敬具、こういう理由で死にそうです
「さて、名前も知らない少年よ。君は今から、どんなに頑張ってもオレに殺されてしまいます。実に残念な人生だったと……自分のはらわたを見ながら思うんじゃないかな……」
目の前にいる怪物は、倉庫の松明や蝋燭といった照明の逆光でその表情は分からない。だが、ねっとりとした不気味な……えもいわれぬ、粘着質な気色の悪さを、その怪物の伺えない表情から感じる。
俺はシャルジュを抱えたまま、倉庫の扉を背中で探り、取っ手代わりの切込みに手をかける。だが、扉はビクともしない。何かでしっかりと固定されている様に動く気配もない。
怪物が、ゲッシュが言う。
「おや? もしかして……逃げたいのかな?」
俺は無言で怪物を睨んだ。それに答えるように、ゲッシュは鼻で笑って返した。
「良いじゃないか。二百数えるから、その間に“逃げるといい”……そして、絶望してくれ」
「どういうことだ? ……逃がそうって言うのか?」
表情が見えなくても、怪物が微笑んでいるのがわかる。だがそれは、慈悲の微笑みではない。おもちゃを前にした嘲笑なのだと感じる。
「そうだよ。一時、逃げると良いよ。でも必ず追い詰めて殺すとも。“狩りの興奮”って奴だよ。解るかい? 逃げれないと悟った獲物の顔に、オレは……ああ、いきり立ってくるんだよぉ」
怪物が一歩、また一歩と近づきながら続ける。
「その時に、少年は少女を差し出してでも命乞いするのか、あるいは少女を守って死ぬのか、すごく興味がある……ああでも、安心してくれ。ちゃんと、君の前でその女の子は殺すから。
さあ、逃げられないと絶望するまで、ちゃんと逃げてくれよ。今から二百数えよう。その間に逃げ隠れてくれ。すぐに見つかるなよ……ふ、ふふ、今から、楽しみだなぁ……」
ゲッシュが宙を手で払う。すると突如、倉庫の扉が開いた。さっきまで全く動かなかったのに、だ。
そして、ゲッシュはわざとらしく自分の顔を手で覆い、数を数え始める。
どうやら、この人狼は遠隔で物を動かせる、ということらしい。
俺の脳裏に先生が浮かぶ。……魔術、ということだろうか? 電車で会った人狼も四百年生きてるとか言ってたのだから、なんだか魔術も使える人狼が居るかもしれない。
とにかく、伊達か酔狂か、逃がしてくれるなら逃げない手はない。
何とかしないと……どうにか切り抜ける。……どうにか……今日はこればっかりだな!
が、港の倉庫から飛び出した俺が見たのは、信じられない光景だった。
港全体を何かが蓋っている。屋外の港に天井があるのだ。
網目の向こうに半月が浮かぶ星空が見える。その星空が奇妙に、網目状に欠けている光景は、そこに何かがあることを示している。
おそらく、何か目の粗い網目状の、黒い幕かザルのようなモノが港全体を蓋い、港の町への出入り口がその黒い蓋いで遮断されている。それが遠目にも分かった。沖へ出るのも同じだ。港全体が蓋われている。
十中八九、先ほどの人狼の仕業だということは解る。となれば、出入り口に素直に向かうのは……きっと危険だろう。
仕組みは分からないが、仕組みが分からない物に無理に突撃するほど馬鹿じゃない。網目の隙間は大きく見えるが、そこから抜け出すことができるとは考えにくい。見え透いた出口なんて、“狩りの興奮”がどうだという奴が用意する訳が無い。
となれば、他の倉庫などに逃げ込んで、なんとかやり過ごすしかない……
いや、やり過ごすのが正しいだろうか? そんなの、相手の思うつぼじゃないか? それに、それは何時までやり過ごせばいい?
そもそも相手の策の内で逃げれば、不利な状況から脱することはできないのは火を見るより明らかだろう。なら、近くにある木箱でもなんでもぶつけてあの蓋いを壊せば……
と思った矢先、抱きかかえているシャルジュが小さく呻いたのが聞こえた。
見れば唇の色も悪く、寒そうに震えている。ゲッシュに強く掴まれた右肩を抑える手にも力がなくなってきている。
そうだった。俺一人なら無茶もできるだろう。でも、今は彼女が居る。決して深い間柄ではないけれど、それでも見捨てるわけにはいかないし、わざと危険にさらすわけにもいかない。
檻の出入り口を疎かにする捕食者が居るとは考えにくい。
俺は港から町への道に背を向けて、先ほどとは別の倉庫へ走った。
道中からして辺りは暗く、松明の灯りだけでは足元も見えない。港を蓋う謎の黒いモノのせいで、暗さに拍車がかかっているのだろう。いくつかの何か暗がりで確認できない物に躓きながらも、俺は適当な倉庫の扉を押し開ける。
飛び込んだ倉庫では、魚の生臭さと酢の臭いが鼻をついた。人狼が嗅覚に頼るかはわからなかったが、少しでもマシなら、と思いその倉庫の奥へと逃げ込んだ。
どうやら、この倉庫は魚を酢漬けにする為の場所らしい。三枚におろしたアジかイワシのような魚と御酢が樽一杯に入っている。
俺は端から空の樽を探し、ついに中身が半分ほどの樽を見つけ、その中にシャルジュを入れ、自身もそこに入り込んだ。
直後、倉庫の入口の方から声がした。
「さぁさぁ、それじゃあ探していこうかな……ちゃんと隠れてるかなぁ?」
怪物の足音が、誰も居ない薄暗い倉庫に響く。樽の中からでは、外の様子は分からない。
……何か遠くの何かが壊れる音がする。おそらくは、木材で出来た何かだろうか?
「ああ、違った……残念。だけど……解るんだよなぁ……」
まだ声は遠い。
先ほどより近い位置の何かが壊される音がする。
「血だ。血の匂い。魂が、漏れてる匂いだ……近くだなぁ……」
まだすこし、声は遠い。
更に近くの物が壊される。
「おや、違った。ここの樽だと思ったのになぁ……じゃあ、どこだろうなぁ」
足音がすぐ傍を通り抜ける。
何か鋭利な物が、近くの物をガリガリと引っ掻く音がする。おそらく、怪物のあの細い指じゃないだろうか?
「どこかなぁ。この辺りかな? 違うかもしれないなぁ……」
声が近い。
俺たちが隠れている樽を、怪物の指が引っ掻く音がする。
そして……
「ここだ!!」
すぐ傍の別の樽が壊される音がした。
「あれぇ? この近くだよなぁ……ふ、ふふ、どこだろうなぁ?」
そして、俺たちが隠れている樽、その木枠のすぐ外で声が聞こえた。すぐそこに、樽の壁一枚向うに、居る……!
こいつ……もしかして、いや、もしかしなくても……奴は他の樽や木箱を壊していく。そう、俺たちが隠れている樽をわざと避けている。
もう仕留められると分かった獲物を、弄んで楽しんでいるのだと、俺にも解る。
そして、この話の冒頭で言ったように……俺は、俺たちは、誰の助けが来ないまま、死にそうになって居ます。
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