第20話 修練場にて
曇天の空から雪が降り落ちている。
薪木を背負った老人が通りを行き来し、軒先に干物を吊るした商人たちが声を張り上げている。
人々は寒風に首を縮めながら通り過ぎていく。
食料、燃料、酒、そして新年用の飾り――本格的に雪が降る前に手配を済ませねばならない。人々は冬の到来を話題にし、寒さがこれ以上厳しくならないといいですねと声を掛け合っていた。
垂水城の二の壁の外に設けられた練兵場では、男たちの雄叫びと怒声が木霊していた。
上半身裸となった男たちの肉体から汗が水蒸気となって立ち上る。凍てつくような寒風に素肌を晒しているが、それを気にする者はいない。
男たちは痣だらけになりながら、体をぶつけ合い、木剣を振るっている。
巡回裁判の警護から戻り、静養を取った警邏隊に第三継嗣から、待機継続指示が出たのは一週間前のことだった。
当面の間、巡回裁判もなければ、刑の執行もない――静養と修練期間に当てるべしという指示が第三継嗣から届いたため、舩坂は甲野と共に方略を作成し、それに則った修練を行っていた。
型稽古から始まり、個別撃剣稽古、集団戦――そして冬期ではあるが水練に遠駆け。実戦さながらの稽古であったが、音を上げる者はいなかった。
以前より、舩坂は己の指揮下の部隊には強度の高い修練を施しており、それについてこれる者だけが隊士として生き残っているのだ。そして何より――先日の巡回の後、第三継嗣から望外の報酬を貰った隊士たちの士気は上がっていた。
単純過ぎるだろ――舩坂は多少呆れていた。その純粋さは何処からくるのだと疑問にも思う。
いつもより強度の高い訓練を施しているが、警邏隊の准騎士たちは意気揚々と訓練に取り組んでいる。それは補佐の甲野が、常にこうだったら良いのにと愚痴を零すほどのものだった。
模擬試合でふたりの隊士を跳ね飛ばした舩坂は場から離れて汗を拭った。それから柄杓で水を掬い一息に呷る。焼けた喉に凍る寸前の水が心地良い。
「御曹司、顔を見せませんね」
修練には参加せずに隊士を監督していた甲野が話しかけてきた。
「知らねぇよ。――修練の予定は知らせてあるんだろ?」
当然ですと甲野は答えた。
「第三継嗣の考えが読めるか? 考えるだけ無駄ってもんだろ」
「そうですか? 意外と副長とは呼吸が合う気がするのですが――」
冗談にしては嫌味掛かっている。
「何言ってんだよ。俺より、おまえの方が相性はいいと思うぜ?」
何事も雑に考える自分と違って、甲野は細部まで注意して考える性格だ。それは部隊の補佐役として必要不可欠なものであり、その考え方は何処と無く第三継嗣に似ている気がする。
「おまえの性格を悪くして、権力を持たせたら、あんな感じになるんじゃねぇの?」
「言ってくれますね。――私が第三継嗣だったら、副長を上将批判で更迭しますよ」
うるせぇ、馬鹿――首に掛けていた布を洗濯籠に放り込み、木剣を握り直す。
「立木撃ちやってくる――後は任せるぞ」
「畏て候」
巡回警邏隊の専用練兵場はない。純粋なる兵力としては計算されていないからだ。よって、この練兵場も間借りしているに過ぎず、優先権は持っていなかった。
舩坂は大剣を模した木剣を肩に担ぎ、練兵場の隅に向かう――そこには打ち込み用の立木が数十本、乱雑に立てられていた。
その前に立ち、舩坂は精神を集中する。
悪くない案だと思ったんだけどな――古鐘の姫巫女を引っ張りだすという第三継嗣の考えは面白かった。だが、第三継嗣が交渉すると言った翌日には待機命令が出された事実から考慮すれば、許可は下りなかったのだと推理できる。
それどころか謹慎を喰らってる可能性もあるな――舩坂は大きく息を吐き出し、立木の前で木剣を構えた。
「あまり無茶しないでくださいよ」
甲野の注言を軽く聞き流し、舩坂は咆哮を上げると立木打ちを始める。
締めの稽古は単純だ。練兵場の隅に打ち込み用の立木を乱打するだけだ。ただ、舩坂が他の剣士と少し異なるのは、己が気絶するまで打ち込みを続けるということだった。
この修練は戦場で孤立無援になった状態を想定しており、乱立する立木の全てを打倒しなければ生還はない――舩坂はそう考え、己の限界を超えるまで全力で立木を打ち込む。気を抜けば死ぬ――その一念でひたすらに打ち込みを続けるのだ。
翌日、動けなくなるのは常の話だが、舩坂はこの稽古を楽しみにしている所があった――全力を出し尽くしたという感覚は決して嫌いではない。
立木と木剣が激突する音と舩坂の雄叫び。汗と木片が飛び散り、袈裟に打ち下ろした木剣が立木を叩き折る――その様子を警邏隊の准騎士たちは遠巻きに眺めていた。
「あんだけ深くに打ち込んだ立木が横薙ぎで引っこ抜かれるって……やってられねぇ。まともに相手したら怪我すんぞ」
「骨折れるどころじゃねぇな。軽く死ねるな。まったくとんでもねぇ豪腕だぜ……」
「それがよ――実は腕力だけで言ったら俺の方が強い。注目すべきは体の使い方なんだよ」
若い准騎士たちが坂崎の顔を覗き込む。違うんだよ、副長は――坂崎は言葉を続けた。
「――副長はな、体が柔らかくて、関節も驚くくらい曲がる。だから重くて衝撃が残る打撃になる。――あれは甲冑を着てる人間を殺すための打撃だ」
「甲冑剣術って鎧の隙間を狙えって……」
鎧の上から剣で叩いても効果は薄い。鎧の上から効かすなら、槌や打撃兵器を選ぶべきだ――それは常識でもあった。
「関節を狙うなんて誰もが知ってる話だろ。だから皆、警戒してる。つまり問題はどうやって関節に当てるかだ。そのためには鎧の上から効かす撃ち方ってのも覚える必要があんだよ。副長の打撃を頭に喰らえば、兜を被ってたって目が回る。腕に貰えば痺れて剣が握れない。腿を打たれりゃ歩けない――そうやって効かせた後に関節と急所に刺し込むんだよ」
坂崎の解説に若い准騎士が感嘆していた。
若い連中が圧倒されるのも無理はないと甲野は思った――初めて舩坂の稽古を見た時、甲野も同じことを思ったのだ。
舩坂の前任の警邏隊副長――岳田の剣術の腕前は並であった。だが家柄が良く、また人当たりも良かったため、准騎士たちからの評判は悪くなかった。
そんな彼が舩坂を連れてきた時、甲野を含めた数人の准騎士は心底驚いた。何故なら舩坂という名字は五條の乱で首謀者の側近だった男と同じだったからだ――。
岳田副長はトチ狂ったのか――甲野は秘密裏に岳田に事情を聞きに行った。そこで岳田が舩坂を引き取った裏事情を聞かされた――結果、甲野は舩坂が隊に加わることを認めざるを得なかった。
岳田が連れてきた――当時は無口だった男は、その後の数年で隊士たちの信頼を勝ち取り、岳田の後継者として副長補佐にまで昇格した。一度は隷民まで身を落とした男が、そこまで登っていくためにどれほどの犠牲を払ったのか――傍で見ていた甲野はよく覚えていた。
「これが舩坂副長の稽古ですか……」
女の声に甲野の思考が中断させられたのは、その時だった。焦茶色の革鎧に面頬――いつの間にか、甲野の背後には第三継嗣の女武芸師範が立っていた。
「……里海師範、何か御用でしょうか」
里海が隊長である第三継嗣、鷹乃雅真の副官と考えれば修練の様子を監視しにきてもおかしくはない。だが、武芸師範と言えども、女に監督されるというのは、隊としての体裁が悪い。できる限り穏便に追い払いたいと甲野は考えた。
「あの稽古は何時も?」
「えぇ、毎日ではありませんが――休みの前日には必ず。戦場にあるを想定し、死ぬまで――気を失うまで剣を振るっています」
「そこまで自分を追い込むのは容易ではありませんね」
「立木を全部叩き折れば、そこでやめるつもりだと言っていますがね。流石にそこまでできた時はないですよ。時間が掛かれば掛かるほど、斬撃の威力は落ちていきますしね」
なるほどと感心したかのように里海師範は呟いて、舩坂の稽古を見詰めていた。
「……舩坂殿は強いですね」
「えぇ、自分が知る範囲では……負けたところを見たことはないですね」
少しばかり誇らしい感情がある。舩坂とならどんな戦場でも怖くはないと甲野は思っている。
「それは素晴らしい……」
里海の呟き――それから女武芸者は平然とした顔のまま言った。
「舩坂殿と手合わせをしたい。彼と戦ってみたいのです」
理解するまで二秒掛かった。
「御冗談を……。手加減できる人じゃないですよ」
あの打ち込みを見て言える台詞か――甲野は内心で罵声を浴びせた。舩坂の打ち込みは強烈で、まともに受ければ一発で骨まで持って行かれる。女の痩せ腰で耐えられるものではない。事実、警邏隊の中でも手練の者しか舩坂の相手はできないのだ。
「私は本気です。第三継嗣の許可も頂いています」
何故そういうことする――苛立ち。
第三継嗣は隊内の序列を明示せよと言っているのか――甲野はそう捉えた。確かに今までの警邏隊隊長には必ず副官がついており、その立ち位置は警邏隊副長より上位に置かれていた。だが、第三継嗣の副官は女だ。基本的に女の武人は貴婦人の警護役にしかおらず、騎士団を指揮するなど、聞いたことはない。
「……後日にできないでしょうか? 副長はもう疲れていますし、稽古が終わればぶっ倒れてますので――」
舩坂の怒声と打撃音は続いている――舩坂が負けるとは思わないが、万が一があった場合、警邏隊は女武芸者以下の男たちと周囲から見られることになる。酒場では警邏隊を馬鹿にする話で盛り上がるだろうが、そうなってしまっては、この街で仕事を続けることなど不可能だ。
「舩坂殿の疲れに乗じるつもりはありません。今すぐ正々堂々の立ち合いをしたいだけです」
その言葉は警邏隊の准騎士たちの耳にも入ったようで、隊士全員の動きが止まっていた。
拙いなと甲野は思った。同時に舐めやがってという、加虐的な思考が膨れ上がる。
かなり腕の立つ女だと思うと舩坂は言っていた――確かに油断はならないだろう。だが所詮は女だ――駆け出しの准騎士ならともかく、舩坂や自分がやり込められることは有り得ない。だったら徹底的にやられてしまえばいい。
やらせるとなれば、舩坂の体力が残っているうちにやらせなければならない。だが――。
「処刑人どもは女に良い所を見せようと必死なのか? なんだ、あの気狂い剣術は――剣の術理もあったものじゃない」
その言葉に嘲笑が追随した。振り返った甲野の視界に鈍色の鎧姿の集団が飛び込んでくる。その胸には剣と鷹羽の意匠――。
「侍衛衆……」
侍衛衆は第一継嗣麾下の精鋭騎士団であり、領主一族の護衛を目的としている騎士団だ。その精鋭たちによって巡回警邏隊が囲まれていることに甲野は気づいた。
難癖を付けにきたのか――領内での序列をはっきりさせるために、他所の騎士団を侍衛衆が馬鹿にすることは多くあった。今回は、その獲物として巡回警邏隊が選ばれたのだと甲野は察した。拙いな――なんとかして、この場を切り抜けねばならない。舩坂だったらそうしようとするはずだと甲野は思った。
「――私は第三継嗣が武芸師範役、
先に反応したのは女武師範だった。だが、その問いは嘲りを持って迎え入れられた。
「これはこれは、勇ましいものよの。女だてらに鎧を胸にする者は、
下衆な言葉に侍衛衆たちが笑った。それから男は笑みを浮かべたまま、名乗りを始めた。
「侍衛衆、
歯噛みする者、喰ってかかろうとする者――甲野は拙いことになると感じ、撤収の指示を出そうとした。だがそれより早く、再び里海が答えた。
「これは異な事を申される。あと一刻の使用許可を我等は得ている」
「――応さ。しかし処刑人どもが転げ回っては練兵場が穢れるというものだ。――薄汚い鼠どもには即刻、立ち去って貰おう」
傲慢な言葉――甲野は傍らに立つ里海にだけ聞こえるように話し掛ける。
「……里海師範、引きましょう」
このまま侍衛衆と揉めては何をされるかわからない――一心不乱に稽古をしている舩坂に気づかせたくはなかった。
女武芸者は甲野を見て、にこりと微笑んだ。それから――。
「おかしなものだ。我等を鼠と評されたようだが、其方たちの鎧こそ鼠の色であろう。――あぁ、立ち去るべき鼠とは其方たちのことか?」
駄目だ、こいつは第三継嗣の師匠だった――甲野は先日の廃聖堂の事件を思い出した。あの時と同じだ――第三継嗣の供回りには、相手を煽り倒す習慣でもあるのだろうか。
「……舐めるのは一物だけにしておけよ、女――」
辰沼の目が細くなった。
「おや、どうやら辰沼殿は女郎屋に棲まう鼠のようだな。――どうでもよいが、物欲しげに私を見るのは止めてくれないか? 気色悪い」
里海の切り返しに辰沼が憤怒の形相で沈黙――里海師範が畳み掛けた。
「さて――先程言ったとおりです。もう一刻、ここは我等が使用させて貰う。見学したければ許可を出しましょう。隅にでも座って眺めていなさい」
甲野は里海師範には口喧嘩を売るまいと決意した――まったく女は度し難い。舩坂よりは口が回ると自覚しているが、里海師範には敵いそうもない。しかし、辰沼はそう考えていないようだった。
「……そういえば、あの柔弱な第三継嗣は、先日も阿呆な提案をして
挑発には挑発で返す――舐められたままにすれば、己の面子を失う。それが戦国の世で生きる者たちの感性だ。だから何があっても言い返す――しかし、その感性は第三継嗣の女武芸師範も持ち合わせていた。
「面白いですね。では私と手合わせをしましょうか。――勝った方が、この場を使用する。それでいいでしょう?」
「笑わせるな、女と立ち会えるかよ。――あぁ、違ったな。寝台の上なら構わんぞ? 我が愛刀で悲鳴を上げさせてやろう」
「その粗末な一物で私が満足するとでも?」
安い挑発に安い挑発が返される――だが、限界値を迎えれば当然決壊する。
「こいつを股から刺し込んでやろうか?」
辰沼が剣を抜いた。
「では、あなたの尻穴にはこれを――」
女武芸師範も剣を抜いた。
甲野は頭を抱えた。果たし合いが始まる――しかも巡回警邏隊は女を代表に立てたことになる。考える限り、最悪の結果だ――。
「――何やってんだ、おまえら」
明らかに温度の低い声に振り返る。助かった――一瞬だけ、甲野はそう思った。
そこには汗だらけになり、荒々しく肩で息をする舩坂が立っていた。
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