第2章(4)

「雫石さー最近あの子とどうよ」

 日をめくったある日のバイト中。夜の九時も回って、お客さんも引いてきた頃だ。僕は本のバーコードを通す作業を、先輩は通して発行したラベルを貼る作業をしている。

「どうって……別にどうもしませんよ」

 ピッ、ピッと機械音が店内に鳴り響く。暖房をつけているためか、どこか乾燥した室内は、古本屋バイトにとっては指が痛くなる季節だ。単純に荒れやすくなるんだ。

「え? あの普乳まだ拝んでないの?」

「そもそも付き合ってませんから」

「ほー?」

 ラベルを貼る手を止めることなく、先輩は意味ありげな声を出す。

「な、なんですか……?」

「次のデートの予定は?」

「いや、だから付き合ってないって」

「次に家に行く予定は?」

 ……ああもう。

「……雫石。早くラベル出して」

 いつの間にか先輩の声に反応していた僕は、作業の手を止めてしまい、先輩が貼るラベルが無くなってしまった。

「あーごめんなさい、今出すんでちょっと待ってください」

 僕はムキになりつつ少しスピードを上げてバーコードを通し始める。

「で、家に行く予定は?」

「日曜日に行きますよ」

 すると、片手にラベルを貼りながら、先輩が意外そうな顔を僕に向ける。「マジ?」って表情だけで言っている。口が半開きになりつつ少しにやけた顔は、そう言っているとしか思えない。

「ちゃんと男の嗜みは財布に入れておくんだぞ」

「だから、そう言う関係じゃありませんって」

「まあまあ、何があるかわからないんだから」

 ったくこの先輩は……。僕の周りにいる人は僕をからかう人ばかりだ。

「女が男を家にあげるっていうのはつまりはそう言うサインだから、な? 備えあれば憂いなしって言うし」

「憂いあっていいです僕は」

「つれないなあ」

 そもそもそんな単純でたまるか。先輩の言う通りなら、酒に酔った女性を家に送る男のほとんどが送り狼になってしまう。

「次シフト被るときでお前の雰囲気が変わっていたら聞いてやるよ。どうだった? って」

「……本当、一回刺された方がいいと思いますよ」

「はいはい」

 するとお客さんが一人、店内に入って来た。

「いらっしゃいませー」

 頭に雪を少し積もらせているのを見ると、どうやら今雪が降っているようだ。

「降ってるみたいだな」

「そうですね」

「こういう凍える日は、優しい温もりを感じ合いたいものだよ」

「いい加減にしてください」

 この日、僕は何度この先輩にツッコミを入れただろうか。思い出すのも面倒だ。


 バイト終わり。お店の近くに住んでいる先輩と別れ、僕は地下鉄の駅に向かう。

 道には靴が沈み込むくらいの雪が積もっていて、歩を進めるたびに雪を切る軽い音が辺りに響く。この音が鳴るのは、新雪が積もってすぐのときだけ。完全に道に残ると、靴で踏みつけたくらいではうんともすんとも言わなくなる。それが根雪になり、また雪が降り、また残り。これを繰り返して雪の量は増えていく。大体毎年、大人の身長を超えるくらいの量は積もる。勿論、道の高さがそこまで上がるのではなく、積もった雪を道の脇にずらし続けるとそこまでの高さになるっていうこと。

 しかし先輩の言う通り人肌は恋しくなる寒さの中、僕は上着のポケットに手を突っ込みながら夜道を歩く。別に、優しい温もりを感じ合いたいとは言っていないからね。

 今日も母親は働いている。誰もいない家に帰り、誰もいない夜を過ごし、起きても誰もいない。そんな日々を長いこと過ごしてきた。

 もう寂しいなんて思わなくなるほど、麻痺している。

 でも、あの日――僕が一日中寝ていたらしい――起きたとき、隣に彼女がいるのを感じたとき、どこか安心した。彼女のベッドから、子供を寝かしつけているような温かい瞳を向けていた彼女と目を合わせたとき、どこか安心したんだ。

 あ、この感じ、懐かしいなって。

 長いこと知らなかった隣に誰かいるっていう気持ち、それを久々に感じることができたんだ。

 きっと、夢の世界から目覚めたとき、僕は無意識に、嬉しかったんだ。

 ズボンのポケットから、スマホの震動が伝ってくる。

 確認してみると、北上さんからの電話だった。

「……もしもし」

 白い息を吐き出しつつ、僕は駅の入り口に立ち止まって通話に出る。

「あ、もしもし峻哉君?」

 家にいるのだろうか、背後から暖房の音が聞こえる。

 どこか能天気というと語弊があるけど、明るい雰囲気漂わせるそんな声色が耳に入る。

「何かあった?」

「いや……なんか、話したくなっちゃって」

「何、それ、付き合い立てのカップル?」

 僕は少し笑い声を含みつつそう返す。すると、彼女も笑みを零しつつ、

「そうだね、なんかそんな感じがしちゃうね、ははは」

 って言う。

「……外にいるの? なんか風の音聞こえるけど」

「うん、今バイト帰りで、駅の出口にいる」

「そっか、峻哉君ってバイト結構入っているよね」

「まあ、ね」

 学生で週三は多い方なのかな。普通どれくらいなのかを知らないからなんとも言えないけど。

「実際、古本屋のバイトってどうなの? 楽しい? 大変?」

「……まあ、楽しいと言えば楽しいけど、大変じゃないバイトなんて基本ないと思うからそこらへんは微妙かな。きついって思う人にはきついかも」

「ふーん。この間絡んだときは楽しそうな職場だなーって思ったけどね」

「いや……ほんとバイト中に初めて絡まれたよ、あのときは」

「ごめんね、それは。思いつかなかったから、飲み会に誘う方法が」

「まあ、それはいいんだけど」

 ……そろそろ終電が近くなるし、電車に乗らないと。

「あ、ごめん。もう電車乗らないと。終電来ちゃうから、そろそろ切るね」

「そ、そうだよね。ごめんね、急に電話掛けて、じゃあね、バイバイ」

「うん、バイバイ」

 通話が終わり、僕は再び白い息を一つ吐く。

 ポケットに突っ込んだ手が、どこか温かかったのは、熱を持ったスマホのせいなのだろうか。

 とにかく、いつもよりかは、身震いせずに帰ることのできた一日だった。


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