第10話 部屋付き侍女


 石造りの廊下に窓から光が差し込んでいる。軍靴の底面金具がコツコツと音を立てる――里海師範と別れた雅真は、己の私室へと向かっていた。

主塔に付随する五つの尖塔のうち、最も外側の塔――嘴塔に雅真の私室はある。

 目的地に辿り着くと雅真は内懐から鍵を取り出して扉を開けた。

 尖塔は元より戦用の建物である――だから領主の第三継嗣の私室といえども狭い。本棚とそこに収納しきれない本。寝台と机。そして甲冑置きだけでほぼ一杯だった。 

 部屋に辿り着いた雅真は両の篭手を外し、次に鎧の金具付帯革を解く。

 脛当てと胸甲を外して腰甲を落とす。それから鎖帷子を脱ぎ捨て、鎧下と呼ばれる防着だけになった所で扉を叩く音が聞こえた。入室を促すと雅真の部屋付き侍女が姿を現した。

「申し訳ございません、遅れまし――」

 侍女が息を呑んだと雅真は気付いた――それで乾いた血が何処かにこびり着いているのだと理解した。

 戦には慣れていないだろうしな――この侍女の経歴を雅真は思い出していた。

「賊を誅殺した返り血だ。鎧は水拭きしてから鎧師の所に回してくれ」

 職務上、巡回警邏隊は死神扱いされることも多い。だが、部屋付き侍女に怖がられるのは面倒だ。自分の私室には可能な限り、外界の出来事を持ち込みたくない。

「――若様、左の肩甲盾に傷があります。漆が剥げて地金が見えています」

 部屋付き侍女は雅真に言葉を被せてきた。

「……左肩に一太刀貰ったと鎧師に伝えてくれ」

 おそらく漆の焼付を再度して貰うことになるだろうなと雅真は思った。

「畏まりました。――あの……御怪我は?」

「問題ない」

 雅真が鎧下を脱いで上半身裸になると侍女は失礼しますと呟いて近づいてきた。彼女は冷水を絞った布で雅真の体を拭きだした。

「打ち身……左肩に青痣ができています」

「折れてはいない」

 本当は患部を侍女に見せる必要はない。だが、この侍女は部屋付きであり、専任執事を持たない雅真の体調を管理する義務を負っているのだ。その仕事を邪魔するわけにはいかなかった。

「湿布を御用意します」

「必要ない」

「……湿布貼るのって痛くないですよ?」

「無駄口を叩くな」

 実姉のような口の利き方に苛立ちを覚え、雅真は侍女を黙らせようとした。だが、侍女は無遠慮にも切り返してきた――。

「――失礼いたしました。ですが体を早く治すことこそ、武人の務めなのではないでしょうか?」

 雅真は今更ながら部屋付き侍女が第二継嗣である次兄、雅守まさもりから押し付けられた人物であったことを思い出した。

 没落した商家の娘で書と算術に長けている。だから使い勝手はいいはずだ――第二継嗣の推薦状にはそう記述されていた。

 どこがだ、糞野郎――ここにはいない次兄に向かって雅真は毒づいた。

 無言を許容と認識したのだろう――湿布、貼りますねと侍女は部屋の隅に置いていた手提げの中からいくつかの医療道具を取り出した。

「実は怪我をされてるかもしれないと、準備しておいたんです」

 部屋付き侍女は――確か黒川綾女とかいう名前の女だったはず――どこか馴々しい感じがして実に不快なのだ。

 次兄に引き取って貰うことが可能であればそうしたいが、残念ながら第二継嗣は領事として古鐘領に派遣されており、その願いが叶うはずもなかった。

「怪我を期待していたのか」

 治療を受けながら、おまえの対応を不満に思っていると嫌味で返してみる。

「まさか! あ……でも、少しはお役に立てる機会があればいいなとは思ってしまいました」

 侍女がぺこりと頭を下げると、彼女の胸の谷間が視界に入った。なだらかで肉感的な肢体。その無防備さにも腹が立つ。平服を頭から羽織って視線を切る。

「槍と剣は研師にお渡ししましょうか」

「――それは自分で処理する」

 握りには血が染み込んでいるし、賊と撃ち合った十字槍は製作者に持っていく約束になっている。

「わかりました。――それと写しを頼まれていた本ですが、終わりましたので……」

 部屋付き侍女が手提げから四冊の本を差し出した。雅真は受け取って中身を確認する。写本は原本よりも美しい文字で綴られており、十分に納得できるものだった。

 この技術がなかったら、意地でも次兄に連絡を取っただろうな――頁を捲りながら雅真はそう考えた。黒川綾女は麗筆家と言って過言ではない。

「作業報酬については侍女頭に言ってある。手続きを取ってくれ」

 写本は侍女本来の仕事の範疇ではなく、個人的に頼んだものである。契約外の仕事には報酬を与えなければいけなかった。

「ありがとうございます。助かります」

 受け取った本を本棚に並べる。いい感じに増えてきているのが嬉しい。あとで読む順番の入れ替えを検討しなければいけないなと雅真は思った。

「……それと古鐘の兄上に手紙を出して欲しい。すでに帰路の途中で一通は送ったが、おまえの伝手でも出しておいて欲しい。確実に届ける必要がある」

「手紙ですか? はぁ、わかりましたです。――それにしても二通も出されるということは、大切なお手紙なのですね?」

「……そうだ」

「では責任を持ってお預かりいたします。でも、届くのはそう変わらないと思いますけど」

 こいつは天然なのか――雅真が手紙の発送を依頼したのは、言外におまえが次兄と繋がっていると知っているのだぞと脅したつもりだった。だが、部屋付き侍女は、その嫌味も解していないように思える。

「今度、弟に出す手紙と一緒に送りますから、出すのは来週になりますけど問題ないですよね?」

 雅真が問題ないとの答えを吐き出すと部屋付き侍女は何かを考える仕草をし、質問してよろしいでしょうかと尋ねてきた。暫く考えてから、雅真は構わないと答えた。

「お預かりした三冊は央華おうかの史書ですよね。それでもう一冊は何処の国の言葉なのですか? 読めないので形を写しただけになってしまいましたが……」

 侍女が本の内容に踏み込んできた――警戒感が頭をもたげる。だが、この程度であれば問題ないと雅真は判断した。

「西域の言葉だ。央華より更に西の――殷度羅インドラ波斯ベルジアの宗教書だと思う」

「若様は西域の文字が読めるのですか?」

「……そのうち正確な辞書を手に入れる」

「あぁ、読めないんですね。……ところでジショ…とは?」

「……辞書というのは、その国で使われている言葉をまとめたもので――所謂、言葉の説明書きのようなものだ」

 質問を許したのは失敗だったな――雅真は微かに後悔した。一方で侍女は目を輝かしていて、自分の主人が辟易していることに気付いていないようだ。

「それが手に入れば、あの文字も読めるようになるのですか?」

「学べばな」

 当たり前だろ――一刻も早く会話を打ち切りたい。踏み込まれたくない領域に侍女は入り込もうとしている。

「……お許しいただけるのであれば、私も西域の言葉を覚えてみたく存じます」

「……父上のところに行く。――夕餉の支度はいらない」

 面倒な話をしに行かねばならないのである。その前に、これ以上、煩わしい会話を続けたくなかった。

「畏まりました」

 部屋付き侍女は何かを察したかのように恭しく頭を垂れた。雅真には、それもまた無性に腹立たしかった。


 

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