勝機はある。まだ、諦めてなんかいない!



「あとは……この樽だけになっちゃったねぇ……」


 怪物の爪が、俺たちの入っている樽を引っ掻く音がする。

 四方八方から、かりかりと、俺たちを隠している薄い木の板を削る音がする。


 突然、樽が横倒しになり、ゴロゴロと転がされ、何かにぶつかったような衝撃と共に転がるのをやめる。

 俺の腕の中でシャルジュが小さく呻いた。傷が痛むのかもしれない。


「で、いつまで隠れてるのかな?」


 隠れてる場所がバレている、とはいえ、出たところでどうすればいいのか。

 相手は事実上不死身で身体能力も高い。おまけになにやら物に触れずに物を動かせる。その上サイコパスな変態だ。交渉もできないだろう。

 それに、シャルジュを傷つけたり危険にさらすことはできない。


 ……いや、だからって、ただ黙って縮こまるのはいい加減に性に合わない!


 相手が有利なのは、向うも十分にわかってる。

 だから、これだけ余裕をこいて煽って驚かせに来ているのだから。つまり、、ということ。それはということでもある。

 そこを、うまく突く! 相手が不死である以上、絶対的に不利なのは変わらない。だけどいい加減に後手に回り続けて、ひたすら煽られ続けるのは、ムカつく!



 ここに来るまでに有った物、光景を俺は思い返した。

 倉庫に来るまでの港の路上には、複数の野菜や果物が入った木箱。他にもいくつかの荷物が有ったはず。中身が何かは……賭けだな。

 イワシやアジといった光物の魚があったが、油などは使っていないようだ。有ったら良かったが、無いなら仕方がない。この倉庫にはもう用がない。

 今の時間は、日が沈んだばかり。外は謎の幕で封鎖されているが、完全に密閉されている状態ではない。あの幕には網目のような隙間がある。そこが狙い目だ。

 外はすっかり日が落ちている。それはなかなか不利だ。だけど、完全な闇夜じゃなかった。月があるし星もある。だからこそ、望みはある。



 俺は意を決して樽から這い出した。

 松明の灯りしかない、薄暗い倉庫の中で、俺たちから少し離れたところに人型の怪物がたたずんでいる。

 怪物が、ゲッシュがニタニタと笑い、黄ばんだ歯が見えた。

 まだ微笑んで楽しんでいるなら……勝機はある。


「ああ、見つけられたみたいだねぇ、少年。それで? 諦めて捕まる気になったか? 無残に殺されてくれるかい?」

「そっちが捕まえるのを諦めるつもりは?」

「おお、ということは? まだ……」

「諦めるつもりはない!」


 俺は怪物に背を向けて、シャルジュを抱きかかえたまま、倉庫の出入り口へと走る。

 拍子抜けするほどあっさりと倉庫の外へと出れたが、やはりゲッシュは俺たちが港から出れないことに勝利を確信しているんだろう。

 だからだ。だからこそ、



 俺は港の出口付近の倉庫へと向かう。その入り口近くの物影にシャルジュを下ろす。


「ごめんな。すぐ戻るから……」


 シャルジュは虚ろな目で、けれどしっかりと俺を見ながら涙ぐむ。心配なのだろう。置いて行かれると思ってるかもしれない。

 俺は彼女のすぐ傍にしゃがみ込み、彼女を抱きしめて、頭を撫でながら「心配ない。大丈夫」とまだ幼い彼女をあやして離れる。

 彼女が何か言おうとしたが、聞いている暇もない。行動は早い方が良い。

 生き残れば、いくらでも聞けるのだから。



 俺は港の出入り口を封鎖する幕に近づく。幕まで数メートルというところで止まり、近くに詰まれている木箱を地面に引き倒す。

 元々、この謎の幕には“用はない”。それより、港の出入り口に近い場所。それが重要だ。


 地面に引き倒した箱からは、白い粉が出てきた。指で触ってみるに、おそらくは小麦粉だろうか? 細かくさらさらとして、強く握り込むとギシギシと固まる。確かに、この時代に来た時にパンの匂いを嗅いだ。パンが主食なら、小麦粉もやはりあっておかしくない。

 小麦粉は、俺の作戦に合致する。これなら“良い火種になる”。

 俺は近くに照明として設置されている松明を引き抜き、そのぶちまけた小麦粉に突っ込む。松明には油が使われてるはずだから、運が悪くなければ火は消えないはず。……と思いながらも、松明の火が完全に消えないようにちょっと気を付けた。

 取って返し、別の木箱を引き倒して中身を地面にぶちまける。キャベツの箱。玉ねぎの箱。赤カブの箱……どれも水分が多いが、そこが良い。

 更に、そのうち一つ、白く小さな野菜が入った箱を見つける。“臭いのキツイこの野菜”を探してた。

 俺は片っ端から、先ほど松明を突っ込んだ小麦粉の上に野菜を放り込む。

 小さな煙が少しずつ、そこから上がり始めた。


 そこにゲッシュが悠々と歩いてやってくる。


「何をしているんだ? 野菜を燃やして。もっと派手に火を焚かないと、港を蓋う天蓋は燃やせないんじゃないのか?」


 なるほど。ゲッシュは、俺が火を使ってあの黒い幕を燃やそうとしていると誤解しているわけだ。

 俺は本来の狙いに気付かれないように、話題を逸らすことにした。


「やっぱり、あの幕は俺たちを逃がさないようにするための物なんだな? 触れるとどうなる?」


 ゲッシュは少し疑問に思ったようだが、べらべらとしゃべり始める。


「あれは、俺の皮膚の一部だ。背中の一部や髪の毛、爪の先といった俺の一部を小さく細く変形させて、編み込んで作る。あとはオレの意志で自在に動かせる、鉄より硬いこの糸を使えば、遠くのものだって自在に操れる。

 ……ここまで聞いて、触れてみる気になったかい、少年?」

「いや、ならない。ありがとうよ。よくもまあ、べらべらと種明かしをするもんだ」


 ということは、ゲッシュに最初に襲われた倉庫で、出入り口が勝手にしまったあの時、おそらく、この幕を作っている糸を使って扉を閉めたということなのだろう。

 鉄より硬い糸を自在に操れる……あの幕はその糸を編んで作ってある。ということは、網目の大きさも自在だろう。あの網目から這い出すのは……ぞっとしない。


 ゲッシュは言う。


「そりゃそうだ。オレは奇術師じゃない。道化みたいなメイクはしてるけどね。だから、手の内も明かそうじゃないか。少年の様に頭が少し切れるタイプだと、自身の置かれてる状態がよく解るだろ?」

「それは、俺に絶望して欲しい、と」

「そうだとも。悲鳴を上げて、抗って、そして、死に際に諦めて、ふっ、と力が抜ける……その瞬間を見たいのさ……ん? 待て……」


 俺の傍で、先ほど火をつけた野菜たちがぱちぱちと音を立てて燃え始める。

 ゲッシュが鼻をすすりながら臭いを嗅ぎ、その異臭に顔をしかめる。


 小麦粉が燃えて黒煙が上がり、水分を含んだ野菜から水蒸気が出て白い煙が上がる。そして、強烈な“ニンニク”の臭いが辺りに満ちる。


 確か、あの白い人犬。ラング・ド・シャは『白磁の少年の邪魔をすること』を目的に俺たちを用水路に流した。

 彼は俺たちの命を奪うことが目的ではないような言動であったことから、ゲッシュとグルとは考えにくい。むしろ、彼が使徒であるなら……いや、使徒だからこそ、彼は先生の邪魔をしようとしたはずだ。

 場合によっては、すぐ傍まで俺たちを探しに来ている可能性がある。

 なら、この星空の中に上る煙とニンニクの燃える強烈な臭いに気づく可能性はあるはずだ。



 勝機はある!



 ゲッシュの顔色が徐々に曇ってくる。


「少年……なにをしている? なにをした? なんだ、そのは!!」




 あとは、間に合うことを祈るだけ。



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