第1章(6)


 狭いワンルームの家に帰り、身を投げ出すように床に寝転んだ。ベッドなんてものはない。

 部屋を真っ二つに割るカーテンが通るラインに置いてある母と共用の机から、家計簿をつまむ。

ご飯を一緒に食べるときは、この机を使う。

「だって……無理だろ……現実的に。行くの」

 バイトの月収は七、八万円。月の携帯代は二千円くらい。格安スマホならこんなもんだ。毎月の本を買うお金は三千円くらい。こうしてたまに使う外食も月一万円を超えないようにしている。四万円は学費に回し、手元に残った数万円を貯金する。この貯金もちょくちょく食費とか水道光熱費に回ったりすることがあるし、もし母親が働けなくなったら真っ先に切り崩す対象になる所だから、ここも削りたくない。

 あんな顔されたって、行けないものは行けないんだ。

 寝転がりながら、家にある数少ない、いい値段のするノートパソコンを起動させる。授業のレポートを仕上げないといけないから。

 このノートパソコンも、高校生のときにバイトで貯めたお金で買った。買ってもらえるほど、裕福でないのは、今までの記述から想像はしてくれるだろう。

 しばらくキーボードをカチャカチャやっているうちに、眠気が襲ってきた。別に急ぎのレポートでもないし、このまま寝ちゃうのも悪くないかな、なんて思ったりもした。今日も母親は夜勤みたいだし、朝まで帰って来ない。深夜に気兼ねなくシャワーを浴びられるわけだし、今寝ちゃえば晩ご飯はしょれるかもしれないし。

 一石二鳥だな。そんなに食欲もないし、いいや。もう、寝ちゃおう。

 そうと決めると僕はすぐさま冷えた床にくたびれた布団を敷いて、電気を消して眠りについた。


 正直、あれで飲み会の話は終わりだと思っていた。別に北上さんにとって僕がそこまで重要な存在だなんて思っていなかったから。教授が「場所決めてねー」と言った月曜日から三日経った木曜日に、ゼミのラインに「飲み会会場決まりましたー狸小路の居酒屋チェーン店でーす」と誰かから連絡が投下された。僕はもとより参加する気がなかったから流していたけど。

 じゃあ、なんで内容をここまで覚えているのかというと。

 連絡が来た次の日の金曜日。いつも通り空きコマに例のベンチで本を読みに行こうとしたら、

「……こんにちは、待っていたよ、雫石君」

 満面の笑みを作っている北上さんが既に座っていた。いや、ほんと作っていたって、あの笑顔は。

「や、やあ……」

「喫茶店で女の子を置いて帰った感想はいかがでした?」

 あー怒ってますねー。はい。笑顔の仮面の下には冷え込んだ空気とは真逆の怒りの熱を帯びさせていることでしょう。

「いやー悲しかったなー入ったときはふたりだったのに帰るときはひとりっていう、なんか私が振られたみたいな感じになって、あー悲しかったなー」

 目の前に座る彼女はあからさまな棒読みで言った。

「ま、それはさておき、考え直してくれた?」

 今度はベクトルを逆にして感情がこもりすぎている声で尋ねてきた。

「い、いや……考え直すも何も……」

 そもそも行く気がないんだよ……。

「ふーん……そっかそっか、つまり君はそういう奴だったんだね」

「なんで主人公を問い詰める友達口調になっているの」

「あーあ、雫石君と一緒にお酒飲みたかったなー残念だなー」

 駄目だこりゃ……。っていうか、そろそろベンチに座りたいな。立ちっぱなしで疲れてきた。

 僕は目の前にあるベンチに座ろうと足を一歩前に踏み出した。が。

「ふふっ、このベンチに座りたければ私の要求を呑みたまえ」

 さながらベンチを人質ならぬ物質に取った海賊の船長は鋭い目線を僕にやりながら告げてきた。両手をベンチに広げ、このベンチは私のものだと言わんばかりにしている。

「じゃあいいでーす。さようならー」

 ごめん、この茶番に付き合う気はない。

 そう踵を返そうとしたら、

「いや、ちょちょ、待って待って、そこは乗っかってくれるところでしょ?」

 慌てて引き留められた。

「ほ、ほら、ベンチ座っていいからっ、はい!」

 先ほどまで両手を広げて占拠していたベンチはきっちり一人分座れるスペースが空いて、僕はようやくいつものベンチに腰を落とした。

「……で? この茶番は?」

 今度は僕が努めて声を低くさせてみる。別に他意はない。ただやってみただけだ。

「い、いやー。どうやったら雫石君が飲み会参加する気になってくれるかなーなんて」

「はぁ……」

 僕はため息をつく。

「それだけのために、この寒い中ずっとベンチに座っていたの?」

 隣に座る彼女の左手を取りながら僕はそう言った。

「えっ……」

「さすがに気づくって。こんなに手真っ赤にしていたら。……今そこの自販機で温かい飲み物買って来るから。何がいい?」

 ベンチを立ち、ぶっきらぼうに聞いてみる。

 別に、北上さんが嫌いなわけではない。彼女との会話は、楽しいんだ。

 だから、飲み会に誘ってくるくらいで、距離を置こうとは思わない。

「あ、コ、ココアで」

「ココアね、ちょっと待ってて」

 僕はベンチからすぐにある自動販売機でココアとコーヒーを買う。

「はい」

「あ、ありがと……」

 熱いココアの缶を渡し、僕はまた座りコーヒーを飲み始める。

「そんなに僕に来て欲しいの」

「う、うん」

「とりあえず考えてはおく。でも、行くと決めたわけじゃないから」

 すると、さっきまで沈んでいた表情は一気に明るく色づき、葉が落ち切ったキャンパス内にまた彩りが戻ったようにも思えた。

「ほ、ほんと?」

 正直、それでも乗り気はしないし、まだ行く気はしない。でも、頭ごなしに否定し続けるよりも、楽な気がした。だから、とりあえず、もう少し考えることにした。

「うん。ほんとに」

「や、やった」

「そんなに喜ぶこと?」

「そうだよ! これは小さな一歩かもしれないけど、私にとっては偉大な一歩なんだよ」

 これまたどっかで聞いたことのある言葉遣いだな……。

「よかったですね」

 そろそろ雪虫が舞い始める季節。最近増えてきた北上さんとのかかわりに、やはりいい気がしている僕だった。


 ただ実際問題、何度家計簿と通帳の残高を見比べても、行く気にはなれなかった。ここのところ凄く冷えてきた床に座りながら、「うーん」とうなる。

 でもなぁ、また断ると絡まれるんだよなあきっと。

 別に嫌ではないけど面倒ではあるから、絡まれないに越したことはないんだよな。いっそこのまま保留にし続けちゃうとか。

「そうした方がいいのかなあ」

 僕はそう独り言を呟いてから、夕食の支度を始めた。今日も母親は夜勤のようだ。


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