第3章(5)

 *


「っていう感じ……かな」

 僕はそうして、いわゆる土曜日にあったことの話を締めた。

 目の前にこたつで温まっている北上さんは、微動だにせず僕の顔を見つめていた。

「……ねえ、峻哉君」

 限りなく低い声で、彼女は僕に問いかける。

「今でも、土曜日は来ないで欲しいって思っている?」

 まるで、空から舞い落ちる粉雪を掴むかのような優しい声で彼女は言った。

 でも、どんなに優しく迎えたって、手のひらに落ちた粉雪は解けてしまう。

 僕は、その問いにしばらく答えることができなかった。

 わからなかったから。今でも、僕は土曜日を嫌っているのかどうか。

 僕が黙ってしまうことで、二人の間に気まずい沈黙が流れる。

「……わからない。でも、多分、どこかで嫌ってはいると思う」

 そして、積もった雪を押しのけるように、ゆっくりと僕はそう答えた。

 すると、北上さんはやはり申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、僕にこう言った。

「あのさ……もしかして、峻哉君、土曜日だけ別の人格が出ているんじゃないのかな……」

「え……?」

 瞬間、雪玉で頭を思い切り殴られたような気になった。

「な、なんで」

 僕は思わずそう口にし、こたつの中でぎゅっと自分の手を強く、強く握りしめた。

「ごめんね、私そういうのに詳しいわけじゃないけど、大体小説とかにでてくる、多重人格の人って、そういう過去を持っていて、自分を守るためにってよくっていうのが……」

 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだろうか。北上さんの言葉を僕はただただ見送るだけだった。

 ……僕が、多重人格? 土曜だけ、別の僕が現れている?

 そんなこと、あるのか……?

 僕はすぐに「そんなの、あるわけないよ」と否定しようとした。でも、喉元まで出てきたその言葉は、結局表に出てくることはなかった。

 だって、合理的に否定できる理由が思いつかなかったから。

 幽霊だってなんだってそうだ。頭ごなしに否定するのは簡単だけど、大体その理由は「見たことないから」「科学的じゃないから」っていう、それこそ科学的じゃない理由だ。

 見たことないからそんなものないって言ってしまえば、一体どれだけのものから僕は視線をそらすことになるだろう。僕は世界中のもの全てを知っているというのだろうか。

 あり得ない。

 少なからず「土曜日の僕」を知っている北上さんがそう言うのだから、可能性としては十分にあるのではないかと、思うようにはなった。

「……仮に、もし、そうだとして。土曜日の僕と、北上さんはどういう関係だったの? 友達、とかだったの?」

 途端、北上さんは唇を噛み、少し答えにくそうな雰囲気を出し始めた。

「えっと……うん、まあ友達ではあった……かな」

 言葉の節々に不自然な間が空いている。視線も明後日の方を向いていて、お世辞にもちゃんとした答えにはなっているとは言えない。

 あれ、でも。

 さっき北上さんは「峻哉君のせいではない」「峻哉君とは関係ない」といったことを言っていた。

 もし、彼女が僕の人格について初めて出会ったときから知っていたとしたら。

 彼女の言っている「峻哉君」って、どっちのことだ?

 いや、十中八九僕のことなんだ。

 っていうことは、何か北上さんにやらかしたのは……僕ではなく、「土曜日の僕」ということになる?

「……何か、僕はやったの?」

 声色低く、問いかける。彼女は俯いたまま何も答えない。

「じゃあ、土曜日の僕が、何かやったの?」

 すると、北上さんの肩がビクッと震えるのが見えた。

 その反応だけで、十分だった。

 わかった。そういうことだったんだね。

「……やったんだね、僕……?」

「違う……違うの……峻哉君は」

「どっちの峻哉君?」

 意地が悪いかもしれない。でも、弱々しい声を出している彼女に追い打ちをかけるように、僕はその声を遮った。

「っ、そ、それは、……」

 俯いた彼女は、そのまま体をこたつに投げ出した。

 もういいやと言わんばかりの格好。

「……峻哉君の言う通り、土曜日の峻哉君と、ちょっと……」

 こもった声の独白が、僕の耳に聞こえ始める。

「……私と彼が初めて会ったのは、峻哉君に初めて話しかけた前の土曜日」

 そうして、彼女の長い、長い話が始まった。


 *


 その日は、透き通るほど綺麗な青空が朝から広がり、絶好のお出かけ日和だった。

 目覚めて部屋のカーテンを開けた瞬間、「あ、これは出かけるしかないな」と思ったんだ。それほど、軽やかな朝の天気だった。

「どこに行こうかなー」

 大通公園もいいし、豊平川をぶらぶらと散歩するのもあり。テレビ塔もまだ上っていないし、円山動物園に行ってもいい。あ、そういえば今日から新作の映画が封切りされるはず。それを見に行ってもいいなあ。

「ふふ、どこ行こう」

 小さく鼻歌を奏でながら朝ご飯の支度をする。フライパンからジュージューと気味の良い音が家に響く。ほのかに焼けたベーコンのいい香りもしてきた。

「んーやっぱり映画館行こうかなー。見に行きたいのあるし」

 フライパンに卵を落とし、目玉焼きを作り始める。その間に、前もってつけていたトースターがチンと音を鳴らし、パンが焼けたことを教えてくれる。

「よし、これでできあがりっと」

 少しして目玉焼きも完成し、お皿にサラダと合わせて載せる。紙パックの牛乳を冷蔵庫からつまんで、リビングに朝ご飯を持っていく。

「いただきます」

 一人暮らしも慣れてきた二年の秋。毎週休みの日はこんなふうに少し時間をかけて朝食を作れるようにもなった。やっぱり高校のとき料理部入っていたの一人暮らししてから役立ってるなあ。

 ん、今日も上手くできてるできてる。腕は鈍ってないないね。よしよし。

 食べ終わって片付けも済ませたら、出かける準備を始めた。シャワーを浴びたり、髪の毛を整えたり、色々。

 まあ、特に誰かと会う約束もなかったから、支度もほどほどに、私は昼前に心地よい青空広がる札幌の街を歩き始めた。

 昼下がりの地下鉄はかなり閑散としていて、私は空いている席に座った。向かう映画館のある駅までたったの二駅だけど、別に立ち続けたいわけでもないのでそうすることにした。

 数少ない乗客も、私と同じようにほとんど大通駅で降りていった。きっと私と同じようにこれからどこか出かける人達だったんだろう。

 人で賑わう大通駅の地下街をのんびり歩いていく。色々な人の背中に追い抜かれつつ私は札幌駅にある映画館を目指した。


「うわぁ、やっぱり混んでいるなあ」

 誰にも聞こえないくらいの大きさで私はそう呟いた。

 エレベーターを降りて、映画館のフロアに着くと、そこには大勢の人でごった返していた。並んでいるチケット売り場、列が途切れないコンセッション、シアター入り口に集まるこれから入るお客さん。

 まあ、気づいていたけど、一人で来ている人は少なかった。

 大体が恋人同士か、友達連れ。もしくは家族か。

 恋人、同士か……。

「……いいなぁ」

 あ、いけないいけない。口に出てたよ今。

 ……別に、彼氏が欲しいって意味で言った訳でもないしね。

 それに……一応横浜に彼氏残しているし。

 高校三年の夏に告白された男の子と付き合い始めてからもう二年。最初は勉強の合間にするスマホでのやり取りが楽しくて楽しくてしょうがなかったけど、最近は連絡すら取っていない。

 なんなら、自然消滅したんじゃないかと思うくらいだ。

 そんな「独り身(笑)」な私は無事お昼の映画のチケットを確保し、ジュースを買うためにコンセッションに並び始める。

「ねー何頼むー?」「あーあのセットとかいいんじゃない?」「いいよー、じゃあそれにしよう」

 私の前に並んでいる二人組がポップコーンのセットの話をしていた。

 結構安くなるんだなあ……でも、今日は一人だから無理か……。

 今度、誰かと映画館来たときはこれ頼んでみたいな。


 ジュースとポップコーンを持った私は、チケットを係員の人に見せてからシアター内に入る。

 自分の指定した席に座り、軽くポップコーンをつまんでいると、公開初日ということもあってかすぐに私の両隣に人は座った。

 そのどちらもがカップルという切ない事実に、少しだけ悲しくなる。

 ……端から見れば、私寂しい人だこれ。

 仲睦まじい姿を両サイドから見せつけられ、高校生のときの私と彼もこんな感じだったのかなあと客観的に見てしまったり。

 受験生だったから、そんなにデートとかは重ねなかったけど、一緒に帰ったりとか同じ予備校通ったりとか色々共有する時間は多かった。

 あの頃の私達は、付き合っている彼氏彼女だった、はずなのに。

 お互いが第一志望校の国立大学に受かったことで、私は札幌に、彼は横浜に行くことになった。

 志望校が別で、離れ離れになることもわかっていた。こうなることは、付き合い始める前から予想していたことなのに。

 ……どうして、今はこうなっているんだろう。

 映画の中の主人公たちも、あんなに幸せそうに恋人との時間を楽しんでいるのに。

 私は、どうして、こんなに寂しいんだろう。


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