第1章(3)

 地元では有名な円形歩道橋を登り、別の通りに出る。片側二車線のそこそこ広いこの通りは、近くに小中学校があるからか、マンション等の住宅が立ち並ぶ。どこかの公園で遊んだ帰りなのだろうか、後ろから元気に駆けてきた小学生達が僕と北上さんの背中を追い抜こうとした。

 すると、背中に軽く衝撃が走った。

「ん?」

 きっと前を向いていなかったんだ。小学生の一団のうちの一人が僕の背中にぶつかってしまった。その際、背中に背負っていた金属バットに思い切り頭をぶつけてしまったようで、

「う、うわぁぁぁぁぁん!」

 その男の子は泣き出してしまった。

「え、あ、ご、ごめんねっ、痛かった?」

 僕は慌ててその子に向き合って目線を合わせて声を掛けた。まあ、後ろからぶつかって来たこの子に非はあるのだろうけど、そこを責めるのは大人げないし、それを言う場面でもないと思ったから。

「うわぁぁん! いたい! いたいよぉぉぉ!」

「ほらー、ケンター前見て走らないからー泣くなって、ちゃんとまず謝れー」

 一団のなかでも一人年長者のような雰囲気を出している子が、ケンタ君にそう言う。

「う、うわぁぁぁん!」

 しかし、泣き止むことはしない。

 歩道の真ん中で泣き出している子供と、一緒にいる大学生。

 あれ? 端から見れば僕、悪者じゃね?

 ただでさえ少し生きづらい環境に身を置いているのに、更に家の近くで余計な噂を立てられるのはしんどい。どうにかしないと。

 どうにか、どうにか……。

 泣き続けるケンタ君にどうしたらいいかわからずにしゃがみ込んでいると、隣にいた北上さんがケンタ君の目の前に座って、彼の頭を撫で始めた。

「大丈夫? 痛くなーい、痛くなーい。男の子だから、簡単に泣いちゃだめだよ?」

 すると、北上さんに頭を撫でられた彼は段々とその鳴き声を小さくしていった。いやまあ、年上の女の人に――しかも可愛い人にさ――こんなふうに頭撫でられて優しい声でああ言われたら泣き止むよね。

「よーし、いい子いい子。次からはちゃんと前向いて走るんだよ?」

 いや、そこは歩くんだよ、じゃない? 道を走ったら危ないよくらいまでは言ってあげるべきだと思うけど。

「うんっ、ありがとうお姉ちゃん!」

 オイオイ。さっきまでの涙はどうした。元気じゃないか。これだから男は。むしろ確信犯か。

「冴えないお兄ちゃんもごめんね! バイバイー!」

「さっ……冴えないって……うん、バイバーイ……」

 笑顔で走り去る彼に向かって手を振りながら、僕は無邪気な子供に突きつけられた「冴えない」宣告を受け止める。

「ははは、冴えないって言われちゃったね、雫石君」

 徐々に小さくなっていく背中を見つめながらそんなことを言う。

「いや、まあ、わかってはいるけど、いざ小さい子にそう言われると来るものがある」

「……大丈夫だよ、雫石君は冴えているから」

「え? ……そう見えるの? 僕にはそう思えないんだけど」

 意外なことを言われたので、ついさっき自分を貶めるなと言われたのにも関わらず、僕は同じことを繰り返してしまう。

「うん、大丈夫。それに、雫石君、結構子供にも優しくするんだね」

「それは北上さんこそ」

「何? 頭撫でて欲しかった? 雫石君も」

 すると、またさっきのような悪戯っぽい笑みを浮かべつつ僕に返した。

「い、いやっ、そういうわけじゃなくて」

「恥ずかしがらずにーいいんだよ? 撫でて欲しかったら言ってくれれば」

「だ、大丈夫だから!」

 結局、こんな感じのやりとりは北上さんの家につくまで続いた。


「ここなんだ、私の家」

 そう自分の住んでいるアパートを指さしながら、北上さんはそう僕に言った。

 いや……僕の通った高校の近くなんですけど……。

「で、送り狼になる?」

「ならないんで僕も帰りますね」

 絶対にならない、という意思をこめてか、自然と敬語になってしまった。

「ごめんごめん、そう怒らないで、じゃあ、また今度ね、雫石君」

 彼女はそれだけ残し、綺麗な白色の壁をした新しめのアパートに入って行った。

 また今度、なんてあるのだろうかと、僕は考えていた。


 北上さんの家から歩いて二十分。彼女のアパートとは対照的な古さが目立つ、門扉もボロボロのアパートに帰る。思い切り体当たりをしたら、僕みたいなヘロヘロな男でも突き破れるんじゃないかっていうほど不安になるドアを開けて、狭いワンルームに無理やりカーテンを付けてツールームにした部屋に入る。リビングダイニングなんて大層なものはついていない。あるのはキッチンとひとつの部屋だけ。そこに母親と二人で暮らしている。

 まあ、きっと他の人からしたら異常だろう。「え? 一人じゃないの?」って言われるような広さなのも自覚している。普通、一人暮らしをするための部屋だってことも知っている。

 それでも、この部屋に親子で住んでいるのは。

 離婚した父親がクズだったから。

 これに尽きる。まあ、そういうことだったから、今のこの環境。別に恨んでもいなければ、悲しんでもいない。あの父親に何か感情を抱くことが、もはや時間の無駄であるってことくらいには、僕も諦めている。

 冷蔵庫を開けて、中身を見る。卵が一つ。牛乳が一本。以上。

「……ご飯炊いてチャーハンにするか……」

 確かチャーハンの素が残っていたはず。僕は冷蔵庫の上に置いてあるかごからこれまた最後の一つのそれを掴んだ。

 炊飯器にお米をセットし、スイッチを入れる。

 お米が炊けるまでは暇だから、電車で読む予定でいた本を読み始めた。

 そこまでの家庭環境ならどうして大学通っているのか、しかも地下鉄通学なのかツッコまれるかもしれない。いやいや働けよ。自転車で通えよと。地下鉄を使っていることに関しては、大学近くでバイトをして、バイト先から交通費がおりているから。あと僕は自転車が乗れない。怖くて。で、なんで大学に通えているかというと、まあ、よくある美談? って奴。あまり話したくはないけど、母親が「行きたいなら行きなさい」と言ってくれたのと、給付の奨学金を取れたから。

 腹黒い話をすれば、生涯賃金、高卒より大卒の方がいいからこの四年間耐えれば黒字になるってどっかで母親も考えたんじゃないかなとも思う。少なからず僕はそう思っている。そう思わないと申し訳なくて大学になんて通えない。

 湿気た部屋に一人、ページをめくる僕。本もそんなに買えるわけじゃない。大体は図書館で借りて読んでいる。でも、好きな作家の本とかは、ちゃんと買って読んでいる。週三で入っている古本屋でのバイトの給料の自分が使う分は本に消えている。さっき北上さんと話した作家も買って読んでいる作家の一人。

 あの時間……楽しかったな……。

 ふと、ついさっきまで過ごしていた北上さんとの時間に思いを馳せる。

 どこか本当に底から楽しんでいるような垢抜けた笑顔と、時折、というか何度でも見せてくる悪戯っぽい表情。その二つに重なって彼女の一つ一つの仕草が鮮明に思い出される。

 きっと、同年代の女の子と関わる、話す機会なんて、そうそうなかったから。

 大学に入ってからは数えるくらい、高校生のときはそもそも人とあまり関わらなかった。

 だから、あのとき「僕みたいな奴」っていう言葉が自然に出てきたんだと思う。

 本を数十ページ読んだところで、炊飯器からご飯が炊けたとアラームが鳴った。僕はいそいそと立ち上がり、少し薄暗いキッチンへと向かった。


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