第1章(5)

 それから宣言通り、空きコマが合う火曜と金曜はあのベンチに北上さんは顔を出すようになった。勿論、毎週月曜日の授業後も、一緒に帰るようにも。

 今までろくに人と関わらなかった僕にしてみれば、どんな飛び級だよって言うほどの進歩だ。何か裏技でも使ったんじゃないかって、過去の僕に疑われるくらいのね。

 そうなると、どうやら自然と雰囲気が変わっていったらしい。

「ありがとうございましたー、またお越しくださいませ」

 週三で入っている古本屋のバイトの日。いつも通りレジを打ち終わり商品を渡し、そう挨拶する。

「最近の雫石、雰囲気変わったよねー」

 レジの後ろに設置されているカウンターに戻り、本の値付け作業に復帰する。すると、一緒のカウンターに入っている先輩にそう言われた。

「そ、そうですか?」

 慣れた手つきでお互い本にラベルを貼っていきながら、話していく。

「うん、今までなんか完璧な根暗、って感じだったけど、妙に明るいよ、最近は」

「完璧な根暗ってなんですか、完璧なって……」

「いや、何て言うかさ……人を寄せ付けないオーラというか、そういう感じが抜けて、普通の文学少年って感じになった」

「……そうですか」

「何、最近いいことでもあったのか? 彼女できたとか?」

「べ、別に、そんなんじゃ」

「すすきの行って童貞捨てたの?」

「何言ってるんですか」

「じゃあ、やっぱり彼女?」

「じゃあって……」

「あ、お売りいただけるお客様ですねーはーいお預かりしまーす」

 すると、買取カウンターにお客さんが来たのでそこで会話は打ち切りになった。

「……雰囲気変わった、ねぇ……」

 ポツリ、独り言を漏らす。

「あ、いらっしゃいませー」

 レジにお客さんが来たので、またレジ打ちに入る。

 そんなふうにして、またこの日のバイトも終わった。


 それからしばらく経ち、キャンパス内を華麗に彩っていた紅葉も葉を地面に落とし、近づいて来る冬の訪れをより強く感じる頃になった。最高気温も一桁まで沈むようになり、初雪予報なんてものもニュースで流れ始める。

 ページをめくる指もカサカサになって来た月曜日。今日も今日とて演習の授業は普通に終わった。が、最後に教授がこう一言。

「あ、そろそろゼミの飲み会会場決めといてくれよーやるんだろ? もうそろ。こっちも色々調整しないとだから、よろしくー」

 ……飲み会、か。

 正直あまり無駄にお金は使いたくない。学費に少しでも回しておきたいっていうのもあるし、母親が苦労している脇で僕が遊び呆けるのも罪悪感しか湧かない。

 だから、パスだな。

 そう決断して、僕は教室を出ようとした。

「あ、雫石君待って、一緒に帰ろう」

 すると、僕が出る前に、北上さんにそう声を掛けられた。

 授業後の喧騒のなか、視線が合う僕と北上さん。

「……また、あそこ寄らない?」

 飲み会は瞬殺でパスと決めるのに、このお誘いは受ける僕だった。


「めっきり寒くなって来たねー」

 この間寄った東札幌駅の近くにある喫茶店に再び立ち寄った。なんやかんやで三回目だ。

 ホカホカの湯気が立ち上るコップから、お茶のいい香りがする。というか、お店全体にお茶というか抹茶というか、そういういい香りが広がっている。

「私、もうカイロが手放せなくてさー」

 そう言いつつ、カバンから使い捨てカイロをこれ見よがしに三つ見せてくる。

「この時期に三つって、これからもっと寒くなるけど」

 十一月の頭でこれなら、もっと冬が深まるとしんどいと思うんだけどな。

「あーそれこの間他の人にも言われたよ。そのうち五つとか七つとかになるんじゃないのって」

 うん。同じこと思った。

「まあ、温かい飲み物でも常備して備えるよ。さすがに毎日カイロ五つとかはお金がかさむしね」

 苦笑いを浮かべつつお茶を一口含む北上さん。入った直後は真っ赤に冷えていた手は、もとの綺麗な白に近い肌色に色を戻していた。

「僕に言わせれば、カイロ毎日三つもお金がかさむと思うけどね」

「み、三つまでならギリギリだから。毎日三食ならぬ、毎日三個だよ」

 その論理はいかがなもの?

「なにそれ、おかしいのっ……」

 だからか、鼻でふっと笑ってしまった。

「あー笑ったなー? このこのー」

「いや、ツッコミの仕方小学生なの?」

「ずるいなぁ、雫石君は地元だからこの寒さは平気なんでしょ?」

 口をとがらせながら彼女はそう尋ねてくる。

「平気ではないよ。寒いとは思うし。ただ、慣れているだけ。きっと北上さんも卒業するころにはこの寒さに慣れているよ」

「東京戻ったら暖かいってなるかもね」

「うん」

 それからいくつかなんでもない会話をして、それなりに場が温まってきたとき。

「……そういえば雫石君って、今度のゼミの飲み会って来るの?」

 ここまでスムーズに会話が進んでいたからこそだろうか。急に振られたその話題に、僕は答えることができなかった。

「多分、すすきのでだと思うんだけど」

「うーん……どうだろう、今、金欠で、行けないと思うんだよね」

「そっかぁ……残念」

 すると、花がしぼんだかのように、夕方が来た朝顔のように、表情を北上さんは落とした。そして、まるで人混みの中にキーホルダーを落としたことに気づいたかのように切なそうな顔を僕に向ける。

「……今日はここに寄っているのに?」

 ……やべ。理由として甘かったかな。

「それはさ、かかるお金が違うから」

 慌てて理由をでっち上げる。まだ彼女の表情は変わらない。

 店内の間接照明が、ほのかに彼女の頬を赤く映す。

「……雫石君来るなら、行こうかなって思ったのに」

 小さく動く口元から、そんな言葉が聞こえてきた。

「っ……」

 そ、そういうことを言われると、申し訳なくなってくる。この台詞は反則だ。ずるいよ。

「と、とにかく、僕は多分行けない、行けないんだごめんね。はい、この話終わり」

 でも、やはり僕のために余計に働いている母親のことを思うと、飲み会には行けない。そんなことにお金は使えない。本だって、買うのは最小限にしているし、携帯代とか差し引いてこれ以上学費に回すお金を減らすわけにはいかない。

「……むぅ、なんか必死だね、雫石君。誰かにプレゼントでも買う予定あるの?」

 今度は頬を小さく膨らませる。責められているのに、それを見て、どんぐりを頬張ったリスみたいに見えて可愛い、なんて思ったのは僕だけの秘密だ。

「いや、どうしてこの流れでプレゼントの話になるの」

「だって来月クリスマスでしょ?」

 そうですね、はい。そういえばもうそんな時期でしたね。スーパーとかショッピングモールとか、何ならクリスマスツリー出てるもんね。

「……残念だけど、プレゼント渡す相手がいないもので」

「へぇ」

 駄目だ、この感じは信じていない。

 というか、何で僕は信じてもらおうとしているんだ? 別に疑われても飲み会に参加させられるわけでもないし。「行かない」と僕が言っている以上、北上さんは無理に連れて行く気はないみたいだし。

 それに、これ以上この話をしていると、ボロが出そうだ。あまり自分の家庭環境について話したくはないし。

 僕は残っていたお茶を一気に飲み干し、財布から千円札をポンと置いて席を立った。

「ごめん、そういうことだから。今日は帰るね、また」

「え?」

 彼女にとっても予想外の行動だったのだろう。僕だって予想外だよ。まさか人生でお金だけおいてお店を出る日が来るなんて。

 完全に呆けている北上さんを背に、僕は木で造られた柔らかい空間から逃げ出した。

 外に出ると、さっきよりも冷たい空気が僕の肌に刺さってきた。

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