第19話 裏方の夜
火燈の灯火が薄暗い室内を照らしている。暖色に染まった白い壁紙――淡い影が微かに揺れている。
垂水城に常駐する侍女の大半は、二人部屋を充てがわれており、綾女は寿々音と同室であった。狭く、日当たりの悪い部屋には、ふたり分の寝台と机。それと粗末な衣装棚が設置されている。
夜の掃除と明日の準備を終えたふたりは私室に戻り、消灯までの僅かな自由時間を過ごしていた。
夜着に着替えを終えた寿々音は寝台に横たわり、綾女は窓際の机で写本をしている。本は以前、第三継嗣に写本を頼まれた際に、一部多く写しておいたものだ。これを更に複製し、できた本を売り払うという小遣い稼ぎを綾女はしていた。
古鐘にいる弟は母親の親戚筋に預かって貰ってはいるが、金銭面で不自由を掛けたくない。これから成人の儀を迎える男子だし、色々と支度金も掛かるだろうと綾女は考えていた。だからこそ、稼げるうちに稼いでおきたい。
「そろそろ寝ようよ。――知ってる、うちの部屋って他所の部屋の倍、照明代を使ってるんだって」
「この頁で終わりにするね」
追加の照明代は綾女が払っているし、文句を言われる筋合いはない――だが、寿々音が言いたいのは、明日も早いのだからということだろう。だから、素直に受け入れることにした。
今日は目標まで届かなかったな――予定どおりに進行していれば来月の頭には完成する。早くできれば、それだけ次の写本にも早く取り掛かれる。とはいえ、写本は正確さが肝要である。焦っても仕方がないと綾女はそこで作業を止めた。
火燈を消し、鎧窓の隙間からの月明かりを頼りに寝台に横たわる。
「いやー、今日は驚いたねー。まさか御曹司とご相伴することになるとはねー」
寿々音の声が弾んでいる――確かに今日の出来事は異例と言っていい話だった。寿々音は眠りに落ちる前に、この話をするのを楽しみにしていたようだ。
「もう言わないでください……」
「だってさ、昼だけじゃなくて夜もだよ? ――ね、あの感じじゃ、これから毎回お溢れを貰えるってことだよね」
「そう思うけど……」
何か問題でも起きたのだろうか――第三継嗣は一族の晩餐に出席しなかった。結果として昼餉よろしく、夕餉も再び第三継嗣と食事を共にすることになった。会話もなく淡々と進む食事――旨いはずの料理の味もまったく感じることができなかった。
「いや、でも肴がないのはアレだけど、汁物だけでも十分だよね。美味しかったな、粗汁」
魚のあらがふんだんに奢られた汁椀は、侍女たちが普段頂戴しているものより豪勢で、それだけでも白米の供として成立するものだった。そして何より、侍女の仕事は肉体労働である。育ち盛りのふたりにとっては、第三継嗣の施しは有難かった。
「美味しかったけど、落ち着けなかったですよ……」
「わかる、親に言ったって、絶対に信じないと思うねぇ。――下女ごときが若様とご飯一緒したって」
第三継嗣と食事を共にすることになった――これは仕方がない。元々は自分の
だが、緊張でまともに食事などできるわけがない。第三継嗣とは身分に差がありすぎるし、何よりも食事の間、まったく会話がないのがひどく辛いのだ。
うちの食事時は賑やかだった――商家だった実家では、家族だけでなく使用人も一緒に食事を取っていた。父も母も話し好きであったし、使用人たちも楽しげにしていた。
中でも母は、使用人たちから、それぞれの故郷の料理を聞き出し、教わったものを食卓に並べるのを習慣にしていた。それは、まだ雇われて日が浅く、打ち解けていない使用人の気持ちを慮っての振る舞いだった。そして、その習慣は使用人たちにも素直に受け入れられていた。
おまえの故郷の菓子は旨いな、いや俺の村の鶏は最高だ――使用人たちのお里自慢は華やかだった。そして、こうやって大きな家族を作るのよ、そうすれば幸せになれるから――母の言葉は今でも脳裏に焼き付いている。
だが、第三継嗣の食事は違う――なぜ彼は、ああもつまらなそうに食事ができるのだろうか。
予想はできる――与えられた食事に毒が入っていないかを観察し、その後は会話もなくひとりで食べる――そんな生活を何年も送ってきたからだろうか。
おそらく、これが正解のような気がする。でも、他人を警戒し、拒絶しているのであれば、侍女たちと食事を供にはしないのではないだろうか――ひとりが安全であると信じているなら、侍女に毒味はさせることはあっても、食事を下賜することなど有り得ないのではないだろうか。
わからない。同じ所をぐるぐる回っている気分に綾女はなっていた。
例えば、本朝最高の物語文学とされる"流皇言ノ葉"の主人公である皇子は、その身分ゆえに人々から距離をおかれて孤立し、他人からの愛を求めていた。その彼が母親によく似た容姿を持つ少女を目撃し、彼女の無垢な振る舞いに魂を惹かれ、やがて正妻に迎え入れるという展開があった。第三継嗣もそうなのだろうか――他人との交流に飢え、それを求めて自分たちと食事を取るようにしたのだろうか――いや、それも何処か違うような気がする。
第三継嗣は物語の皇子とは違う――もっと複雑な何かだ。
「……それにしても、今夜もお呼びが掛からないんだね」
寿々音の呟き――どきりとした。
「今晩あたりはお声が掛かるかもしれないな~って、思ってたんだけどね……」
何も言えない――布団の下で身動ぎせずにいる。綾女は部屋付き侍女――言い換えれば愛妾候補として第二継嗣から送り込まれた人間だ。
「私さ……私は駄目だったけど、あんたなら何とかなるかもって思ってたんだよねぇ……。それはそれで、ちょっと悔しいけど」
ほら、愛妾と友達なら、いろいろと優遇して貰えるかもしれないしね――寿々音の小さな笑い声は自虐的だった。
実のところ、城に務める侍女の大半は高位階級者のお手付きになることを期待している。それは貧困からの離脱を意味し、将来の安定を保証するものだからだ。
だから、誰もが高位者たちの眼に入るように身綺麗にしている。その中で寿々音は城に務めるようになって三年で第三継嗣の部屋付き侍女の立場を勝ち取った。他の侍女に比べて気が利き、肉体的にも健康だったから、侍女頭によって第三継嗣の部屋付き侍女に選出されたのだ。
だが、寿々音が第三継嗣の手付きになる前に、第二継嗣が綾女を送り込んできた。玉突き人事が発生し、寿々音は僅か三ヶ月ほどで第三継嗣の部屋付きを外され、そして今では綾女の補佐として生活を共にしている。
「その……。何と言えばいいのか……」
その気はなかったとはいえ、綾女が割り込んだのは事実だ。
「別に謝って欲しいわけじゃないよ。――あたしが駄目だったってだけ。――好みとかあるじゃない、胸が大きいとか、頭がいいとか。あたし、胸も頭も並だしねぇ」
そうは口にするものの、寿々音の言葉はどこか寂しい気配を孕んでいた。娘盛りの侍女が、男から相手にされなかった――その烙印はしばらくついて回るだろう。
「でも、立場ないよね、こういうの……。あいつ、やっぱり男色家なんじゃないかな?」
言葉には微量の憎しみが含まれているようだ。
「寿々音さん……。止めましょう、怒られますよ」
「大丈夫、誰も聞いてないって」
心配性だね――けらけらと寿々音は笑った。
「あー……でも、男色家はないかも。武芸師範いるし。――あのふたり、怪しいよね?」
「里海師範のことですか? あの人は……」
立派な人だと思う。武という分野で男性と互角に渡り合うなど、並の人間にできることではない。だからだろう――彼女に憧れる城内侍女は多い。綾女も感心している。
「だって訓練って、お互いに触れ合ったりするんでしょ――それって、いやらしくない?」
「それは――」
――どうなんだろうか。武術の訓練である以上、接触しないわけにはいかないのではないだろうか――それがいやらしいのか、どうなのかは別の話のような気がする。
里海師範と綾女は何度も会話を交わしている。上品で魅力的な人物だと綾女は認識していた。武人というよりは詩学教師のような気配を纏う人――だが、第三継嗣と、そういう関係にあるのではと考えたことはなかった。
しかし、彼女が魅力的なのは事実だ。女性としては背が高いのは欠点かもしれないが、手足はすらりと伸び、髪も輝くばかりに美しい――第三継嗣が惹かれていても何らおかしくはない。
「女武者なんて何時までもやってられる商売じゃないんだし、あれは絶対に若様を狙ってると思うんだよね」
もし、そうだとしたら敵わないな――女として負けている気がした。喫茶の際のほんの僅かな会話でも、彼女は教養を感じさせてくれる。それに侍女たちに対して気遣いもしてくれる。
何故だろうか――第三継嗣のことなど何とも思っていないはずなのに、少しばかり胸の内側が重いと綾女は感じていた。
「……でさ、あの人って顔に大きな傷があるって噂、知ってる?」
「え――」
初耳だった。
「直接見たわけじゃないけど、そういう噂。――だからいつも面布が外せないって話」
隠してるんだよ――微小な憎しみを感じさせる声音。
確かに綾女も里海の素顔を見たことはなかった。しかし、この大倭では身分の高い女は素顔を隠すのが仕来りであり、おかしいとは考えはしなかった。
何よりも里海葵は武人である。戦場にも出ている――傷のひとつやふたつ、付けられていてもおかしくはない。おかしくはないのだ。
「それでさ――胸は大きいし、腰も締まってるから、体で若様を籠絡したって、みんな言ってる」
「……そうなの」
そう答えるのが精一杯だった――普段なら楽しいはずの夜の会話だが、今宵は続けたくない。噂話は好きだが、この話には悪意がありすぎる。その中に引きずり込まれたくはない。
もう寝よ――綾女はそう言って、頭から布団を被った。寿々音は何でこんな話をするのだろう――問い質すのも嫌だった。
「おやすみ。……私は諦めたけど、若様を狙ってる子は多いから。――早めに落としなよ」
そうか――そういうことだったのか。
寿々音は、ただ単に里海師範を腐したわけではない。綾女に対して警告を発してくれたのだ。
既に正室を迎えている第一継嗣。他領へ赴任している第二継嗣。そして成人の儀を終えたばかりの第三継嗣。
身分の低い女たちが狙うのは、第一継嗣の側室か、第三継嗣の愛妾といった所だ。第一継嗣の側室ともなれば、それなりの教養や礼儀作法が必要とされる。第三継嗣の愛妾の方が楽だと考える者も多いだろう。
綾女が羨ましく思われる立場であり、同時に疎ましく思われる立場であること――寿々音はそれを綾女に再認識させたかったのだろう。
あの人を愛せるのだろうか――打算で考えれば、これ以上はない話であり、弟の養育費を考えれば、早めに愛妾の座は確保したいというのは、綾女の本音でもあった。
だが、まな板の上に寝かされた鯉が調理人を愛することはあるのだろうか――好きになれればいいと思い、何度も話し掛けてみた。だが、第三継嗣は自分に興味を持っていないという事実が判明しただけだった。
好きでもない相手に抱かれる――それを仕方のないことだと思える程度には綾女は世の中を理解している。それは恋物語とは違うものなのだから。
「……ありがとうございます」
布団の中で呟いて、目を瞑る。早く意識が遠のいて欲しかった。
そうなるだろうなとは思っていたが、その晩の夢は悪夢だった。
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