第3章(3)


「……着いた」

 長い距離を走ったのと、彼女に会いたい一心から生まれる息の切れを落ち着かせる。

「ふぅ……よし」

 数秒もすると、息は整い、僕は102号室のチャイムを鳴らす。

 しばらく待つけど、北上さんは出てこない。

 少し吹きつける冷たい風と、カラスの鳴き声だけが辺りに響く。

 もう一度、僕はチャイムを鳴らす。

 …………。

 やはり、応答はない。

「……駄目、か」

 僕がそう呟いて彼女のアパートから引き返そうとしたときだった。

 僕の後ろから、雪を踏みしめる一つの足音がした。

 なんとなく僕はその方を振り返る。

「……なんで、ここにいるの?」

 この声色、つい最近聞いた。

 冷たく刺すようなこの声色。

「……一人にしてって言ったよね?」

「いっ、いや……」

 この間、完膚無きままに叩かれた映画のときの男子学生のことを思い出し、声が詰まってしまう。思わず、後ずさりまでしてしまう。一度離れたはずの北上さんの家のドアが再び背中に近づく。

「不安というか、やっぱり僕が何かやったんじゃないかって……」

 僕がそう返すと、なぜか北上さんは苦しそうな表情を一瞬浮かべてから、再び険しい表情に戻す。

「……関係ないって言ったでしょ」

「でっ、でも」

「いいから放っておいてよ」

「なんで急に」

「なんだっていいでしょ」

 本当に何があったんだ。なんで僕はここまで拒絶されているんだ。

 北上さんは何の理由もなく誰かを拒絶するような人じゃない。それは僕が知ってる。

「……ごめん、もう帰ってくれないかな」

「…………」

「帰って」

 ここまで怒った、というか帰れと言われ抵抗する策を見いだせなかった僕は、トボトボとした足取りで自宅へ帰って行った。

 その日、晩ご飯に何を食べたか、いつ寝たのかを僕は覚えていない。


「ありがとうございましたー」

 北上さんに「帰って」と言われた翌日。僕は半ば放心気味にバイトに出ていた。どこか機械的になる作業と言葉。

 そんな僕の様子を見てか、いつもの先輩が心配そうに声を掛けてくる。

「……どうかしたか? 雫石」

「なんで……」

「おーい、雫石」

「えっ、あ、はい」

「どうかしたのか? 今日、ずっと変だぞ」

「い、いえ……何ていうか……その」

「フラれたか。あの普乳の女の子に」

 真面目な顔をしながら普通にこんなことを言う先輩。ぶれないなあ……。

「別に、フラれたわけじゃあ」

「でも。フラれたんだろ?」

 でも、とフラれた、の間に空気が入り込んで、だから僕は最初のフラれたと後のフラれたの意味が違うことに気づく。

「……わかんなくて、何があってこうなったか……聞いても教えてくれないし……」

 僕が先輩にこんなことを言ったのは、きっと、誰かに聞いて欲しかったからなのか。それとも、半ばやけくそになって自力での解決を諦めてのことなのか。

 女を抱いて価値観が変わったと自称するこの先輩ならもしかして、と思ったりしたのか。

 決して仕事の手は止めないが、先輩は重々しい声色で僕にゆっくりと答え始めた。

「雫石はさあ、あの子のこと、どれだけ思ってた」

「……どれだけって。僕にそんなことわかると思います?」

 きっと、これが初恋の僕に、わかるのか?

「悪い悪い。聞き方を変えよう。じゃあ、あの子の身体想像して興奮するか?」

「っ――」

 こっ、この人は……やっぱり最低だ。

「ま、その反応はそうみたいだな。まあ、誰だってそうだよ。健全な若い男なら基本どんな女の身体妄想したってそうなるって」

 でも、いつもと違う、と思ったのは、こういうとき基本砕けた表情をする先輩が終始真面目な顔をし続けていること。

「じゃあ続きだ。その子がお前以外の男と致しているのを想像してみろ?」

 ……できるかぁとツッコミを入れたかったけど、それでもできてしまうのが悲しい性なのか、僕は脳内で北上さんとこの間のオシャレな男がそーいうことをしている場面を妄想してしまう。

「どう思った」

「……凄く嫌でした」

「できるなら、そこにいる男と立場かわりたいか?」

「……かわりたい、というか……別に僕、あの子とそういうことしたいわけじゃないから……」

 それは本音だ。別に、身体目的なんかじゃない。

 ただ、僕は。

「僕は、彼女の隣にいて、話して、同じ時間を共有したいだけなんで……」

「……なら、それを伝えてみろよ」

「え?」

「どうしてお前と距離を取り出したのかを聞くんじゃなくて、お前が彼女と一緒にいたいってことを伝えるんだ。理由を言わないのにも理由がある。それを無視して問いただしたってますますややこしいことになるだけだ。まあ、雫石がその理由がわかるなら話は別だが」

 先輩は売り場をぐるっと見渡す。

「……お前を見ていると眩しくてさ。……俺にもそんな純粋な気持ちで女を見ていた時期があったのかなって、つい」

「……先輩」

 あれ、なんかいい雰囲気……。

「まあ、そんな恋をした相手にもすぐ押し倒して一夜のアバンチュールしたけど」

「……折角いい話になりかけたのに」

「まあまあ。そういうことだ。お前なら多分大丈夫だよ」

 先輩はほんの一瞬だけ、作業の手を止めて僕に言った。

「純粋ないい奴が好きになるのは得てしていい女だけだって相場が決まってんだ」

「……それ、ソースどこですか」

「……俺? だって、俺のもとにいい女しか来てないしな」

「なんですかそれ」

 僕は小さく笑いながら、先輩に心の中でそっとお礼を言う、

 ありがとうございます、先輩。

 直接言ったら、きっと調子に乗るんで言いませんが。

 なんとなく、どうしたらいいかわかりました。


 木曜日。北上さんと喧嘩もとい疎遠になってから三日が経った。この日も空きコマは合わないので、授業が終わったら彼女の家に出向くつもりでいた。

 今までほぼ毎日やりとりしていたSNSの連絡もない。レポートの話すらできない。

 そんななかで、また家に行ったら怒られるに違いない。

 それでも、僕は彼女と話したい。

 話したいんだ。

 授業が終わり、僕は教室を出て、地下鉄の駅に向かう。踏みしめる雪の音が、ゆっくりと僕の耳に届く。サク、サク、と靴が雪を切る音が心地よい。

 一昨日のときとは違って、なんとなく落ち着いて彼女の家に向かえる。

 誰かに話すだけで、こんなに落ち着けるものなんだなと、ある種の驚きも感じている。

 地下鉄を乗り継ぎ、彼女の家の前に着く。

 雪の積もった共同玄関を通り、102号室のチャイムを鳴らす。

 今日は家にいたみたいで、少しして「はい」とドアを北上さんは開ける。

「どちらさま……し、峻哉君……」

 半開きのドア越しに、気まずそうな顔をしている北上さんと目が合う。

「ごめん、どうしても話したいことがあって」

 僕の姿を認めるや否やドアを閉めようとする彼女を見て、僕は足でドアを押さえる。

 ドアの縁を手で押さえて、北上さんの目をじっと見つめる。……あれ? これって壁ドンに近い奴? なんか名前ついていたっけ……?

「か、帰って」

「ごめんそれは無理な相談」

 ドアを閉める力を強くするけど、残念僕だって普通の男くらいの力は持ち合わせている。

 ドアは閉まることなく、僕と北上さんの間に重たい空気を残す。

「帰って……帰ってよ……じゃないと……」

 すると、段々と北上さんの声も、腕の力も、少しずつ弱くなっていく。

「……また、間違い起きちゃうから」

 力なく発されたその言葉は、間違いなく僕の耳にも届いた。はっきりと聞こえた。

「え? ……またって、何」

 記憶にない。

「間違いって、何?」

 僕がそう聞き出そうとしたとき、彼女の瞳から、融けた感情が雫となって一つ、二つと零れ始めていた。

「違うの……峻哉君は何も悪くない……悪くない……」

 そして、ゆっくりとその場に崩れ落ちながら、北上さんはそう漏らした。

「……何、が……?」


 落ち着いた北上さんに中に入れられ、またあのこたつに入る。温もりそのものは変わらないはずなのに、どこか落ち着かないのは、別に出ても惜しくはないと思うのはさっきの北上さんの様子を見ているからだろうか。

 無言でお茶をトンと置く彼女。その表情は乾いていて、きっと中は感情の雨で濡れているんだ。

 何も会話が生まれないまま、僕と北上さんはこたつの中で向かい合う。

 ど、どうしたら……。

「ねぇ……峻哉君、私が初めて話しかけたときのこと、覚えてる?」

 恐らく時計の針が三周しただろうってときに、目の前に座っている彼女が重々しく口を開いた。

 初めてって……あのとき、か?

「土曜日、楽しかったね?」

「そう、それ」

「覚えているよ。何かの間違いかなって思ってた」

 僕は持ってきてくれたお茶を一口すする。あ、温かい……。

「……峻哉君はさ、その土曜日、何してた?」

 まるで、物凄く申し訳ないことを聞くように、北上さんは僕に尋ねる。

 何だろう、そんなに変なこと聞いているようにも思えないんだけど。

 僕は記憶をさかのぼって、北上さんに聞かれた日のことを思い出そうとする。

「うーんと、家でずっと本読んでいたかな」

 僕の答えを聞くと、北上さんは「やっぱそうだよね」と言わんばかりにため息を一つつく。

「あのね……落ち着いて聞いてね」

 彼女は僕に諭すようにして言葉を続ける。

「その土曜日、確かに私は峻哉君と会っていた。一緒にお酒も飲んだ」

 突如告げられたことに、僕は驚きを隠せない。思わず目を見開いてパッチリと彼女の瞳を見つめてしまったし、「あ、え……?」なんてよくわからない言葉さえも漏らしていた。

「嘘じゃないの、信じられないかもしれないけど」

 いたって真剣な表情で、北上さんは続ける。

「で、でも……なら……どうして」

「……ねえ、峻哉君って、土曜日に何があったの……?」

「え? だから家で本を――」

「違う、そういうことじゃなくて」

 僕の声を遮るようにして、彼女は言った。その少し強くなった声色から、僕は質問の意図を測った。

「……それって、僕に昔あったことを話せって言ってる?」

 できればやりたくないことだったから。言いたくないことだったから、僕の声は自然と低くなった。

 北上さんはゆっくりと頷く。

「……それが、今のこれと関係あるの?」

 もう一度、彼女は髪を上下に揺らす。

「本当に聞きたいの?」

「……うん」

 まるで葬式か何かに出席しているときのような、そんな真面目な顔をしている彼女を見て、興味本位で聞いているわけではないと察した。

 真っすぐ、僕を見つめる丸い瞳を見て。

「……わかったよ、でもどこから話せばいいのかな……そうだな――」


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