第16話 遠征準備
城門前で里海師範と待ち合わせた舩坂は、案内されるがままに主塔区域へと入っていった。
それは舩坂にとって初めての経験だった。
城内では武人や文官が忙しなく働いているのが見える。
同じ領主に仕えているとはいえ、舩坂とは階級が異なる。彼等は上流階級であり、自分は中流武家の生まれだ。
ましてや今は掃除屋と忌み嫌われる巡回警邏隊の副長――主塔区に常勤している連中には知己もおらず、多少の心細さを覚えながら第三継嗣の私室のある嘴塔に入った。
しかし、叛敵の子である俺を私室に招くかね――自分が第三継嗣の護衛役なら絶対に許さないだろうなと、三歩前を歩く里海師範の後姿を見ながら考えた。
そして、それから一刻が経過しようとしていた。
第三継嗣の私室の机の上には大きな地図が広げられていた。
会合の出席者は三名――第三継嗣、
古鐘と鷹乃の国境は森林地帯であり、詳細は確かではない。実の所、国境線すらあやふやである。
両国は互いに賀森の入り口に関所を設け、大森林を緩衝地帯としていた。
森は深く、野獣や賊が跋扈している――商人は整備された間道以外通らず、狩人たちも奥深くまで侵入することを良しとしない、いわゆる禁域に近いものだ。
だが、舩坂の眼の前に広げられた地図には、森の中を流れる水脈や支流の位置――そして各所の植生なども記載されていた。おそらく鷹乃家の秘蔵の地図だと舩坂は推測していた。
しかし、これだけの地図を持ってしても、賊どもの巣食う山砦の位置は特定できず、その人数も不明――どれだけの兵を派遣すればいいのかの手掛かりすらない状態だ。
舩坂は地図を見詰めながら無言になった第三継嗣を眺め、そっと嘆息した――彼との合議は二度目だが、一度目の時は散々苦労をさせられた。
ふいに扉を叩く音がした。里海師範が応じると、ひとりの侍女が、喫茶用の手押し車と共に入室してきた。
「失礼致します、お茶をお持ちしました」
舩坂は横目で侍女を観察――常の癖。これは男の性だ。仕方がない。
まだ幼さの残る年齢だが、やけに肉感的な肢体。侍女らしく髪を小さくまとめている。人懐こそうな瞳に愛らしい口元――将来の上玉だなと鑑定。その手の店にいれば売れっ子になるだろうと確信した。
おそらくは第三継嗣の部屋付き侍女――事実上の愛人だと気付いた。なんとなく見てはいけないものを見てしまった気分になると同時に、こいつはこういう女が好みなのかと納得した。
お茶の準備が始まると舩坂は、視線を横に滑らせて里海師範の顔を盗み見た。
相変わらず姿勢がいい。今日は鎧姿ではなく平服であるが、面布を付けているため瞳から下は見えない。
俺はこっちの方がいい女だと思うんだけどな――舩坂が調べた限り、里海は三年ほど前から第三継嗣の武術師範をしているらしい。
その間に第三継嗣のお手付きになった可能性はどのくらいあるのだろうか――股間が屹立するのを感じたが、そんなことはどうでもいい。座っている限り、見つかることはないのだから。
部屋付き侍女の勧めに従って茶を嗜む。舩坂でも理解できるくらい上質の茶葉と水が使われていた。そして美しい硝子製の茶杯――割れやすいと聞いたことがあるので、落とさないようにと慎重に扱う。
「お代わりは如何ですか?」
部屋付き侍女の勧めに舩坂は頷いた。手持ち無沙汰なのだ――第三継嗣は地図を見詰めて何か考え込んでいる様子で、茶杯を握ったままぴくりともしない。
「今日の菓子は絶品ですね、黒川さん」
御曹司の振る舞いには慣れているとばかりの里海師範――手慣れた風情で茶と菓子を楽しんでいる。
「ありがとうございます、里海様。――古鐘の錦屋の品になります」
古鐘からの輸入品――つまりどんなに早くとも、防関を通って二日ほどの時間が経過しているはず――それにしてはこの菓子は美味い。
しっとりふわりとした生地に乾燥果物と堅果――混然とした食感が楽しい。かなり手の込んだ一品だ――土産に持ち帰らせてくれないだろうものか。
しかし、わけがわからんな――舩坂は部屋の中をぐるりと見渡した。これだけ良い物を食っているわりに、第三継嗣の私室は狭く、そして質素だった。
こういう奴の部屋はわけのわからん装飾品が山程あると思っていたのだがな――室内を再度観察する。
寝台と文机。甲冑置きには初見の軽鎧――前回の任務で使用したものではないが、飾りの少ない実戦向きのものだ。もっと角とか棘とか付ければいいのに――自分なら、金さえあればそうする。
第三継嗣の鎧は地味で、軍を率いるには華やかさが足りていない――だから調度品として見たとしてもつまらないものだ。
だが、この部屋を特徴付けているのは、それらの品ではない――それはふたつの壁面を埋めるようにして聳え立つ本棚だった。おそらく舩坂が生涯で読んできた本の倍以上の書物がこの部屋にはあるようだ。
舩坂は注意深い本の背表紙を読み解いていった。武芸夜話、武王軍略論説考、瑛武擬陣書――この辺りならば、舩坂も読んだことがある。武人として暗記すべき類の書物だ。
舩坂自身、師匠に命じられて暗記もしたし、師匠からの問答にも応じた経験がある。だが、ここには無数の書が保管されており、どうにも第三継嗣はそのすべてに目を通しているという気配を感じる。
俺なんかより、よっぽど勉強してやがるんだな――腹の立つ男ではあるが、そこは認めるべきだと舩坂は思った。
それにしても――こいつは何か考えてると、周りがまったく見えなくなる奴だと理解する。
第三継嗣は地図を睨んでいるように見えるが、おそらく地図そのものを見てはいない。思考だけが何処かを彷徨いているのだろう。
会合の冒頭で、舩坂は自分の見解を伝えた――山砦探索は現時点では無意味だ、と。
その後、幾つかの問答を交わした上で第三継嗣が思考に突入した。その状態になると里海師範が呼び鈴で侍女を呼び出し、喫茶の準備を依頼したのだ。
それにしても、そこまで考える必要があるものかね――舩坂は茶を啜り、吐息を零す。
季節は晩秋――ここから先は兵を動かすのが難しい季節になる。
夏季とは違い、冬の行軍では防寒対策が必要になるのだ。冬季野営装備と燃料を持ち歩くことになれば、それに呼応して動かすための人や馬の数が増える。人馬が増えれば準備する糧食も増えることになる。ましてや体に熱を生ませるために脂と米麦が欠かせなくなる――つまりより多く、経費が掛かることになる。
それでいて冬場は病を患う者が続出する冬は、まったくもって行軍には向かない季節といえる。
だから舩坂は第三継嗣に言ったのだ――手下を引き連れて食料確保に出た頭領が戻らない。つまり頭領は捕まったか殺されたかだ。であれば官憲の手が伸びてくる可能性がある。ならば一時的に山砦から離れるべきだ――俺が賊なら、そう考える、と。
それに対し第三継嗣は冬間近で住処を捨てられるものかと聞き返してきた。舩坂は、あの年老いた賊が食料が足りないと言っていたと答えた。それから、それまでに稼いだ金を山分けして、街に紛れ込んだ方が安全だと付け足した。
「おそらく春にでもなれば、賊どもは山砦に戻るでしょう。その頃に仕掛けるという考えもあるのではないかと――」
発言はそこまでで止めた。それ以上は出過ぎというものだ。
賀森近くの街の酒場をすべて洗うという手段もあるが、潜り込まれちまったら、どいつが賊かなんて見分けがつけられないしなと、動きを止めた第三継嗣の顔を肴に考える。
外見は普通――左眼横の傷が少し気になるが、まず持って良い男といえる範疇内なのかもしれない。だが、舩坂の脳裏には教導師室の死体が焼き付いている。顔面を砕かれた死体、喉を一突きにされた死体――直接、腕前を目撃したわけではないが、この若者が手練であることは間違いない。
菓子をもうひとつ摘むか――舩坂が皿に手を伸ばすと第三継嗣が口を開いた。
「師範の考えを聞いておきたい」
待たせておいてそれかと舩坂は反射的に思ったが、里海は気にしていないようだった。おそらく、第三継嗣との付き合いでは、よくあることなのだろう。
そうですね――里海師範は自らの顎先に指を当てる。長い指が綺麗だ。
「まずは乱波を使いたいですね。――彼等向きの仕事ですから」
確かにそうだなと舩坂は納得した。乱波――もしくは忍びと呼ばれる者たちは、特殊な訓練を受けた武人で、主に密偵や暗殺に従事している。こうした偵察も得意としていると聞いていた。
「……忍び組なら、
鷹乃にも乱波衆があるとは聞いているが、存在は隠匿されており、舩坂はまだ見たことがなかった。だから正直な話、少し見てみたくもあった。
「連中は兄上の管轄だ。頼んではみるが、使えるかどうかはわからない。――どこかに派遣されている最中かもしれないしな」
「ですが、警邏隊に砦を捜索をさせるのは難しいと存じます。捜索中に賊に見つかってしまえば、不意打ちを食らう可能性もあります。それならば地元の猟師にでも砦の探査を依頼した方がよろしいのでは?」
舩坂は少し感心していた。里海師範は女だてらに軍をよく理解している。
実際、巡回警邏隊は戦闘経験は豊富だが、捜索や裏工作ができる部隊ではない。そしてまた大規模戦闘にも向いた部隊でもない。巡回警邏隊が得意としているのは小規模な戦闘なのだ。
第三継嗣がまた何かを考える表情になったので、舩坂は質問してみることにした。
「……在郷騎士の合力はないのですか?」
地元を治める騎士ならば、城に詰めている自分たちよりも、現地の地勢には詳しいはずだ。場合によっては、この地図よりも詳細なものを作っているかもしれない。
「あの辺りを預かる
答えたのは里海師範だった。
「じゃ、森のことは……」
当てが外れた。同時に在郷騎士は使えないと断じた第三継嗣の判断は正しかったのだと理解した。
おそらくあの廃聖堂の位置も把握していなかったに違いない――だから援軍が遅れたのだ。
しかし、そんな奴を国境に配置して大丈夫なのか――上の考えることはよくわからない。きっと舩坂には理解し難い、駆け引きや調整の結果なのだろう。
いずれにしても、山砦の場所すらわからない状況では、軍を起こすわけにはいかない――舩坂はぼりぼりと頭を掻きながら茶を飲み干した。直ぐ様、侍女がお注ぎしましょうかと尋ねてくる。舩坂は茶杯を振って、それを拒否した。議は長引いていて、すでに水っ腹だ。
「……古鐘の姫巫女に御出座しいただくか」
第三継嗣が呟いた。
「できるのですか?」
驚き――舩坂が考えもしなかった手段だ。だが、面白い考えだと瞬時に悟った。
古鐘の姫巫女は暗い森の中、廃聖堂まで迷わずに到達した女だ――彼女が話に乗ってくれれば、賊どもの山砦を探して彷徨うことはなくなるはずだ。
姫巫女の異能を使えば山砦の場所だけでなく、賊の数まで判明するかもしれない。
あの魔女の――妖しくも美しい容姿が脳裏に浮かび上がった。
しかし、よくもそんな発想ができるものだ――舩坂の頭の中に、同盟国を頼るという選択肢はなかった。
何故なら同盟国とはいえ、潜在的に古鐘は敵国だ――古鐘が鷹乃と盟を結んでいるのは、鷹乃を東の大勢力である
戦国の世において、同盟にそれ以上の意味はない。それを――。
「――お待ち下さい。それには古鐘の侵入を許可する必要があります。国境が曖昧になり、問題を生む可能性があります」
里海師範が挙手し、場を止めた。
「父上に話を通してみる。――通る可能性は高いと思う」
それは何故ですか――里海は強い語気で第三継嗣に尋ねた。
「父上たちは姫巫女の龍天眼に懐疑的だ。私が散々伝えたのだがな。――これはその異能が真かどうか、見極めることができる機会でもある。父上たちも関心は持つであろう。だが……」
「――古鐘側が乗ってこないかもしれない」
舩坂は第三継嗣の言葉をつなげた。
「そのとおりだ、副長。それに……。それに私は……いや、叔父上を通せばいいか……」
ぶつぶつと独り言を吐きながら、自分の世界に入っていく第三継嗣――その様子を見守っていた里海師範がため息を零す。それは、まるで姉が弟の心配をしているようにも見える――何故かはわからないが、その雰囲気が妙に腹立たしい。
まぁいいか――今日は知らなかったことを知ることができた。
舩坂は下級の武人であり、現場には詳しい。だが、その現場が――戦場がどう生み出されるのかという点については、これまで関与してこれなかった。
戦場をどこに設定し、そこにどのような軍を派遣するのか――これまでは上将がすべてを決めて、下級の武人である自分は、それに応じた戦力を整えるだけだった。
しかし、理由はわからないが、第三継嗣はそこに舩坂を絡めるつもりがあるらしい。
おもしろいじゃないか――舩坂は思った。何事でもそうであるように、初めてのことは興奮するものだ。
そして舩坂は刺激に飢えているのだ。
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