第2章(7)

 いつも通りに一週間は流れていった。空きコマではいつものベンチで本を読み、まとまった時間が取れた時は図書館に行ってレポートの準備をする。バイトも平常通りこなしていき、気が付くと木曜の夜になっていた。

 やはり母親は夜勤でいないので、無人の部屋で僕はあることに悩んでいた。

 明日、何着て行こう。

 まあ、確かにこれまで北上さんと何かをする機会はあった。授業後に喫茶店に寄ったり、休みの日に家に行ったり。

 でも、その二つは言ってしまえばなし崩しと言うか。喫茶店はただ単に北上さんが趣味のあった僕と話したかっただけだし、家に行ったのも飲み会で酔った彼女を送るためと、レポートの打ち合わせのため。

 確かに意識するところはあるけど、決定的な何かかと聞かれると自信がない。というか、僕みたいな奴に本当にここまでできたって何かの間違いなんじゃないかってたまに思う。

 つまるところ、映画を一緒に見に行くことに緊張しています。

 ……おかしいな。今まで何とも思わなったのに。

 北上さんが女の子である、ということは様々なことから意識させられた。バイト先の先輩の胸の話だとか、母親のありがたいお言葉だとか、彼女自身の行動だとかから。

 貧相な中身のタンスから明日の服を組み合わせる。

「どうしたもんかな……」

 シャツを適当につかんでは戻しつかんでは戻しを繰り返す。

「いいや、どうせ悩んだって大して変わらないだろうから開き直って行こう。前のときも何も言われなかったし」

 そうだ。以前のときも服について何か苦言を貰ったことはない。気にせずに行こう。

 そう決意した深夜一時。僕は冷たい布団に寝転がり、眠りの底に沈んでいった。


 いつもよりかは授業が耳に入らなかった金曜日。ここのところを持ち歩いている文庫本の消化のペースが遅れているのは、きっと北上さんと話す機会が増えたからだろう。別に嫌な訳でもない。

 この日は四限の空きコマが北上さんと被る日だったけど、冬が深まるにつれ、いつも僕が使っているベンチは降り積もった雪に沈んでしまった。これからは空きコマの時間の使い方も考えないといけないかもしれないなと思った四限だった。

 僕が沈んだベンチの跡を見つめていると、頭にポンポンのついたニットの帽子を被ったいつもの彼女が僕に声を掛けてくる。

「あちゃーとうとうこうなったね」

 吐き出す白い息とともに、どこか名残惜しそうに、それでいてどこかまあ、そうなるよなというような感じを醸し出させる。

「これから空きコマどうする? って言ってもあと授業あるのは五回くらいしかないけど」

 恐らくコートの中には五個に増えたカイロを忍ばせているんだろうな、なんてどうでもいいことを一瞬思いながら、僕は隣にやって来た女の子に返す。

「これからは図書館で暇潰すことにするよ」

 少しここのベンチより移動に時間はかかるけど仕方がない。ないベンチに座ることはできないしね。

「そっか……」

 少し残念そうに呟く彼女は、一呼吸おいて二の句を継いだ。

「さすがに図書館で話すわけにはいかないから、空きコマに会うのは難しいかな……」

「そう、かもね」

「今日、遅れないでよ?」

「大丈夫大丈夫。問題ないよ」

 それにしても、いくら僕が地元出身とはいえ、この気温で外に居続けるのはしんどいな。とりあえず暖かい所に行きたい。

 同じことをきっと北上さんは思ったのだろう。

「寒いし、学食行って時間潰そう?」

 同意しない理由は、持ち合わせていなかった。


 四限の学食は席の取り合いが入る昼休みに比べ閑散としていて、ほとんどの座席が空いていた。僕と北上さんは窓側のテーブル席に向かい合って座る。お互い昼は済ませているから、特に何か注文したりすることはない。

「そういえば、レポートの準備進んでる?」

 暖房がポカポカ効いている室内、上着を脱いだ北上さんはそう言う。

「まあまあボチボチ、かな。今週から動いてまだ少ししかやってないからなんとも言えないけど」

「そんなもんだよね、私も同じくらい。進展あったら連絡してね」

「うん」

「で、さ」

 コートを畳んで膝の上に置いて、北上さんは話を展開させようとする。

 何だ? 今度は何を話してくる?

「映画を見終わった後、どうしよっかなーって」

 僕の目を捉えながら揺れる彼女の丸い瞳は、宙に視線を飛ばせ、また僕のもとに戻って来た。

「どうしよっかなーって……帰るんじゃないの?」

 至極健全な答えを返したと僕は思ったけど、目の前に座る彼女は一瞬大きく瞳を揺らしてから、一つため息をついた。

「……峻哉君、そんなんだと一生彼女できないよ?」

 き、きついこと言うなあ。まあ確かに自分がモテるなんてつゆも思ってないけど。

「……まあ、欲しいとは思うけど、必死になるほどでもないから」

 女の子とこうして話して楽しいと思っているのだから、僕だってきっと普通に彼女は欲しいと思っているんだろう。ただそのベクトルが弱いだけで。

「峻哉君の初恋っていつなの?」

 っていきなり真顔で爆弾飛ばしてきたぁ。いやいやいや。

「いや、わかんないよ。誰かを好きになるってこと、本の中でしか知らないから」

 すると、北上さんはまるで希少生物を見るような目で僕を見つめてきた。

「うわぁ……本当にいるんだ、恋を虚構のなかでしか見たことない人」

「わ、悪い?」

「おっぱいの好みや好きなタイプはあるのに、初恋はまだなんだね」

「おっ……って」

 言葉を選ぼうよ現役女子大生。そんな生々しい言葉使うんじゃないの。

「そ、そのあれだよ、性欲と恋はわかれているんだよ、まだ僕の中で」

「へー。じゃあ、もし峻哉君の前に好きでもなんでもないけど身体は好みの女の子が現れて、『好きにしていいよ』って言われたら、その子とするの?」

 ど、どういう例えだよ……え? 何? これって僕試されているの?

「し、知らないよ……」

 とりあえず思いついた答えを返しておく。相変わらず、ジト目を送られる。

「ふーん……峻哉君は据え膳は食わないと……」

「何メモしてるんですか」

「いや、いいこと聞いたなーって」

 これのどこがいいことなのだろうか、と思ったりもしたけど、もう面倒臭いから考えないことにした。

「……まあ、あまり夜遅くなってもあれだもんね」

 とりあえず、北上さんのなかでは、映画終わったら帰るっていう選択肢ができたみたいだ。

「ま、草食系の峻哉君に免じて今日はまっすぐ帰ろうっか」

 な、なんだろう……この負けたような感覚がする言い方は……いいんだけど、いいんだけどね。

「あ」

 とりあえず、これでややこしい話は終わると思った、けど。

「そういえば、最近峻哉君私のこと名前で呼んでないよね? 北上さんとも言わなくなったから気づかなかったけど」

 少しニンマリしたような笑顔を僕に送る。「呼んでっ」って書いているような顔だ。

「ほら、私だけ名前で呼ぶのは不公平だからさ、ちゃんと私のことも名前で呼んでよー」

 ああもう、どうしてこう北上さんと話すときはペースをつかめないんだろう。いつもからかわれるというか、いいようにされるというか。

「し、栞……」

「はい、よく言えました」

 すると北上さんはニコニコしながら僕の頭を撫でてきた。

 え、僕あなたのペットなの……?

「あ、ごめんね、実家にいる弟にやる感じについ」

 違った、弟だった。せめて人間ではいられたのね。

 っていうか……そういう年上っぽい雰囲気も出せるのね……。あ、実際は浪人も留年もしていないから同い年のはずだけどね。いつもの軽い調子とは違う包容力を思わせられたから。

「い、いやまあ別に」

 慌てて手を僕の頭から外し、自分の膝の上に戻す。心なしか、少し顔が赤くなっている。

「そ、そんな感じに名前で呼んでくれると嬉しいなあ」

 それを誤魔化すためか、再び僕をいじり始める。

「善処します」

 そして、しばらくすると四限の授業が終わるチャイムが鳴った。

「あ、そろそろ教室行かないとね」

 僕と北上さんは、一旦別々の教室に向かい、「また後でね」と学食から出て行った。


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