というわけで……
先ほどまで燃えていた野菜や小麦粉は、燃え広がる先を失って灰になり始めている。もう放つ熱も少なくなってきている。
怪物はニックさんを睨みつけている。
「哲学者……哲学者……哲学者……」
ゲッシュは恨めしそうにそうつぶやいた後、表情を一転させ、にこやかに微笑んで見せる。
「そうか。哲学者ってのは、あんたはあれだな。ニック・ラブという偽名の……紀元前の哲学者だろう? 使徒の中では有名な奴の内の一人だ。聞いてるぞ、哲学者!」
ニックさんはゲッシュへ向けて、歩を進める。そのまままっすぐ向かってくるところを見るに、もう糸は無いのだろうか?
ゲッシュがわざとらしくおどけながら続ける。
「おいおい、話しぐらいしようじゃないか。そんな余裕もないのか?」
「話すことなどないわ。あなたは、私が守ると決めた子たちに手を出した。理由はそれで充分よ」
「やれやれ、仕方ないねぇ」
ニックさんとゲッシュの距離が縮まり、もはやニックさんが飛び込めば、その拳の射程に収められるであろうタイミングで、ニックさんの足が止まった。
次の瞬間、ボロ雑巾状態になって居た人狼が独りでに……いや、ゲッシュの糸に操られ、ニックさん目掛けて投げつけられる。
彼女はこれを拳で払いのけるが、跳ね除けられた人狼が息を吹き返したかのように、地面を蹴ってニックさんに飛び掛かった。
「ニックさん!」
「大丈夫よ、これぐらい」
ニックさんは飛び掛かってきた人狼の前足をいなし、そのまま関節を固めて曲げてはいけない方向に曲げる。更に足払い、というには威力の高いローキックで怪物の足を払いのける。
「さあ、これで……いい加減に、寝てなさい!!」
彼女は、その怪物の頭に当たるであろう部分を鷲掴みにし、そのまま地面に叩きつけ、その上から力の限り殴りつける。大きな衝撃音と共に地面が揺れたような気がする。(気がするというか、実際に揺れたと思うが、流石に錯覚だと思いたい)
地面に大きくめり込み、破れたボロ布のようになった怪物は、ついに動くことを止めた。
ふと気づけば、ゲッシュが居なくなっている。
先ほどの人狼を投げつけたのは、自分が逃げるため、ということらしい。まんまと逃げられたが……同時に……
もう、身の危険は去ったのだ。
思わず俺の口言葉が漏れた。
「あ……良い夜空が見える……」
もう港を蓋う幕も無くなっている。
そこには一面の星空に、煌々と輝く月があるぐらいなものだ。
「ニックさん……シャルジュがあの倉庫の物陰に居ます」
俺はシャルジュを隠しておいた倉庫の影を指さしながら、尻もちをつくかのように座り込んだ。
どっと疲れが湧いてきて、指先の怪我や頭の瘤がじんじんと痛み、足腰ももう限界を感じる。まぶたが重い。
あれ? そういや、先生はどうしたんだろう? ラング・ド・シャの、あの白い人犬曰く「同行者が危険な目に遭うと、使徒には通達がいく」とか言ってたような……?
もしかして、向うも向うで何かあったのだろうか? いや、とは言え何かあったとしても先生だし……
と思っているところに、噂をすれば影、息を切らしながらラング・ド・シャが港の入り口から現れた。
「よ、ようやく、港にたどり着きましたぞ。少年、怪我は有れども無事そうだな! ってなんか火災の後があるんだが!? そしてなんかすごい筋肉の女性、女性? が居る!」
「あ、うん。ラング・ド・シャが気づくかと思って火をつけた」
「火をつけた!? 何してんだ、この放火魔!」
「な! そもそもあんたが港に流してこなければこんなに色々大変な目に遭わなかったのに! こんな怪我もしなかったんだけど!?」
「うっ、それを言われると心苦しいけど、火を付けちゃダメでしょうが!」
倉庫の裏からシャルジュを抱きかかえて現れたニックさんが、ラング・ド・シャに話しかける。
「あら? 坊やの知り合い?」
ラング・ド・シャはそれに対して彼女に向き直って答える。
「いやいや、偶然知り合った仲という奴です。
……ところで、もしやその特徴的な容姿からして、あなたは『ニック・ラブ』と名乗っている使徒ではありませぬかな?」
ニックさんはシャルジュを抱きかかえたまま、彼女の傷の様子などを確認しながら答える。
「ええ、そうよ。その口ぶりからして、あなたも使徒ね?」
「然り。吾輩は、ラング・ド・シャ=フォン=ジッキンデン。この年代より約四百年後に生きていたフルールの貴族ですとも」
「本来の名前を名乗れないのって、お互い、とても不便よね」
ニックさんはラング・ド・シャの言葉に耳を傾けながら、シャルジュを近くの荷台の上に下ろし、彼女の手当てをしている。
そして、シャルジュの傷口を見て、何か青色の光を発する液体の入った瓶を取り出し、彼女の方の傷にそれを振りかけて言う。
「それにしても、ひどい傷ね。これだと傷跡が残ってしまうかもしれないわね……女の子なのに」
「あー、それなのですがな……」
ラング・ド・シャが歯切れの悪い調子で、気まずそうに言う。
「その、事故で少年たちを危険な目に遭わせてしまったというか」
「……そういえばさっき坊やが、怪我をした理由があなただと言ってたけど……もしかしてその事故のせいなのかしら?」
「え? その、まぁ、その通りというか、その……」
「その辺、詳しく聞かせて下さるかしら?」
「い、いや、本当に事故! 事故でして!! というか、白磁の少年が本来なら来るはずだと……思ったんだが、彼は姿を現わさなかったわけだね……」
ニックさんは何かに納得したように俺を見る。
「白磁の少年……そう、坊やたちは彼の同行者だったのね」
「いえ、どうやら、そちらの少女は違うらしく……それで吾輩、必死に港まで駆け付けたのですが、道中で人狼と遭遇したり道端で老婆が荷物をぶちまけてしまったりでですな……」
俺は渇きを感じる目を強くつむり、なんとか眠気に抗いながら二人の会話に口を挟む。
「すみません、俺も気になってるんです。先生が今どこに居るのか。その辺はお二人も知らないんですよね?」
二人はお互いにお互いを見合い、ここに居る誰もが先生の居場所を知らないことを確認し合った。
ニックさんが言う。
「あなたが先生と呼ぶ人だけど、流石に人狼ぐらいじゃ彼を足止めも出来ないでしょうし……大丈夫だとは思うのだけど……逆に彼が同行者の危機に駆けつけられない状態というのは、却って不穏ね」
その一言を受けて、俺は疲れ切った体に鞭を打って立ち上がる。
「それじゃあ、探さないと……」
「探すって言っても、坊やじゃ何もできない可能性が高いわ」
「でも、危ない目に遭ってるなら、やっぱりじっとしては居られないですから」
俺のその言葉にニックさんは微笑んで答える。
「違うわ。一人、手が空いてる人が居るじゃない。背負われていくのが良いんじゃないかと提案してるのよ」
手が空いてる人……
俺とニックさんの目線がラング・ド・シャに集まる。
「わ、吾輩? お、おお、良いですぞ! 吾輩が背負いましょう! なに、吾輩の毛並みは良いですぞ。先祖伝来の由緒正しき血統の毛並みですぞ! ははは!!」
俺の疲れ切った顔を、真っ白でふかふかの毛が包み込む。
背負われている俺の視界のほとんどをモフモフの毛が独占する。正直……
「あ、これ、寝そう……よだれたらしたらごめん」
「ちょ、待ちたまえ少年!? やめて! よだれはやめて!!」
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