第3章(4) ※若干の暴力描写有り
*
ドン! バタバタ!
そういう聞きなれた音がするのが、毎週土曜日の習慣だった。
ああ、また始まったんだな、と当時の僕は思っていた。
「ほらぁ、金よこせっ言ってんだろぉ? ああ?」
再び、鈍い音が家中に響き渡った。現場のリビングの隣にある僕の部屋にまで聞こえるような、そんな大きさだ。
父親が、母親に暴力を振るい始めたんだ。
僕はそんな音を聞きたくなくて、少しでもそんな状況から遠ざかりたくて、頭から布団をかぶって丸まっていた。
「おい! 出せよ! 誰が稼いだ金だと思ってんだよ! ああ? おい!」
言葉が区切られるとともに聞こえる何かを殴る音。
実際、誰が稼いだお金かと言われると、八割母親なんだけど、このクソな父親はそんな事実を棚にあげてこうして金を巻き上げている。
ドン!
また。まただ。
「うぅ」と母親のうめき声が今度ははっきりと僕の耳にも聞こえた。
聞きたくない、聞きたくない。
子供だった僕が思うのは、早く、早くこの時間よ、終わってください。
それだけだった。
「おらぁ! まだ痛い思いしたいのかあ?」
父親がこうなるのは決まって土曜日だった。多分だけど、毎週土曜日に別の女とでも会っていたのだろう。そのときの僕は理由なんて想像することもできなかったけど、毎回母親に手を上げる際、
「ったく……てめぇが子供産んでからこうなって最悪だよ、やっぱ生まなければよかったよぉ」
ほぼ必ずこう言っていた。
まあ、きっとあの父親は身体目当てで母親に近づいたって訳だ。用が済んだらあとはATMにして吸い取るだけ吸い取る。
そんな、クソな父親だった。
最初はたった数分で終わった。ただ、段々父親の暴力は長く、激しく、何も悪くない母親の体を痛めつけていった。
ようやくお金を奪ったのだろう、父親は満足したような声をしつつ言った。
「ほい、じゃあ貰うわ」
そして玄関の方からバタンとドアが閉まる音がする。
家に、嵐の後の静けさが訪れた。
それから何分くらい経っただろうか。
僕の部屋のドアがゆっくりと開く。
「……ごめんね、いつも怖い思いさせてね」
何事もなかったかのように気丈な声を出す母親。
その強がりが、ますます僕の胸をきつく締め付けさせる。
布団にくるまった僕の側にそっと寄り添うように添い寝する。
「……よし、よし……」
僕の頭を優しく撫でてくれる手は、間違いなく母親のそれだった。
しばらくそうしていると「よし」と母親が言い、立ち上がる。
「カレー、作ろっか」
被っていた布団をそっと優しく、まるで子犬でも撫でるかのような手つきで剥ぐ。
明るくなった視界に映ったのは、無理に作った笑顔を浮かべる、傷だらけの母親の顔だった。
つらいはずなのに、怖かったはずなのに、毎週食べるこの日のカレーが美味しくて、僕の好物になってしまった。
その次の週も、リビングから母親のうめき声は聞こえた。
次の週も、何かが割れる音が僕の部屋まで響いた。
翌週も、より長く、より激しい破壊音が届いた。
そんな土曜日を送り続けているうちに、僕はこう思うようになった。
神様、どうか。
土曜日をなくして下さい。
こんな土曜日、僕はいらない。
土曜日なんて、来ないで欲しい。
僕が欲しかったのは、こんな、こんな――
「ぁぁ!」
窓の外からチラリと粉雪が顔を覗かせるようになった頃の土曜日。
僕の布団を乱暴に剥いだのは、父親だった。
布団を剥ぐや否や僕の胸倉をつかみ上げ、思い切り顔を叩く。
「やめて! 峻哉は無関係でしょ! この子には手を出さないで!」
父親の体越しに、血相を変えて僕の部屋に飛び込んでくる母親の姿が見えた。
「お前が生まれてこなければよかったんだよお! そうしたらもっと今頃俺は楽できたってのに、金はかかってかかってしょうがねえ!」
そして、もう一度そいつは僕の腹を殴る。
「ぅっ!」
違う。僕が欲しかったのは、こんなんじゃない。
「やめて! もうやめて!」
必死に母親はそいつにすがりついて止めようとする。
違う。僕が欲しかったのは、こんな悲しいものじゃない。
「おらぁ!」
そして、そいつが大きく腕を振りかぶった瞬間。
僕は、咄嗟に身をかわし、部屋に落ちていた父親の財布をつかみ、ハンガーにかけているコートを抱え家を飛び出した。
「あっ、おい! 待て! 待て! って離せよおい! 離せ!」
後ろから、そんな声がした。振り向くことはしなかった。
そんな姿、見たくなかった。
僕が欲しかったのは、それじゃないと知っていたから。
寒空の下、僕は豊平川の川淵を走っていた。豊平川は、東京でいう所の墨田川的な存在で、毎年七月末に花火大会を開いている。そして、札幌で開かれる川での花火大会はそれが唯一だ。
足が少し沈むくらいに積もった雪は、夏よりも確実に走るスピードを落とさせる。冬用の少し重い靴もそれに拍車をかける。
目指していたのは、藻岩山だ。
札幌市街から五キロ足らずの距離にあるこの山は、特に冬のスキー場として札幌市民に慣れ親しまれている。多分、地元の小中学生は必ずと言っていいほど藻岩山でスキー授業をするんじゃないかな。
勿論、僕が向かったのはスキー場ではない。
藻岩山展望台だ。
今でこそ長崎・神戸に並ぶ日本三大夜景に札幌は選ばれているけど、このときはまだ函館にその座を渡していた。
だからかどうかは知らないけど、スキー場に比べ、それほど知名度は高くなかった。今もどうかはわからない。
それでも、僕は展望台を目指した。
いつの間にかできていた手の傷や、ほのかに感じる足の痛みは、あいつにやられたものだけではなく、きっと途中雪道で滑ったからというのもあるだろう。でも、気づかないほど僕は無我夢中で走っていた。
目の端に映る、所々雪が浮かんだ水面が視界を流れていく。
そして、徐々に近づいていく藻岩山。
あと少しで展望台に繋がるロープウェイの乗り場というところで、視界が薄暗くなった。
日没の時間になったんだ。
冬の札幌は大体午後四時半を回ると薄暗くなり始め、五時を過ぎると真っ暗になる。
家から走ってここまでやって来た。途中、あいつに捕まるんじゃないかと不安にもなったけど、母親がなんとか止めてくれたのか、あいつの興味が僕から母親に移ったのかはわからないが連れ戻されることはなかった。
四階建ての白を基調とした駅舎は、出口に向かってそれぞれのフロアに窓が貼られていて、建物のなかからも景色を一望することができる。まあ、山頂に比べるとどうしても見劣ってしまうけど。
僕は建物の中に入り切符売り場に並び、係員の人に「山頂まで往復で」と短く伝える。
すると、顔に少し傷があるのが怪しまれたか、それとも子供一人でここにいるのが不審に思われたのか、きっと両方だろう、係の人に、
「……一人で来たの? 保護者の方は?」
そう聞かれてしまう。
「先にもう入ったみたいなので、もう上にいるんです」
僕は咄嗟に思いついた嘘を話す。
きっと一人ですって言っても、後から来ますって言っても切符は売ってくれないだろう。一人なんて論外だし、後から来るって言ったら「じゃあ来るまで待っていようか」って提案されるのがオチだ。そのときの僕はそう考えた。
顔色一つ変えずにそう即答したのが効いたか「そう? 八五〇円です」と係のお兄さんは切符を売ってくれた。
逃げるときにひったくって来た父親の財布から千円札を出し、山麓駅から山頂駅までの往復の切符を買い、そのままロープウェイに乗り込む。
本当は札幌市民割引なんてものもあったみたいだけど、身分証明書なんて当時小学生の僕が持ち歩くわけもなく、普通の子供料金で往復せざるを得なかったからまあいっか、なんて今は思っている。
土曜日の日没直後ということもあり、少しロープウェイは混雑していた。上着がこすれる音がそこら中に響きながら、ロープウェイは中腹駅に向かう。
五分くらいでロープウェイは中腹駅に着いた。乗降口からホームに降りて、今度は山頂に向かうケーブルカーに乗り換える。ゆっくりと山頂目掛けて動き出すケーブルカーは、多くの人の期待と、僕の恐怖とを運んでいく。
普通なら、これから見える夜景に胸躍らせるはずなのに、むしろそれが見たいと思ったから僕はここまで逃げてきたのに、僕の心は未だ黒い感情に占められていた。
ケーブルカーは一瞬で山頂まで僕等乗客を連れて行く。
ドアが開くと、当然と言えば当然だけどふもとよりも冷えた空気が僕に突き刺さる。
まず駅舎に入り、他の人たちを尻目にどんどん階段を上っていく。レストランとプラネタリウムがあるフロアを通過して、屋上へ。
屋上に上がり、ドアを抜けると。
そこには、黒の空を背景に、一面光の海が広がっていた。
どこからともなく歓声やどよめきが耳に聞こえる。
オレンジ・白・赤・青といった色々な色の風景。
動いている車のライトすらくっきりと映るキャンパス。
綺麗だ。綺麗な光景のはずなのに。
やっぱり、僕の心は晴れない。
――僕の欲しいものは、やはりものではない。風景でもない。
そもそも小学生に夜景なんか見て心が洗われるのかと言われると「?」マークが頭上に点灯はする。でも、前に一度母親と見に行ったとき、凄く印象に残ったのは覚えている。
でも、今はそうは思えない。
ただの光の風景にしか見えない。
それほど、僕の心は死んでいた。
冷たい風が、僕の体を震わせる。ポケットに突っ込んだ手が、微かな温もりから逃れまいと、そこから出るのを拒む。
だから、涙を拭うことすらままならかった。
泣いていたんだ。
気が付けば、景色が縦に横に歪み始めていたんだ。
頬に伝って、地面に落ちて、涙は積もっている雪を少し融かす。
ほんの、少しだけ。
この涙は、何に対する涙なのだろうか。
あいつに対する恐怖からだろうか。
傷ついている母親を見てのそれだろうか。
この夜景を一人で見ているという事実に対してだろうか。
全部答えで、それで、きっと。
ちょうど一人分空いた僕の隣のスペースも答えなんだ。
誰だっていい。誰でもいいんだ。
この景色を、隣で見てくれる人が、僕は欲しかったんだ。
その後、僕は終列車の時刻まで、一人で景色を眺めていた。
あいつの暴力は止まらなかった。僕にも手を上げるようになり、エスカレートもしていった。
でも、僕にも手を出し始めたことで、母親の我慢が限界に達したのか、春になる頃には離婚にこぎつけていた。色々揉めに揉めて、面倒なことになったけど、無事に離婚できたようだ。その際、名字が今の雫石に変わった。母親の旧姓だ。
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