーね」

「あ、ありがとうございます」

 店員の男性は、さっとグラスを置くと、すぐに私たちの前から離れて行った。会話の流れを汲んでくれたのだろうか。

 私は今しがた置かれたレモンサワーを少し口に含む。程よい苦みとアルコールが、体のなかに落ちていく。

「侑真に別れ話切り出されたとき、『やっぱり、そうだよね』って思った自分が、嫌で嫌で……所詮恋なんて、そんなものなのかなあって……」

 また、私はレモンサワーを一口呷る。

「言ってみれば……やっぱりこの恋もレモンの味しかしなかったのかなあって……」

 そうして、私は話すのをやめた。一つ隣に座っている彼は、神妙な顔をしながら目の前に置いてあるサワーを少し飲んで私に言った。

「僕は、恋ってどんなものか知らないし、誰かにアドバイスできるような大層な知識を持っている訳じゃないんだ。……おい、折角話したのになんだよそれって思うかもしれないけど」

 自嘲気味に言う彼に対し「そ、そんなことないよ」と返す私。

「……綺麗な関係だけが、人間関係ではないって思ってるからさ……。別に、ひどいとか、そんなことは思わない」

 彼は静かに言葉を紡ぎ始める。それは、決して誰かを責めるような、そんな声ではなくて。

「……そのまま近い場所でいたって、気持ちは離れたかもしれないし……。遠距離になったことなんて、きっかけの一つに過ぎないんじゃないかな……?」

 正しいかどうかなんて関係なかった。いや、そもそも人間関係に正解不正解なんてないのかもしれないけど。

 誰かに肯定してもらえたことが、凄く嬉しかったんだ。

 その後、私と彼はお酒を飲みつつ、色々な話をして土曜の夜のひと時を楽しんだ。そして、別れ際のとき。

「……あ、そうだ。……今日、ここで会ったこと、学校とかでは話さないでくれるかな……?」

 彼は少し申し訳なさそうな顔をしつつ、私にそう言った。

「え? う、うん。別にいいけど」

「ありがとう。そうしてもらえると、ありがたいんだ」

 そのときは、どうしてこんなこと頼むんだろうって思った。

 でも、今なら理由はわかる。

 やっぱり、隠したかったんだ。

 夜も深くなり、地下鉄がなくなる時間に私と彼はお店を出た。

 結局、あれから何杯かお酒を飲み、私は足元が少しふらつくくらい酔ってしまった。……いつかの飲み会ほどではないよ。

「大丈夫? 送っていく?」

 夜道を走る車のヘッドライトが、彼の心配そうな表情を映し出す。

「だ、大丈夫……私、ここから家近いんで」

「……でも、こんな深い時間に女の子一人で歩かせるわけにも……それに、一応ここら辺って札幌じゃ治安が悪い方だから」

「……そうなの?」

「うん、あくまで印象と噂だけど、でも、全国区で報道される事件とかは起きたことある」

 そこまで言われてしまうと、断る理由もない。

「じゃ、じゃあ……お願いしようかな……」

「わかった。僕も家はここら辺だから、時間は気にしなくていいから」

「……ありがとう」

 オレンジ色の街灯並ぶ国道を、並んで歩き出す。

 ほんの一瞬だけ、胸のどこかが、ぽっと暖かくなったような、気がした。


 週末終わって、次の月曜日。演習の授業が終わると、私はつい帰る支度をしていた峻哉君に声を掛けてしまった。――約束を忘れて。

「あ……雫石君、土曜日は楽しかったね」

 声を掛けて、彼がポカンとした表情を浮かべた瞬間「あ、約束」っていう気持ちと、「え、なんで?」っていう思いが交差した。

 この間あんなに楽しく話したのに、どうして何もなかったような顔をしているんだろう。そう、思った。

「……えっと……北上さん?」

 そして、峻哉君のその一言で確信した。

 土曜日のこと、覚えていないんだ。

 理由はわからない。何か特別な事情があるのかもしれない。

「うーんと、人違いじゃない? 僕、土曜日は家から出ていないはずなんだ」

 ここで食い下がってもいいことはないなと瞬時に判断した私は、苦笑いを浮かべつつ、「あっ、そういえばそっか、そうだったな……ごめんね、私の勘違いだったみたい。今の話、気にしないでね」と峻哉君に返した。

「う、うん……別にいいけど……じゃあ、僕はこれで」

「うん、じゃあね、雫石君」

 教室を後にする峻哉君を見送りつつ、私はどこか行き場を失くした思いを宙ぶらりんにさせながら立ち尽くしていた。

 ……仲良くなりたいな……。雫石峻哉君と。


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