第3章(2)


 授業後、いつもなら「さ、帰ろ? 峻哉君」とかなんとか言われるものだけど、それもなく、僕は北上さんに何も言われることなく荷物をまとめて、教室を出ようとした。

 結局、あれから授業中一度も北上さんと会話しなかった。

 休み時間の喧騒集まる廊下に僕は立ち止まる。

 なんとなく、このまま帰ってはいけない気がした。

 だって、今まで僕が黙っていても話しかけてきた北上さんがほとんど話さなかった。何かあったと考えるのが自然だろう。

 続々と教室を出て行く同じゼミの学生を見送り、恐らく最後の一人になったところで、北上さんが教室から出てきた。

 目が合った瞬間、彼女はハッと息を呑んだ。そして、少しうわずった声で僕に話しかける。

「……か、帰ったんじゃないの?」

「いや、さ……なんか様子がおかしかったから……」

 ただただ不安だった。急に話しかけられないだけで、ここまで心のやり場がなくなるなんて。

「……峻哉君には、関係ないよ」

 それだけ言うと彼女は「じゃあね」と僕に背中を向けて、学部棟の出口へと向かい始めた。

「ま、待って――」

 僕は立ち去ろうとする彼女を慌てて引き留めようとして、肩を掴んでしまった。

「――っ」

 そして、僕がそう声を漏らしたのは。

 伸ばした右手が、彼女の右手で払われたから。

 すぐに北上さんも我に返ったみたいで、

「ごっ、ごめん……」

 僕にそう謝った。

「で、でも……今日は、一人にさせてくれないかな」

 再び、彼女は僕に背中を向けて、トボトボと弱い足取りで帰って行った。

 払われた右手は、行き場を失くしたまま宙をさまよっていた。

「な、なんで……?」

 右手と同じように、放たれた僕の言葉も、誰にも届くことなく、人が行き交う廊下に落ちていった。

 室内だと言うのに、少し寒気がしたのは、きっと気のせいではない。


 一人で歩く月曜の帰り道。最近は、隣から雪を踏みしめる音がしていたのに、今日はそれがない。

 一体、何があったんだ。「峻哉君には関係ない」と北上さんは言うけど……果たしてどうなのか。

 僕にはわからない。

 でも、何もしないわけにはいかないし、そうじゃないと気になって仕方ない。

 寒空の下、白い息を吐き出しながら僕は北上さんに連絡をする。「本当に僕は関係ないの?」って。

 僕に関係ないなら、どうして僕への当たりが変わる。そこが変わるということは即ち僕に関係する何かが北上さんにあったっていうことに違いないんだ。

 ただ問題があるとしたら、北上さんにそれを僕に言う意思が今のところないのと、僕にそのような心当たりがない、ということだ。


 翌日、火曜日。三限の空きコマに僕はこの間まで一緒にいたあのベンチのあった場所に向かう。

 勿論と言えば勿論だけど、北上さんの姿はなかった。

 一応学食や図書館、北上さんがいそうなところを探してみたけど、彼女の姿を見つけることはできなかった。

 探しても探しても見つからない北上さんの影。さながら、ウォーリーのいないウォーリーを探せとか、見つけるものが載っていないミッケ! をやっているような気分だった。時間を追うにつれ、めくるページの手の動きが機械的になっていく。

 そもそも、北上さん、大学に来ているのか?

 僕がその考えに至るのに、時間はそれほど必要としなかった。文学部の学生が行きそうなところをあらかた探し終えて、どこにもいないとなると、当然次はそう思う。

 ……どうする。

 最後に探した国文学研究室の中で立ち止まり、僕は考える。

 数々の辞書や研究書、文献や史料に囲まれたなか、次の一手を探す。

 ――そういえば、レポートはどうなるんだろう。

 だからこそだろうか。研究室で立ち止まったからだろうか。そんなどうでもいいことを思ったのは。

 いやいやいや。今はそんなことより、北上さんのこと。

 ……もしかしたら他学部棟にいたのかもしれないし、授業には来ているかもしれない。今すぐ家におしかけるなんてことはまだしない方がいいかも……。

 僕の授業が終わったら、北上さんの家に寄っていこうかな……。

 そう決意をしたとき、三限の授業が終わるチャイムが鳴った。

 そろそろ四限の教室行かないと。

 とりあえず一旦北上さん捜しを中断して、僕は授業に出ることにした。

 本当は捜したい。けど、あてもないまま捜し回っても見つかる気はしない。授業で頭を冷やしてからもう一度捜してみよう。


 四限の授業も終え、教授が「これで今日の講義は終わります」と言うと同時に教室を僕は飛び出した。いつもはわからなかったところを教授に聞きに行ったりしていたものだけど、それをする時間すら惜しく感じた。

 早く、早く北上さんと話したい。

 粉雪舞い落ちる大学構内を走り抜ける。転ばないか心配でもあったけど、二十年も札幌に住んでいる地元っ子にそんな心配ご無用だった。

 冬だからか、この時間でも街は薄闇に包まれている。彩るイルミネーションが僕の視界を左右に通過していく。光の尻尾が駆け抜ける。道を走り抜けていく車はテールランプを揺らしながら僕を追い抜きすれ違い、買い物帰りの母親らしき女性は赤いソリに子供を乗せて引いている。

 駅に入り、ちょうどホームに入って来たさっぽろ・すすきの方面の電車に乗り込む。切れた息を整えている間に、電車は乗り換えの大通駅に到着、僕は降りて階段を駆け下りた。

 夕方の帰宅ラッシュよろしく、大通駅のホームは大勢の人が電車を待っていた。電車を待つ列の最後尾につく。

 ……どうして、僕はここまで必死に、急いで彼女を捜すのだろうか。

 突然様子が変わった彼女が心配だから。

 僕が何かやったんじゃないかと思うから。

 それに。

 やっぱり彼女といた、あの時間が楽しかったから。

 それが一番だと思う。

 彼女といると、楽しいんだ。心が安らぐんだ。

 だから、彼女と話したい、関わりたい、近づきたい。

 それが、答えだと思う。

 ホームに滑り込んで来た電車に乗り込み、彼女の家の最寄り駅で降りた。

 あとは、もう一度家まで走るだけ。

 もう場所を覚えた彼女の家に到着したころには、空も時刻も夜と言って差し支えないものになっていた。

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