無意味幻想譚・その1

青葉台旭

1.

 キーボードを叩くのに飽きて……画面をにらむ目のりにも我慢が無くなって……私は、コンピュータのふたを閉じた。

 窓の外へ視線を向けると、川向こうの建物が夕日に染まって赤くなっていた。

 東京郊外の住宅地を流れる、コンクリートで護岸された小さな川だ。

 その川っぺりに、向こう岸へ窓を向けて、私の住む六畳一間の木造アパートは建っていた。

 築三十年の安普請だが、小さな流し台とコンロ、風呂、便所、それにエアコンまで付いているから、物を持たない男の一人暮らしに不足は無い。

 三和土たたきの横の専用スペースに安い洗濯機を置き、流しの横に小さな安い冷蔵庫、その上に安い電子レンジを置いて、これで立派な男の城の完成だ。

 電話会社に回線を通させ、中古家具屋から買ってきた小さな机にノート型のコンピュータを置いて繋げば、個人経営の在宅稼業に必要な物は、全てそろった形になる。

 唯一、不満があるとすれば、隣に住む男がしばしば夜中に女を連れ込み、その笑い声やら、時には色っぽい声まで聞こえてしまう事だろうか。

 朝からこんを詰めた仕事に一段区切りを付けて、シャワーを浴び、新しい下着と外出着を付けて、私は部屋の扉を開けた。

 玄関側からアパートをぐるりと半周して、小川に面した窓側へ出る。

 うす汚れたコンクリートで囲まれた小川の両側は、細い遊歩道になっていた。そこを気分転換と運動不足解消を兼ねて一時間ほど歩くのが日課だ。

 気の向くままに、ある日は川上の方へ。

 また別の日は、川下の方へ。

 その夕方は、赤く傾いた太陽を背にして歩くことにした。

 四月の頭、両岸に植えられた桜の並木も半分くらい散って、緑の新芽と入れ替わっていた。

 歩きながら小川の向こう岸をながめた。

 見える物は、川のこちら側とさして変わらない。

 黒い雨だれの染みたコンクリート護岸壁の上に桜並木の遊歩道。その向こう側に並ぶ木造アパート、一戸建て、それなりに高級そうな鉄筋コンクリート製の集合住宅、公園、公共施設らしき建物。

 かつては恵まれた人が住んでいたであろう、しかし今は汚く荒廃した建物に突然遭遇して、ドキッとさせられる所まで一緒だ。

 当たり前のことだが、小川の所々に橋が架かっている。

 歩行者専用の細い橋と自動車用の橋、両方あわせて平均すると、三百メートルにひとつ位の割合だろうか。

 この町に越して来てそこそこになるが、川の向こう側へ渡ったことはない。

 私鉄の路線は、川のこちら側にある。

 当然、駅も、駅周辺の商店街もこちら側だ。

 つまり、あえて小さな川を超えて向こう岸に行く用事が無い。

 その日も川辺を歩きながら、ふと(向こう側へ行こうか)などと思ったが、次の瞬間には、駅前の居酒屋で仕事の疲れいやしたい欲求が突然いて、私は川沿いの遊歩道かられ、川と直交する道を、橋とは反対の方……つまり川から離れる方へ歩いて行った。


 * * *


 私鉄沿線の多くの駅と同じく、その最寄り駅にも、小さいながらひと通りの日常品がそろう商店街があった。

 駅前の小さな本屋で文庫本を一冊買い、喫茶店で一服したあと、の落ちた駅前商店街へ出て、飲み屋を物色した。

 大手チェーンの居酒屋は出店していないが、個人経営の飲み屋のたぐいは、案外、充実している。

 肉とホッピーを腹に入れようと決め、古そうな焼きとん屋へ入った。

 まだ時間が早いのか、客は私を含めて三人。先客の二人は常連みたいな雰囲気を出していた。

 カウンターに座り、ホッピーと串を何本か、それが焼けるまでの間のツマミを一皿頼んた。

 二十分が経った頃から席が徐々に埋まりだし、四十分経過したあたりで、私の隣の一席を残し、カウンターもテーブルも一杯になった。

 その最後の席も、じきに埋まった。

 別に誰が隣に来ようと興味も無かったから、隣に座った男の顔なんぞ見もせず黙ってホッピーを飲み続けていたら、突然、その男が、私に声をかけてきた。

「おやっ、ひょっとしてあきらくんじゃないか?」

 思わぬ所で名前を呼ばれ、私はドキッとして隣のその男を見た。

「ああ、驚いた……誰かと思えば、Fさんじゃないですか」

 Fは同じ大学、同じ工学部の一年先輩で、ともに大学の小説創作サークルに所属する同人という間柄だった。

 今はカメラマンをやっているはずだ。

 読書・創作の他に、Fには写真撮影という趣味があって、アマチュアながら写真雑誌のコンテストに何度も入賞する程の腕前だった。

 趣味が高じた結果、彼は大学卒業後あらためて写真の専門学校へ入り直し、さる高名なフリーカメラマンに弟子入りした。

 数年後に独立して、今は報道カメラマンとして世界各地を飛び回っていると風の噂に聞いたが……私自身、社会に出てからはサークルの同人とも疎遠になり、写真などという粋な趣味も持ち合わせていなかったから、次第にFの記憶も薄れて、二十代後半には、彼を思い出すこともほとんど無くなっていた。

「久しぶりだな」Fが言った。「俺が三十一だから……君は三十歳の大台か?」

「はい」

「お互い、もう良い小父おじさんだな……卒業以来だから、八年……いや九年ぶりか」

「そうなりますね」

 その時、彼の注文したホッピーが来た。

「何はともあれ、乾杯だ」とFが言い、私たちはジョッキを鳴らした。

 旨そうにゴクゴクの喉を鳴らしながら冷えたアルコールを流し込み、ふうっ、と一息ついたあと、Fが私にたずねた。

「この近くに住んでいるのかい? それとも仕事か何かでこの町へ? 仕事は何をしているんだい」

「ここから歩いて十五分くらいの所に住んでいます」

 私は、矢継ぎ早に繰り出されるFの問いに、一つ一つ答えていった。

「○○川沿いの安いアパートです……仕事は……新卒でMというソフトウェア会社に入ったんですが、体調を崩しちゃいまして……会社を辞めて、今は、在宅で細々と請け負いなんかをやって食べてます」

「つまり、フリーランスって事?」

「ええ……まあ。要するに定まった収入の無い浮き草稼業って話ですが……アッ、Fさんもフリーランスでしたっけ? すいません」

「良いじゃないか。お互いフリーの浮き草稼業って事で」

「今でも世界中を飛び回っているんですか?」

「うん……いや……」Fの顔が少し曇り、言葉がよどんだ。「実は、二年前に戦場で足をやられちまってね」

 そう言って、Fは自分の右ももをさすった。

 私はそこで初めて、Fの椅子の横(私の反対側)に立て掛けてある杖に気づいた。

「ああ、それは……どうも」私は、お悔やみだか何だか分からない言葉をかけた。

「まあ、ステッキが有れば相当の距離を歩けるし、杖が無くても家の中くらいなら何とかなるんだ。日常生活で困ることはほとんど無い、が、しかし……」

 そこでFは一つめ息をいた。

「あちこち歩き回って写真を撮るのは、もう駄目だね……報道写真家は廃業したよ」

「はあ……それは」

「今は、ある女性の家の厄介になっているんだ……まあ、入り婿むこみたいな物だね……と言っても、正式じゃないから、厳密に言えばかな」

「はあ……」

 次々と出てくるFの身の上話に、私は「はあ」と返してばかりだった。

 Fが続ける。

「彼女、たいへんな財産家なんだ。生まれてこのかた一度も働いたことのない筋金すじがね入りの『お嬢様』さ。俺一人を養うくらい、どうってこと無いんだ」

「その女性のご両親は、どういう方なんですか?」

「両親とも亡くなっている。俺と知り合った時には、もう居なかったよ。彼らの残した遺産が何しろ莫大なんだ……銀行預金に株式、その他もろもろ……贅沢さえしなけりゃ、五回、いや十回生まれ変わったって食っていける」

「すごいですね」

「まあ、そういう訳で……写真は廃業しちまったし、食うには困らないし……足を悪くしてからはほとんど引きもり状態なんだが……月に一回、こうして商店街まで歩いて来て一杯やるんだ。今はそれだけが楽しみさ」

「じゃあ、僕のアパートとFさんの家、案外、近いかもしれませんね……いや、偶然だな」

「ひょっとしたら、お互い気づかなかっただけで、今までも何処どこかでれちがっていたかもね……ところで、今でも創作は続けているのかい?」

「ええ。まあ、細々と……卒業後はサークルの連中とも疎遠になったし、同人誌をって売るなんてひまも無くなったけど……ネットの小説投稿サイトに時どき小説を上げてます」

「大学時代と同じ名前ペンネーム?」

「そのままです。検索すれば出て来ます。読んで感想聞かせてくださいよ」

「うーん」

 そこでFはしばらく黙ってしまった。

「いや実は、今の家にはネットが無いんだ」

「ええ? まさか、本当ですか? ……携帯は?」

「いや。携帯も持っていない」

 これには面食らった。

 今どき携帯さえ持たない生活とは。

 ごく少数だが、何らかの主義主張のためにわざとそういう生活を送る人たちが日本にも居るという話を、聞いたことがある。

 現代版のラッダイト運動、日本版のアーミッシュというわけだ。

 彼の話に出てくる金持ちの女性とかいう人が、そういった特殊な主張の持ち主なのだろうか?

「それ、ひょっとして奥さんの主義か何かですか?」

「うん……いや……まあ、ね」

 Fは曖昧に言って、ホッピーに口を付けた。

 何となく、この話題は触れない方が良いというかんが働き、話題を変えることにした。

「そういえば、Tさん、赤ちゃんが生まれたらしいですよ。四人目だって」

 Tというのは、やはり同じ大学の小説創作サークルに所属していた人物で、私の一歳上、Fと同じ学年だった。

「ほう? それはお盛んな事だ」

 それから学生時代の思い出話が続いた。

 学校を出て別々の道を行く私たちには、もはや、在学中の思い出話くらいしか共通の話題が無い。

 まあ、それでも、酒の力を借りて一時いっとき学生時代に時間を巻き戻すというのも、たまになら愉快な経験だ。

「どうだい? これから俺の家へ行って飲み直さないかい?」

 それぞれジョッキを三杯飲み干して四杯目を半分残し、豚串を十本も平らげた所で、Fが言った。

「ええ? 良いんですか?」

「なに、構わんさ……こんなに愉快な夜は、久しぶりだ……もう少し昔話をしようじゃないか」

「しかし……夜中に突然行っちゃ、奥さんに迷惑じゃないですかね?」

「うん……まあ、何とか説得してみるよ。さっきも言った通り、ちょっとした御屋敷なんだぜ。どんちゃん騒ぎをやるわけでもないし、客間で静かに一献やるくらい大目に見てくれるよ」

「そうですか……なら、こいつをやっつけたら出ますか」

 私たちは半分残った四杯目を無理やりグッと飲み干して、焼きとん屋のカウンターから立ち上がった。

 立ち上がるとき、少しだけ平衡感覚が狂っている自分に気づいて、(そういえばFさん、片足が悪いと言っていたな……大丈夫か?)と隣を見ると、私と同じ量を飲んでいるはずの彼は、案外シッカリした様子で立ち上がり、杖を突きながら会計の方へ歩いて行った。

 ひと目で右足が悪いと分かる歩き方だったが、アルコールの影響は感じられない。学生時代、彼がサークル仲間で一番酒に強かったことを思い出した。

 Fが「ここは俺が」と言ってふところから財布を出す。

 私は年下でもあるし、Fの言葉を信じるなら、彼の奥さんは相当の金持ちで、その方面の不自由は無いという話だったから、ここは素直におごって頂くことにした。

 飲み屋の引き戸をガラリと開けて、通りへ出る。

 後から出てきたFが「こっちだ」と言った方角は、意外にも私のアパートと同じだった。

「何だ、ますます偶然だな。僕もこっちの方ですよ」

 暖かいとも寒いとも言えない春の夜空の下、私たちは住宅街の細い道をゆっくりと歩いた。

 杖を突き突き歩くFは、さすがに常人より速度が遅かった。

 私は彼と歩調を合わせるようにして夜道を歩いた。

「……本当に、僕のアパートの近くじゃないですか」と私は歩きながら言った。「まさか隣同士だった、なんてじゃないでしょうね」

「ははは、さすがにそれは無いだろう……まあ、しかし……こんな体になって以降、俺は滅多に外出しないからね……お互い近くに住んでいるのに気づかなかった、ってのは充分に有りる話だよ」

 やがて私たちは小川沿いの遊歩道に入り、桜並木の下を歩いた。

 しばらくして、私は「あの辺りに僕のアパートがあるんですよ」と、遊歩道の先を指差した。

「ほう……そうか……」とFが言った。「俺の家は、こっちだ」

 彼は立ち止まって、杖の石突きでを指した。

 そこは、歩行者専用の小さな橋が架かった場所だった。

 杖の先端は

 私の心臓が急に高く鳴り出した。

「Fさん……あんた……まさか……」

「ああ。そうだ」春の夜、街灯に照らされたFの顔の上へ、急に暗い影が差した。「俺の家は、こっちなんだ」

「つまり……もう既に……」

 私の曖昧あいまいな問いに、Fはハッキリとうなづいた。

 杖で自分の足を軽く叩いてみせる。

「そうだ……戦場で奪われたのは、この右脚だけじゃなかった……ってことさ」

「ぼ、僕を家へ誘ったのは、それじゃ、一体いったいどういう意味だったんですか?」

「飲み屋で君を見たときに、何となく分かったよ……本当は君も〈向こう側〉に行きたいんじゃないのか?」

「いや……そんな……そんな訳ないでしょう」

「本当に、そうか? 本当は……君は〈こちら側〉の世界に飽き飽きしているんじゃないか? こっち側で生きて暮らすって事に嫌気いやけが差しているんじゃないのか?」

 暗くなったFの顔の上で、両方の目だけが油を塗ったようにギラギラと光った。

「川に面したアパートを借りたのは、家賃だけが理由じゃあるまい? 毎日、毎日、川の向こうを眺めて暮らしたかったからじゃないのか? 向こう岸に憧憬しょうけいがあったからじゃないのか?」

 Fの問いかけに、私は何も答えられず黙り込んでしまった。

 彼は続けた。

「どうだ? こっちへ来て、俺の仲間にならないか?」

 その眼光のあまりの強さに、私は目を伏せ、下を向いて歩道にった自分の両足を見つめた。

「駄目だ」

 ようやく、私は言葉を絞り出した。

 いったん言葉を発したら、少しだけ話すのが楽になった。

「駄目です……まだ僕は〈そっち側〉へ行けません……確かに僕は、今の自分の暮らしにも、将来にも、こっちの世界の何もかもに嫌気が差している……それはFさんの言った通りだ……いや……積極的に何かを嫌悪したり憎悪したりできるのなら、まだだ……そんなマイナスの感情さえ湧かない。ただ、ただ、朝起きる事に、飯を食う事に、呼吸をする事に、飽き飽きしているんだ……でも、でも……そっち側へは、まだ行けない」

 相変わらず私は目を伏せたままだった。しかし、Fが私をにらみつけているのが分かった。その視線が私の全身を刺して痛いほどだった。

 Fが、ふうっと一息ついて、「……そうか……」と言った。

 私を刺していた視線がやわらいだ。

「ならば、仕方ない」Fが言った。「無理には、連れて行かんよ」

 今度は私が、ほっと息をつく番だった。

 恐る恐る視線を上げてFの顔を見ると、彼は少し寂しそうな表情を作って私から視線をらし、川向こうを見た。

「まあ、急ぐこともあるまい。

 そのまま、杖を突き突き、Fはゆっくりと小さな橋を渡り始めた。

 その後ろ姿を、私は欄干から少し離れた所で見送った。

 橋の真ん中あたりで、急にFがクルリと体をこちらに向けた。

「月に一度だ……」彼が少し声を張って言った。「月に一度、新月の夜だけ、俺は、そっち側へ行ける……」

「……はあ」

「時間が合うなら、また会おうじゃないか」

「ああ、そうですね……会いましょう」

「それじゃあ」

 Fが再び、杖を突きながら向こう側へ歩き出した。

 距離が離れれば離れるほど、Fの後ろ姿は黒く暗くなっていった。

 川のこちら側と同じように、向こう側にも街灯がいていた。

 しかしその光がFの体を照らすことは、なかった。

 Fの体はどんどん黒く黒くなって、ついに闇に溶けて無くなった。

 私は急にゾッとして、遊歩道を急いで自分のアパートへ向かった。

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無意味幻想譚・その1 青葉台旭 @aobadai_akira

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