5
少女の名前は翠といった。
しかしその名前はどうやら少女の本当の名前ではないらしい。この人に優しくない残酷な世界を生きぬくために少女が自分で自分に勝手に名付けた名前。それが翠という言葉であり、ただの記号だった。
「お客さん、名前は?」
翠は上下とも白色の下着姿のままで、鏡の前の椅子に座って乱れた髪の毛をポニーテールの髪型に結い直していた。その手つきはとても手慣れている。
「ないよ」
「出会ったばかりの私には秘密ってことね。うん。そのほうがいいわ」鏡越しに男の顔を見て、翠は笑う。
「違うよ。本当にないんだ。名前なんて忘れちゃったよ」
翠は男が冗談を言ったのだと思ったようで、今度はきちんと男のほうを振り向いて、それから男の顔を見てにっこりと笑った。翠はよれた白色のシャツを着てから、その上に灰色のパーカーを羽織り、次に鮮やかな紺色の短いスカートをはいて、最後にスカートと同じ色をした紺色の靴下をはいた。それから男のところまでやってくるとベットの隣に腰を下ろした。翠はそっと男の腕を取る。
「じゃあさ。今決めちゃいなよ。名前ないと不便だよ」
「いい名前が思いつかない」
「なら私が決めてもいい?」と翠は言う。
「別に構わないよ。それが僕の気に入る名前だったらね」男が言う。
「緋っていうのはどう?」
「あか?」と男は首をかしげる。
「私たちね、仲間同士のことを色の名前で呼んでるの。本名はみんな内緒で、というか、もともと知らない子が多いんだけど、とにかく名前は全部色の名前で呼ぶんだ。私を翠って呼ぶみたいにね」
「それで僕が緋ってわけ?」
「そうだよ。お客さん緋っぽいもん」と言って翠は笑う。
「緋って有名な色だよね。翠の仲間に緋はいないの?」
「いたよ。……でも先月死んじゃった」
男は無言のまま新しいタバコを取り出して、それを口にくわえてオイルライターで火をつけた。それから煙をゆっくりと吐き出した。
どうやら翠はたまたま仲間内で緋色の場所が空いてしまったために、その空白を埋めるように、そしてさっき道端で男の手を無理やり引っ張って、こんなおんぼろな古いホテルに連れ込んだように強引に、今度はその空白の場所に男のことを誘ってくれているようだった。
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