第3話
ハイヒールの足音。クラクション。クソみたいな広告を恥ずかしげもなく大音量で流す大型ビジョンや宣伝トラックを見かけると、一体どういうつもりなのだろうかと感性を疑ってしまう。喧噪という言葉の相応しい街。別に、東京が汚れた所だとは思わない。上京して一年以上経ったが、東京の景色に慣れはしても、自分がそこに馴染めるようになる気はしなかった。
「そういえばさ、行幸。今このタイミングで髪切っちゃって、成人式はいいの」
万葉に言われるまで、成人式のことなど頭になかった。たしかに、周囲にも成人式のために髪を伸ばしている者は多い。
「まあ、成人式は、出ないかなあ」
「えっ、そうなの」
出たらいいじゃーん、と万葉は笑った。
まあそう思うよね、万葉は。
成人式になど最初から出る気がないのは本当だった。今更地元の同級生と会って話すことなど何もないと思っていた。
そういう気持ちは、東京生まれ東京育ちの万葉には分からないだろうな、と思う。別に万葉を非難したいのではない。行幸が選んで田舎に生まれたのではないように、万葉も選んで東京に生まれたわけではない。
時々考える。もし私も東京で子供時代を過ごせていたらどうなっていたのかなって。公園で「おさんぽ」途中の園児を見かければ、大人げなくも彼らのことが羨ましい。走り回って遊ぶ姿は、行幸の地元にいる子供たちとも、行幸の十数年前の姿とも、変わらないように見える。でも、彼らにとっては生まれた時から「東京」が当たり前で、そして何より、東京に生まれられなかったというだけで背負わなければならない余計なコンプレックスを背負わずに済むのだ。
昔から、人間関係とか色々、いちいちリセットするのが好きだった。だから中学受験をしたり、高校は県立高校を受け直したりして、常に、自分のことを誰も知らないところに敢えて行くようにしていた。大学進学なんて、人生最大のチャンスだった。生まれた町ごと切り捨てて、身軽になるチャンス。同時に上京は逃避にも近かったという意識があるから、なおのこと昔の同級生に会いづらいのだろうなと思う。
多分、今大学で関わりのある人たちとも、卒業したらそれっきり。
――この人とも、そうなんだろうか。
数歩先を歩く万葉の背中を目で捉えた。見失わないように、見失わないようにって目で追った。こんなに近くにいて見失うはずもないのに。
行幸の無意識は、今この時の彼女の姿を焼き付けたがっていたのだろう。
あおいは本当に、また行幸の部屋にやって来た。インターホンが鳴るその瞬間を待っていた自分に気づき、行幸は少し恥ずかしくなった。しかしそんな心の浮かれようは相手に伝わることもないだろう。ドアを開けるまでの数秒の間に、『冷静で物静かなお兄さん』の姿に化ければいいのだから。――そう、思ったのに。
初めて見る、あおいの、ランドセルを背負った姿に、こいつほんとに小学生なんだな、という動揺を隠すことはできていなかったのだと思う。これまで行幸の中でどこか不確定だったおあいの存在が、ここでやっとリアルになったのだった。
だって、偶然アパートの庭にこの子供がいて、偶然走って自分の部屋に招き入れるなんて、そんなのあまりにも、出会いが鮮烈過ぎたから。
あおいは甘い物が好きなのだろうと思っていた行幸がこの日出したのはロールケーキだった。行幸が適当に切り分けた本日のおやつを前にして、あおいはやはり目を輝かせた。その予想通りの反応に、行幸は内心で満足した。
――ふ、なんだか偉そうな態度の子供だけど、こんな餌付けにあっさり喜んでるなんて、ちゃんとかわいげというか、子供らしいところもあるじゃん。
振り回されているのは、一体どっちなんだか。
初めの数分は、食べることに一生懸命だったのかあおいは喋らなかったが、ふと思い出したように向かい合って同じロールケーキをあおいより遥かにゆっくり優雅に頬張る行幸に問うた。
「あんたのうち、いつもこんなふうに菓子があんのか」
「まあ、だいたい」
「男の一人暮らしだってのに、女子力高いなあ」
「実家がそういう家だったんだ。親も夜お菓子食べたり酒飲んだりする。だから僕が深夜に甘い物食べてようが、怒られたこともないしな。ま、実家出てから、そういう習慣のない家庭も案外多いってことを知って若干カルチャーショックだったけど」
「ふうん」
「一人になってからもなんとなく、いつも何かしらは家にあるな。冷蔵庫に何の食べ物はなくても、お菓子は入ってるな、考えてみれば。今は一人なのになんか、実家にいた時の習慣のままってことも色々あるんだろうな、他にも」
「そういうもんなのかなあ」
「ま、きみみたいな歳の子にはまだまだ先の話か、実家出るとか。……あおいは家では、お菓子とか食べないのか?」
「……全然、食べない」
「なんだ、そうなのか」
行幸はふと背後の棚に手を伸ばした。取り出したのはカメラ。
映画研究会なんてものに入ったからには、やっぱりカメラが欲しくなったのだが、大学にあるような高価なカメラは勿論買えないので、行幸の自前のカメラは小さなホームビデオみたいなものだ。
「あおい」
名前を呼び掛けると、あおいは一生懸命フォークを突き刺していたロールケーキから顔を上げた。行幸が出すお菓子を喜んで食べる割には、あおいはあまり食べ方が上手くないことが行幸は少し気になっていた。
「きみのことを、撮ってもいい」
「いいけど、何急に」
言うとあおいは、カメラ目線になって頬を赤らめた。
「あー、いいからいいから。今まで通りで。さっきみたいな、そう、続けて」
行幸の言葉に、あおいはあの下手くそなロールケーキの食べ方を再開する。行幸はカメラを覗く。画面の中で、あおいがロールケーキを食べ進めている。ただ、それだけの景色。
なのに何故か、残しておかなくちゃいけないという思いが、行幸の心を強く打ったのだ。
部屋にはそろそろ夕陽が射し込んで、あおいと、ロールケーキと、カメラを持った行幸の手を、暖かな色で染めた。
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