第1章(8)
「いやぁ、助かったよ、雫石君、今日来るはずだった他店からのヘルプの方が急に予定が入ったとかで駄目になっちゃって」
飲み会当日。僕は店長の頼みで今日もバイトに入ることになった。別に(飲み会以外で)予定はなかったし、月収も増えるし問題はないから、いいんだけど。
「いえいえ、全然」
「じゃあ、とりあえずよろしくね」
「はい」
そう軽くコミュニケーションをとってから、スタッフルームを出て売り場に出た。今日の配置はカウンターではなく補充だった。
でもどこかボーっとしていた今日だったから、流れで作業できる補充というのは助かった。
普通のコンビニくらいの大きさの店内を一通り補充して回る。お客さんの数は相変わらずまばらで、いつも売り場に出ると何回か本の場所を聞かれるものなのだけど、今日に関してはほとんど受けず、閉店間際の駆け込んで来たサラリーマンの男性に聞かれた一件だけだった。
閉店後の作業も終了し、打刻登録を済ませる。これでバイトも終わり。更衣室で着替えを済ませ、店長に「お先失礼します」と一声掛けてから僕はお店を出た。
「……やっぱり深夜は冷えるな」
終電も近い二十三時十五分。油断すると身震いしてしまいそうな気温の中、駅まで十分の道のりを歩いていく。
バイト先は狸小路と呼ばれる繁華街から少し外れたところにあるので、辺りにそれほど人の影は映らない。札幌の深夜は、特定の場所以外、それほど賑わうことはないし、電車も混まない。
時折車のヘッドライトが僕を掠めて走り抜けていくなか、スマホが着信を知らせた。
「何だろう……こんな時間に」
少し不審な気持ちを抱きつつ、画面を見る。
母親でもなければ、バイト先でもない。
画面にあったのは、同じ大学のゼミ生の名前だった。
「もしもし」
何コールかしてから、僕は電話に出た。
「あ、もしもし雫石? 悪い、こんな時間に。今家か?」
「いや、今バイト帰り。大学の近くにいるけど」
「マジで? いや、一つ頼まれてくれないか?」
電話越しの聞こえてくる喧騒から、きっと飲み会が終わって狸小路から電話を掛けてきているのだろう。
「何?」
「……北上の家って、確か雫石の家と近いよな?」
「まあ、隣の駅だけど」
「悪い! 結構みんな酔っちゃって、大丈夫な奴が酔った奴を送ることになったんだけど、北上の近くに住んでいる奴が誰もいなくて、送れる奴がいないんだ。そしたら、北上が雫石なら家近いよーって言うから電話したんだ」
「マジで誰もいないの?」
「マジのマジで」
少しばかり口を止め、考える。別に受ける義理もないのだけど、そうなると困るのは今わざわざ僕に電話を掛けた幹事の人だしな……。
「わかったよ、僕が送ってく。すすきの駅行けばいいの?」
「助かる! ありがとう! ああ、すすきの駅で解散する予定だから、そこでいい。マジでありがとう!」
「わかった、じゃあまた後で」
そう電話を切り、僕は大学最寄りの地下鉄の駅に入る。どっちにしろ、地下鉄に乗ることは変わらないので、そのまま電車に乗った。
結局、なんだかんだ僕は北上さんと関わりたいのかもしれない。だから、お願いも聞いたのかもしれない。
ほとんど人の乗っていない地下鉄は、すぐに僕をすすきの駅に連れて行った。
金曜日の夜ということで、ホームには頬を上気させた人が何人かいた。そんな人々を尻目に僕はエスカレーターを登り、改札階に上がる。改札付近には、見知った顔が何人か立っている。
「あ、雫石! ありがとう! 助かるよ」
電話を掛けた今日の幹事が僕を見つけると同時にそう声を掛けてくる。
「ううん、いいよ全然」
「おーい、北上、お迎え来たから帰るぞー」
「あー来たのー? じゃあー帰るねーバイバイ―」
完全に出来上がっている彼女はふらつく足取りで改札を通り、僕のもとに歩み寄る。しかし、きちんと歩ける状態ではなかったようで、僕の胸に飛び込む形になった。
「あはは、ごめんね、上手く歩けないや」
「……じゃあ、北上さんは僕が送るから、それじゃあ」
少し複雑な感情を抱きつつ、幹事に言いホームに向かった。
「ああ、頼むわ!」
「ほら、電車乗るよ、北上さん」
「北上さんって呼ばないのー栞って呼んでー」
「はいはい、帰ろうね北上さん」
「うー……栞って呼んでー峻哉君―」
お酒に酔うとこうなるんだ北上さん……。僕のこと名前で呼び始めるし。
「そういえば、なんで峻哉君はここにいるのー?」
ホームで電車を待つ間、隣から寄りかかって来ている酔っ払いにそう絡まれる。
「バイト帰りだから」
「えー? 飲み会は断ったのに、バイトには行ったの?」
「急にヘルプが入ったから仕方なかったんだよ」
「冷たいなー峻哉君はー」
「ごめんね、冷たくて」
「むぅ……」
やってきた電車に乗り込み、大通駅で乗り換える。乗り換えの際、エスカレーターを降りなければいけないのだけれど、上から北上さんが寄りかかって来るわ、先輩の言葉を借りるなら北上さんの普乳が僕の背中に押し付けられるわで色々大変だった。
日をまたぐ少し前に北上さんの家の最寄り駅に着いた。
この間場所だけは知ったので、その記憶を頼りに進んでいく。まあ、自分の卒業した高校の近くだから土地勘はある。迷うことはなかった。
雪を降らしたように綺麗な白色の外観のアパートに着く。
「はい、着いたよ、鍵出して」
「わー家着いたーありがとうー」
相変わらずの呂律で、一向に鍵を出そうとはしない。
「にしても寒いねーあ、峻哉君ポカポカだーあははー」
「そうだねー僕も寒いから早く家に帰りたいんだけどなー」
そう冷たくあしらっているけど、酔っ払いに通用するはずはない。
「ポカポカー」
ああもう埒が明かない。
「ごめんカバン借りるよ」
僕は北上さんの肩からカバンをもらい、中身を漁った。簡単に取れるほど、彼女の力は弱かった。
「部屋番号何番?」
「イチマルニーだよ」
間の抜けた声が辺りに響く。
「はいはい102ね」
彼女の背中を抱き留めつつ、小綺麗な門扉をくぐる。
「はい、僕よりも暖かい家に着きましたよー」
鍵を開けて、北上さんを中に入れる。
彼女はなんとか靴を脱ぎ、二、三度壁に身体をぶつけながら奥へと進んでいった。
大丈夫かな……これ。
「もう大丈夫? ちゃんと寝られる?」
玄関先でそんなことを聞いてみる。子供かよ。僕、親かよ。
「んー無理かもー」
「…………」
嘘だろと一蹴できないとも思えるから困るんだよな。
「はあ……じゃあ、僕もお邪魔しますね」
ため息を一つつきつつ僕も靴を脱ぐ。靴は二足置くとスペースがいっぱいになってしまっていた。
「とりあえず暖房つけて、水飲んで」
僕は勝手にキッチンに向かい食器棚に置いてあるコップに水を注いで白のカーペットがひいてある部屋に座り込んでいる北上さんに手渡す。
「ありがとうー」
そう言いつつ彼女は勢いよく水を口に含む。素面のときとのギャップがひどい。
「はい、じゃあ、あとは着替えて寝てください。僕はもう帰るね」
そしてクルリと一回転し再び玄関に戻ろうとすると、
「えー一人じゃ着替えられないー」
こっ、この人は……。
「さ、さすがに同年代の男に着替えを手伝わせるのはどうかなーって思うんだけどな」
平静を保つためにあえて強く言ってみる。
――お前って、普乳が好みなんだな。
けど、けれどだ。
不意に先日のバイトで先輩に言われたこの一言が過った。
それに合わせて、コートだけ脱いだ北上さんが視界に入る。厚着をしているとはいえ、少し強調されたその膨らみに一瞬目が移る。
「それにさー送り狼、ならないの?」
更に、一瞬だけ真顔になって言ったその台詞が、僕の理性を揺さぶった。
「……今なら、大人の階段上れちゃうよ?」
「そ、そういうことは軽々しく言うべきじゃないと思うけど」
少しずつ後ずさりする僕。それを見てか気づいてか、彼女は着ていた服すら脱ぎ始めた。
ま、まずい。本当に酔ってこのままだと最後まで連れて行かれる……!
頬を真っ赤に染めた彼女が、僕の視界に白い肌とひとつの窪みを見せた瞬間。
僕の意識がブラックアウトした。
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