第1章(7)
いや、甘かった。僕の想像は甘かった。多分、人とそれほど関わって来なかったからか、他人の心情の機微に疎かったのかもしれない。
何が言いたいかと言うと。
結論を保留にし続けるという決断をしてから一週間が経つと、僕のバイト先に北上さんが現れ始めたということだ。
「い、いらっしゃいませー」
現在進行形で声が上ずっているのは、目の前に商品を持った北上さんがこれまた怖いくらいの笑顔を向けながらレジの前に立っているから。
「三点で五〇八円でございますー」
「雫石君のお値段はいくらですかー?」
何故だ。何故、また絡まれている。
「あーうちのお店ナンパとか勧誘お断りなんでー」
そんな規則聞いたことないけど、とりあえずそれっぽい理由をつけてみる。
「えー、お兄さんともう少しお話ししたいなー」
しかも心なしか背中にいる先輩からも生温かい視線を感じる。もう先輩は北上さんが大学での知り合いってことを知っているので、特に止めたりはしない。
「いつになったら結論言ってくれるのかなー」
僕は袋に本を入れ、彼女に渡す。
「あ、ありがとうございましたー」
またのご来店をお待ちしておりますとは言わずに、北上さんの対応をさばき終えた僕は、カウンターへと戻る。
「大変だな、お前も」
「はい……」
隣から聞こえてくる、ラベルを貼る道具の音が、やけに空しく感じた。
「で、あの子彼女?」
「いえ……本の趣味が同じなんです」
「ふーん……お前って、普乳が好みなんだな」
そう言われた瞬間、間違って指の上にラベルを貼ってしまった。
「痛っ……、き、急に何言い出すんですか」
僕は恨めしそうに先輩を見つめながら指に張り付いたものをはがす。たまにやってしまうこれは、古本屋でのバイトあるあるかもしれない。
「いやー、大きくもなく、かといって小さくもなく、だったし、多分Bじゃない?」
「本当、何言ってんですか……」
「ふっ、今まで人生で数多くの女を抱いた俺の特技だな」
自信満々に胸を張りながら先輩はそう言う。
「そんな特技いらないです」
こんなセクハラまがいの話を仕事中していいのか、と思うかもしれないけど、そんなにお客さんがいる訳でもないし、作業の手を止めている訳でもないから、誰に怒られる訳でもない。ただの雑談になる。
「よくインドに行ったら人生観変わったわ、なんて言うだろ? 違う。女を抱いたら人生観が変わるんだ」
「……それ、女性スタッフの前で言わないで下さいよ」
うちのお店にも何人か女性スタッフがいる。目の前でそんなこと言ったら、口きいてくれなくなるだろうな……。
そのままいつも通り、それほど混むのでもなく、誰もお客さんが来ないでもなく、といった具合に時間は過ぎた。何度かその人生観が変わった先輩と馬鹿な会話を往復させ、業務をこなしていった。
困ったことと言えば、先輩が北上さんの胸の感想を言ったせいで、脳裏にその雰囲気がこびりついてしまい、「……どうしてくれるんですか、先輩」と言いたい気分になった。
そして、稚内とか北見とか、北海道の北の方、道北の平地で初雪が観測され始めた十一月の半ば。飲み会の前日の木曜日。
この日は空きコマはないし、シフトも入っていないので、取っている授業が終わると真っすぐ家に帰った。
テレビではしきりに冬用タイヤに交換する準備をしてくださいと言われるこの時期、手袋はいらないけどポケットには手を突っ込みたくなる、そんな寒さだ。僕にとってはね。キャンパス内を出て、最寄りの地下鉄の駅に向かう。冬支度を進めている街並みはこれから白に彩られるであろう未来を予測してか、赤青黄色の雪かき用のスコップ、どうやら正確にはスノーダンプなんて言うらしいけど、そのスコップが建物の前に置かれていたりする。これから、すぐ使えるところに置いておかないと朝起きたら入り口が雪で埋まって外に出られないとか、中に入れないとかそういう事案はざらに起きるからね。
そういった実用的なものに加え、気が早いというかなんというか、この間も言っていたクリスマスツリーがあちこちに飾られ始めている。
まあ、実際両親が離婚した中学生のときからろくなクリスマスなんて過ごしていないし、まともなプレゼントなんてもらったこともないから果たして普通のクリスマスとは何なのだろうと思ったりもする。別に何だっていいけど。
これで赤青黄色、緑と四色挙げた。あと三つ色を挙げれば虹が架かるけど、辺りに残る色は見当たらない。その代わり地下鉄の入り口に見えたのは、僕の半分かそこらしかない大きさの手に息を吐きながら立っている最近よく絡んでくる女の子だった。
彼女は駅に近づく僕の姿を認めると、顔の高さで小さく手を振った。緩やかな笑顔と一緒に、どこか答えを渇望するような、そんな雰囲気を感じさせる。
「や、結論出た?」
開口一番、そう聞いて来る。
「……ねえ、僕を待つならもっと暖かいところで待った方がいいと思うんだけど」
この間、あんなに手を冷やして待っていたというのに、今日も北上さんは寒い外で僕が駅に来るのを待っていたようだ。
「まあ、そうだとは思うけどさ、なんかこう、キュンと来るものない? 外で待っていると」
「キュンと来るものがあるかないかで言うとあるとは思うけど、それを自分で言ったら駄目だと思うんだよね」
「うん、言われた」
なら言わなければいいのに。
そう思いつつも、心の表情は少し緩む。やはり、北上さんとの時間は楽しいんだ。
「でも、キュンとはしてくれていたってことだよね?」
ニンマリとしてやったりという表情を向けてくる。
「ま、まあそういうことになるね」
「ならいいや。ほら、帰ろうよ、雫石君」
そう彼女は言いつつ地下鉄の入り口に入って行く。
僕はマフラー揺らめく彼女の背中を追いながら、地下通路に潜る。
「で、明日は来てくれるの?」
改札を通りながら軽く尋ねる北上さん。
僕は少し一考し、やはり変わることのなかった結論を言う。
「……行けないよ、やっぱり」
「そう……やっぱりお金?」
「うん」
また再びマフラーがパタパタと揺らめく。電車が近づいているのだろう。
「……なら、仕方ないか」
意外にあっさりと諦めたな……今までの感じからして、もうちょっとごねるかと思ったけど。
「意外? ……でも、こんなに時間かけて出した答えがそれなら、諦めるよ」
ホームドアが開き、二人して電車に乗り込む。
「ま、寂しいのは変わらないけどね。他の友達と楽しく飲んでくるよ」
「う、うん……そうして」
どこか反応がぎこちなくなったのは、ドアに反射して映った彼女の表情が、しおれた花のように暗かったのと、やはり断ったという事実への罪悪感からだった。
そんな雰囲気から逃げ出すように、僕はスマホに目線を移す。すると、バイト先の店長から連絡が来ていて、明日のシフトがきつくなってしまい、ヘルプに来られないか、というものだった。僕は「わかりました。明日いつも通りの時間から出勤します」とだけ返しておき、スマホをポケットにしまう。
これである種合法的に飲み会を欠席することができる。
そう思えるはずなのに、気持ちは晴れなかった。
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