第18話 裏方の昼


 昼になると黒川綾女くろかわ あやめ御鈴寿々音みすず すずねと共に第三継嗣の私室を再び訪れた。

 この城の領主一族は朝と昼は各自個別に部屋で取り、晩餐だけは家族が揃うという形式を取っている。もっとも、第三継嗣だけは朝昼だけでなく、晩餐までも、ひとりで取ることが多い。

 声を掛けて扉を開けると、第三継嗣は簡素な部屋着姿で寝台に横たわって本を読んでいた。

「失礼いたします。――昼食をお持ちしました」

 返事はない――いつものことだ。書に集中し、それ以外はどうでもいいという態度。

 綾女は寿々音と共に配膳を始めた。

 昼の献立は白米と焼魚。肉と根野菜の煮物。蕪の漬物。そして汁物だった。食事用の手押し車から、会議用の大机に並べていく。食器は良い物が使われているので、特に丁寧に扱うことを心掛ける。配膳が終わると綾女は用意ができましたと第三継嗣に呼びかけた。

 のそりと寝台から起き上がった第三継嗣が席に着くと、綾女は毒味の準備を始める――毒味用の銀製の箸と皿を用意し、机の上に広げられた献立から、見苦しくないように少しづつ切り取り集める。

 手押し車の後に立つ寿々音が緊張していることに綾女は気付いた。

 以前に第三継嗣の食事に毒が混入されていたことがあると綾女は聞かされていた――その際、当時の毒見役は呼吸ができなくなり死んだとの話だ。使われたのはおそらく河豚毒で、厨房の下働きがふたり、犯人として処刑されたらしい。恐ろしい話だと綾女は思う。

 だが、厨房で調理してる所は見ているし、その後は自分がここまで運んだのだ――毒物を入れる間などないはずだと綾女は考えるようにしていた――どのみち、誰かが務めなければいけない仕事ではある。

「――では、これより毒味を始めます」

 一礼してから収集欠片を口に運ぶ。緊張と期待――相反する感情がせめぎ合う。

 白米はつやつやと輝いている――白米は噛めば噛むほど甘みが増す楼錦を極上に炊き上げてある。旨い。

 鯛の焼き物は塩梅が素晴らしく、芸術的とさえ思えた。

 牛蒡と鶏肉の煮物は、濃味の垂れで味付けされており、口が白米を要求して止まらない。

 蕪の漬物の一切れで口腔内を改め、それから綾女は大根と油揚げの味噌汁を味わった――これもまた丁寧に出汁の取られた絶品であった。

 箸を置き、口元を清布で拭う。深呼吸をして己の体調の変化を待つ――痺れもなければ、胃や胸がむかつくこともなかった。

「――問題ございません」

 ため息の後、再び一礼。一拍の間の後、第三継嗣が食事を始めた。

 毒味を終えた綾女は後ろに控え、入れ替わりで配膳役を務める寿々音が第三継嗣の横に控える。手持ち無沙汰になった綾女は、第三継嗣の食事姿を見るとはなしに見ていた。

 育ちがいいんだよね――第三継嗣の箸の使い方は綺麗だし、ほとんど音を立てることもない。

 第三継嗣が箸で鯛を解し、摘み上げた白身をゆっくりと口元に運んでいく――あの鯛の焼き加減は最高だった。ほくほくとしていて塩の甘さが引き立っていた。

 次に牛蒡と鶏の煮物を口にした第三継嗣は、追い打ちを掛けるかのように白米膳に手を伸ばす――鶏肉の滋味が口腔内に蘇る。あれだけでご飯一膳はいける。まったく持って、この城の厨房方は良い仕事をする。

 あれほど機嫌の悪そうだった第三継嗣も、何も言わずに食事を進めている。背筋が伸ばされた美しい姿勢――しかし、食事の光景に優雅という修飾語を使うのは正しいのだろうか――ふいに第三継嗣と視線がぶつかった。

「じろじろ見るな。食いづらい」

「す、すみません……!! つい、美味しそうだなと思って……」

 叱責される――焦ったあげく、わけのわからない言い訳までしてしまった――綾女は思わず身を竦めた。

 第三継嗣は怒ると長い――怒鳴りつけてくることはないが無視してくる。おそらく自分もしばらくの間、無視されることになるだろう。

 信じられないほど徹底されるそれは、城内侍女たちから非常に恐れられていた――第三継嗣による無視は、まるで自分の存在価値が無になった気分にさせられるのだ。

 第三継嗣は箸を置いた。主人の食事を邪魔してしまった――綾女は後悔に心臓を掴まれていた。

「……腹が減っているのか?」

「……はい? ――は、いえ! 大丈夫です。問題ありません!」

 突然、何てことを聞くのだろう、若様は――その時、綾女の腹が小さく鳴った。

「…………」

 凍りつく空気――第三継嗣の傍に立つ寿々音の表情が完全に消えている。第三継嗣の視線が語りかけてくる――今、何か鳴らなかったか?

 しまった――何故、この状況で腹の音を立ててしまったのだ。我が腹ながら許せない――これではまるで子供だ。絶望と後悔が肩を組んでこちらに向かってくる姿が綾女には見えた。

 どうすればいい――言い訳を――誰もが納得できるだけの言い訳が欲しい。

 必死になって何を言うべきか検討するが、答えが見つからない。いや、腹が鳴った理由はわかっているのだ――それは先程の毒味のせいだ。

 あれが――あれが余りにも美味しかったのが原因だ。

「こ、これは……その…………えっと…………」

 厨房方が腕を奮った一品が美味しくないわけない。それを綾女は少しだけ摘んだ。折しも、本日は城内侍女に病人が出たため、午前は通常の三倍近い作業をこなしてきたため、綾女のお腹は元々空いていたのだ。

「毒味をした結果……その……あの……美味しかった記憶が…………その…………」 

 恥ずかしすぎて眼が明けられない――これまで昼の配膳は上手くやってきたというのに、何故今日に限って――再びお腹が鳴った。先程よりも大きな音だった。

「――死にます」

「ちょっ……! あんた、何言ってんの……」

 寿々音が慌てている――そう、あの大抵のことはどうでもいいとばかりに適当な寿々音が慌てるだけの事態を自分は引き起こしてしまった――綾女は覚悟を決めた。

「死なせてください」

 私だって乙女だ――殿方を前にしてお腹を鳴らすなど万死に値する。もう頭が真っ白だ。泣きたくても涙も出ない。銀箸で喉を突こう――その瞬間、寿々音が組み付いてきた。

「お願いです、死なせてください……!」

「だ、駄目だってば……!!」

 寿々音に強力にしがみつかれ、箸で喉を刺すことができない。

「待て」

 まるで餌を前にした犬に掛ける言葉のように第三継嗣が言った。冷たい声だった。

 どのような処断が待っているのだろう――恐怖に綾女の体が震えた。死ぬのはいい――でも不名誉な罰を賜ることになれば、古鐘にいる弟にも迷惑が掛かりかねない。それだけはどうしても避けたかった。

「……白米と汁物は余っている」

 覆いかぶさっている寿々音が重い。若様は何を言っているのだろう――綾女の思考は混乱を続けていた。

「聞こえなかったか――白米と汁物が余ると言ったのだ。厨房方は何時も多く寄越すからな。さりとて残飯として捨てるのは忍びないと常々思っていた。だから――食え」

「…………」

 余りの事態に時間が止まる。第三継嗣の言葉は理解できるが、意味がわからない。

「その……第三継嗣、それは私どもに食事を共にせよとお申し付けなのでしょうか」

 寿々音の声が上擦っている。当たり前だ――領主一族と食事を共にする侍女など、どこの世界に存在するというのだ。そんな話、聞いたことがない。

「じろじろ見られるよりはマシだ」

 えぇ、それはそうですよね、私もそう思います。すみませんでした。心の底より反省しています――綾女の心は未だ混乱している。

「し、しかし……それは臣下として……」

 あってはいけないことだ――寿々音の声は固いままだ。

 第三継嗣は髪を掻き上げた――珍しい行為。通常は見苦しいとされる振る舞い。

「私は巡回警邏隊の長を務めている。――遠征に出れば部下と食事を共にするのが当然だ。城内でそれをしてはならないという理由はない」

 それは――そうかもしれないけど――綾女も寿々音もまだ動くことはできなかった。

 第三継嗣のため息。

「腹の音がうるさくて飯を食う気になれない。――俺に飯を食わせたかったら、おまえらも食え。以上だ」

 止めだ――綾女は死んだ。

  











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