第2章(6)

 北上さんと結構楽しい時間を送った日曜日から日をまたいだ月曜日。僕は例のごとく一人ゼミの教室で黒板の近くに座っていた。昼休みから座っていて、基本誰に話しかけられることはない。ただ、最近は話が違う。

 北上さんがいる。

 彼女が早く教室に来たときは、授業前にも結構それなりに話す。昨日見たテレビの話や、今度発売される新刊の話や。テレビに関してはほとんどついていけないけど。

 今日は早く来る日だったみたいで、昼休みが始まって十分くらい経つと、頬を寒さで真っ赤に染めた北上さんが教室に入った。

「あ、おはよう峻哉君」

「今昼休みだけど」

 さすがに正午過ぎてからおはようはない気がする。そんな今起きたとかじゃない限り。

「昨日ちょっと夜更かししちゃって、起きたの十一時」

 ごめん、その限りだったんだね。

「……おはよう」

 気を遣うような間をおいて、僕はそう返してあげる。

「なに―? その憐れむような感じの声」

「夜更かしって、僕が帰った後何してたの」

「え? えーっと……読書?」

 視線がお空に飛んでいるよー。もう少し上手く誤魔化そうよ。

 北上さんは当たり前のように僕の隣の席に座る。ここ最近の指定席だ。

 で、読書って返って来たけど、きっと嘘なんだろうな。まあ、あまり詮索するのもいい趣味ではないからそういうことにしてあげよう。

「そのおかげで朝寝坊しちゃって……二限切っちゃった」

「へー、それは大変だったね」

「すごい棒読みだね」

 ジト目で見つめられるが構わない。

「まあ、いいや。今日寒くない? 一気に気温下がったよね、起きても布団から出られなくて」

「まあ、確かに今日はお昼でもそれほど気温上がってないからね」

「……カイロが一つ増えました」

 恥ずかしそうに言う彼女を見て、僕は内心「マジかよ」なんて思ったりもした。半分冗談で言ったことだったから、本当に増えるなんて思っていなかった。

「お疲れ様です」

「と、ところでさ、今週の金曜日って、峻哉君ひま?」

 なんだろう……またお誘いなのかな。

 心のどこかに芽生えたわずかな感情に気づきつつ、僕はいつも通り「どうかした?」と聞き返す。

「いや、映画、どうかなーって。サツエキで」

 先に断っておく。サツエキとは札幌駅のことを指す。札幌に住んでいる大体の学生はさっぽろえきなんて言わずにサツエキって略して言う。最近の傾向ですね。はい。

「まあ、空いてはいるけど……何見るの?」

「えーっと……小説原作の……恋愛映画?」

 僕はその言葉を聞いて北上さんが何を見ようとしているか想像がついた。多分、北上さんが見そうな映画でかつ恋愛モノとなると一つくらいしかない。

「僕と見に行くの?」

 正直、恋愛映画を付き合ってもいない男と見に行くって結構なハードルだと思うんだよな……。

「一人で観に行くのは恥ずかしいし……同性の友達と行くのもなんか違う気がしてさ」

「……まあ、一回くらいなら別にいいけど、僕でいいの?」

 別に僕じゃなくても、他にもっと仲良い男友達いるんじゃ……?

 北上さんとは、僕がそう思えるような人だ。最初に話しかけられたときに思ったように、僕に話しかけてくれただけ奇跡のような存在なんだ。最近よく話すことがあるから感覚麻痺しているようなところあるけど。

「うん、峻哉君がいいな」

 そんな彼女が言う一言に、一瞬ドキッとする。いやいやいや。

 ――大切にしてあげなさい

 この間母親に言われたことが、ふと脳内をよぎる。

 そんな都合いいことあってたまるか。小学生に冴えない兄ちゃんって言われるこの僕だぞ。

 友達として、だろう?

 そうに違いない。うん。

 僕はとりあえずそう結論付けて、彼女の言葉の続きを待った。

「金曜日の夜七時にサツエキの映画館で待ち合わせね、大丈夫?」

「うん、いいよ、わかった」

「今から楽しみだなぁ……」

 さながら明日の遠足を待つ子供くらいの表情で、そんなことを言う。僅か一メートル隣に見える横顔は、少しずつ肌色に色を戻してきていた。

 次第に教室に人が増えていくにつれ、ざわめきが大きくなってくる。不意に後ろから視線を感じることもあったけど、きっとそれは僕ではなく北上さんに向けられたものか、そもそも僕の気のせいか、どっちかだろうと思った。


 その日の夜、僕は家に帰ると、これから仕事に行く母親と玄関ですれ違った。

「あ、おかえり峻哉」

 普段通りの声色でそう言われる。

「ただいま、僕、金曜の夜に映画見に行くから帰り遅くなる」

 会ったときに予定を伝えておかないと一週間会えないこともままあるので、僕はすれ違いざまに金曜日の予定を伝えた。すると、母親の表情が一変する。

「もしかして、この間の電話の子と?」

 あ、これやばいかも。

 この声色は。

「そうなの? そうなの? デート? デートなのね?」

 ああもう駄目だ帰って来ない。こうなるともう僕の話は聞こえない。

「それなら金曜日、ちゃんと掃除して家空けておくから。多分仕事だから大丈夫だと思うけど……しっかりね」

 何がしっかりね、だ。何をしっかりするんだよとツッコミを内心入れつつ「はいはい仕事行ってらっしゃい」と僕は母親を見送り家に入る。

 ワンルームの共用のテーブルには、作り置いた晩ご飯が置かれている。

「いや……僕の帰りが遅かったらどうしたの……」

 誰もいない部屋に、僕の声だけが響く。まあ、嬉しいんだけどね。

「ってお母さん?」

 僕は、晩ご飯を見ているうちにあることに気づいた。

 この料理、賞味期限過ぎた卵入っているよ……明日、捨てようと思ったんだけどなあ。

 一瞬食べるかどうか迷ったけど、それほど贅沢な身分でもないから、僕は胃に力を入れて一人ご飯を食べ始めた。

 寝る前にトイレに三十分程籠ったのは言うまでもない。


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