深き闇より出でし者(前編)


 それは、ある午後の出来事だった。



「あ、あれ? 確かここに置いていたハズなのに……ど、どうしよ……ぱ……パパに怒られる!」


 いつものように食堂から教室へと続く廊下を渡り、途中にある物理研究室へと立ち寄った彼女は、そこで悲痛なつぶやきを洩らしたという。


 眼前には、いくつものフラスコやビーカーといったガラス容器が並ぶ木製の棚。

 その一点、少女が見つめるその場所だけが不自然にほこりが付いていない状態でいていた。

 そう、本来ならるべきモノが忽然こつぜんと姿を消していたというのだ。

 そこに確かにあった痕跡こんせき、即ち綺麗な円形を作っていた木目だけを残して。


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 陽だまりが暖かく、つい睡魔すいまの誘惑に身を委ねそうになる昼またぎ。

 最早、睡魔改め「魔王ラリホーマ(仮)」の前に抗う術も無く、あたしはまどろみの中へとちてゆく。


 て、そんな場合じゃあない!


 この午後の講義だけは、あたしにとって大事な単位がかっているのだ。


 ああ、ウチの購買部に幻のアイテム「単位の種(ピーナッツ入り)」は置かれないものだろうか。

 試しに生協のおばちゃんに投稿でもしてみるか?


 まぁ、そんな個人的な事情はさておき――


 あたしが睡魔と単位という二強相手に格闘していた頃、その事件は密やかに起こっていた。


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「な、なんだよ、これ……ゆ、夢……だよな?」


 そうつぶやく少年は、目の前の『現実』に困惑していた……らしい。

 彼が目の当たりにした現象モノ、それこそが今回の怪奇ミステリーの序曲だったと言って良いだろう。

 その怪奇を起こした存在は、こう言葉を発したという。


『なにをおそれる、なんじがのぞんだ「ねがい」だ。わが「まりょく」によってな』

「……ウソ…………だろ…………?」

『げんじつを、うけいれよ。そして、いまこそ「せかい」に「はかい」と「こんとん」をっ!』


 そこまで述べて、それは沈黙した。

 少年は今更ながらに「とんでもない事をしでかしてしまった」ことに気がついて、恐怖と混乱に身を震わせた。

 ただ無常にも、眼前に広がる姿を前にして。


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「というわけで、今日は本当にごめんなさい!」


 そう言うと、彼女――あたしの愛してまない小動物系美少女エマちゃんこと、渡瀬わたせ絵真えまは申し訳なさそうに頭を下げる。


 ちなみに今は午後の講義を終えて晴れてサークルへ顔出そうと軽やかな足取りで部室に向かう道すがら、ちょうど彼女を見かけたので声をかけてみたところ、


「実はその……今日はちょっと、野暮用がありまして……」


 などと何かバツが悪そうな様子で断ってきた。


 無論、そんな如何にも「人に言えない」みたいな素振りを見せられた日にゃ、思わず好奇心が疼いてしまうのが人情というもの!


 そんなワケで、あたしはつい魔が差し……もとい、サークル代表としての責任から事情をくことにした。


 そう、これはあくまで義務であって、決してよこしまな思惑からではないので。

 いや本当に。


「一応、理由をいても良いかな?」


「いやその……」と、どこか言いにくそうに口篭るエマちゃん。


「エマちゃんよ、なにゆえもがきいきるのか?」

「は、はい?」

「ほろびこそわがよろこび、しにゆくものこそうつくしい」

「えっと……なんですかそれは?」

「一度は言ってみたい大魔王ラスボス名言セリフさ」

「はぁ……」

「で、話してくれるかな?」


 そう言うと、あたしはここぞとばかりに極上のスマイルを魅せた。

 しばらくして、


「解りました。えっと実は……」


「うんうん、実は?」と内心では嬉々として次の言葉を待ちわびながら、表面上はあくまでも親身にうなずいてみせる。


「実はその……第五研究室に置いていたホム……じゃなくて、えっと、ほ、ほ……ホルマリンの瓶が無くなっちゃったんです!」


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 一部始終を聞き終えると、あたしの頬はゆるみ、目の奥から熱いものが込み上げてきた。

 そして、ゆっくりと彼女の両肩に手を置くと、あたしは一言こう漏らした。


「消えたホルマリン漬け? なにそれ美味しいじゃん!」

「はい?」とエマちゃんはキョトンとした表情で、あたしを見返す。


 もしかしたら、あたしの瞳の中にお星様でも見えているのかもしんないけど。

 事実、あたしは胸を躍らせていた。


 何にかって?


 それは言うまでもない、怪奇ミステリー気配ニオイだよキミィ。

 今の心境を一言で表すと「オラ、すっげーワクワクしてきたぞ!」である。


「これは急ぎメンバーを収集すべし。まずは国文の学舎からレイを呼びつけ、購買部で牛乳を買ってから部室で寝てやがるだろうレノンを叩き起こし、ジョニーさんは……まぁ、多分現れないだろうから放置!」


 大まかな方針を決めてから、あたし達は早速国文の学舎へと足を向けた。


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「ここがその現場だね?」

「あ、はい」


 あたし達はエマちゃんの言う第五研究室におもむき、そこで例の瓶漬けが置いてあった場所まで案内してもらった。

 昼以降に入ったのは彼女だけなのか、足跡を付けるのも気が引けるほど床板が輝いていた。


 ああ、けがしたい。


「げぇっかん……ぢゃなくて、何ここ臭い……」


 室内に染み付いた薬品系の臭いに、大げさな仕草で鼻を摘むエセ文学少女こと内藤ないとうれい


「はいはい、愚痴ってないで仕事する。レイの読解力が頼りなんだぞ。分析とか得意だろ、そういうの?」


「……仕方ないわね」と諦めるように言葉を吐き出すレイ。

 そこへ、


「やべっ、ここ刺激臭キツ過ぎ。ナタリー、俺外で寝て良い?」


 もう一方からも不満の声。

 いつもの如く部室で寝てやがったレノンこと礼能れのじゅんだ。


 ちなみに爆睡中のレノンは、たとえ震度七の地震が起こっても目を覚ますことはまず無い。

 そんな奴をどうやって叩き起こしたかというと……


 あらかじめ買ってきたパック牛乳をそっと忍ばして蓋を開けただけ。

 そして、間髪入れず匂いに釣られて目を覚ましたというワケだ。


「おい、そこの牛乳人間。なんか横笛的なモノでその睡眠回路を狂わすぞ!」

「ぎ、牛乳人間って……」


 レノンは、あたしの的を射たツッコミ(?)に、何やら微妙な表情を浮かべている。


「男なんだろ、グズグズすんなよ。可愛い後輩のために、ちっとは胸のエンジン全開レッツゴーオンしろよ!」

「それカオス過ぎて、何すりゃ良いのかさっぱりなんだが……」

「お前、混沌カオスさんナメてんの? いよったり、たゆたったりするんだぞ!」

「名取さん、落ち着いて。興奮しすぎて論点が行方不明になってますよ」


 あたしのまくし立て攻撃に辟易するレノンの横で、純朴な聖天使えまたそのフォローが入る。


「取り敢えず、ここにビーカーらしきものがあって誰かがそれを持ち出した……というのは間違いないわね」


 不意にレイの声が、あたし達の間に割って入った。


「なんで?」とレノン、涙目で鼻を摘みながら彼女に解説をせがむ。


 彼女は手前を指差していわく。


「見ての通り、ここのとこだけちり一つ無いでしょ。明らかに先刻まで何か置いてあったあとね。そして、犯人は恐らく……男よ」

「な、なんでそこまで断定できちゃうんですか?」


 珍しく饒舌なレイに、エマちゃんから更なる疑問の声が投じられる。


「靴……」と、今度は研究室の奥側にある入り口の扉からココまでのルートを一直線に指す。


 そこには真新しい靴跡がついていた。

 ちなみに、あたし達は手前の扉から入っているので、そこに足跡をつけたのはそれ以前にここに入ってきた人物と見て良い。

 そして、掃除は大体昼前に用務員さんが済ませている。

 透き通るように綺麗な床は、この研究室が毎日使われていることを裏付けている。

 なにより、その足跡は女の物にしては大きかった。


「なるほど、つまり犯人は奥の扉あそこから入ってきてここにあったエマちゃんの『大事なもの』を見つけて持ち去ったと」

「なんか表現に微妙ないびつさを感じるのは気の所為せいでしょうか?」

「き、気の所為だよ。だ、誰だ、素直なエマちゃんに人を疑うことを植え付けた無粋な輩は?」


 あたしの抗議に対し、なぜか他二名から一斉に冷たい視線が注ぎ込まれた。


 おい、どういう意味だそれは?


「ところで」と、ここでレイがエマちゃんの方に視線を移す。

「あ、はい」とエマちゃん、なぜだか少し怯えた様子で彼女を見る。


「あなた、なぜホルマリン漬けなんて持っていたの?」

「そういえば確かに。エマちゃん、なんで?」


 当然といえば当然の疑問だ。

 なぜなら、エマちゃんはレイと同じ文学部。

 それも、史学科で西洋史を専攻している。

 ホルマリン漬けなんて医学部とかの連中が扱うような代物など、余り関係ないように思えるが。


「えっと、その……『西洋の魔女狩りと医学史』についての研究で使おうかなぁと思って……」


 なるほど、たしか魔女と呼ばれた人たちが西洋医学の発展に関わっているみたいな話もあったような気もするが……

 一瞬もっともらしいと思える言い分は、どこか浮ついているようにも思えた。

 だが、どうしてだか嘘を吐いているって感じでもない。


「本当にそれだけ?」と、レイは少し問い詰める口調で確認する。

「えっと、その実は…………」と根負けして、少女が何かを言おうとした時だった。


 遠くから突然、何かが爆発したような音が聞こえたのは。




つづく

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