第2話
第2話
アパートの中庭で何かが動いている。
中庭の砂利で遊ぶ……子供?
学生ばかり住んでいる単身者用アパートだから、住人ということはないだろう。
おいおい、どこから勝手に入り込んだっていうんだよ。
しかも間の悪いことに、どうも行幸の部屋の前らしい。ただ自分の家に帰ったと思ったらこれとは、なんとも気の休まらない事態となってしまった。行幸は反射的に辺りを見渡した。とりあえず今、人気はない。
――住んでいるアパートに不法侵入の子供がいようが、それが一階の自分の部屋の目の前だろうが、私の知ったことではない。気になどしてなるものか。
明らかに身体に不釣り合いな大きなパーカーの背中を横切り、玄関ホールのドアを開けて自分の部屋を目指す。何故か、抜き足足差し足で。なんか、この子供と目が合ったが最後という気がしたのだ。
アパートの建物の中も人の気配が感じられない。同じフロアでもう帰ってきているのは行幸だけのようだ。
――こんな時に限って……。勘弁してくれよ。
そう思った矢先に、目の端に別の人影が見えた。
――おばちゃん。いつもの。園芸クラブの。
行幸は考えるより先に走り出していた。廊下の突き当りから中庭に回り、しゃがんでいる子供を半ば無理矢理抱き起こす。子供は行幸の腕の中で驚いた顔を行幸に向けてきたが、行幸は「こっち。早く」とだけ答えると、細い腕を引いて走り、大急ぎで鍵を開けた自分の部屋に子供を押し込んだ。
息を切らせて玄関に膝をつくようにした行幸と対照的に、子供はケロリとして行幸を見下ろしている。子供の元気さが憎いほどに思えて、行幸はその姿を見上げる。
10歳くらいの、少年、だろう。さっきも思ったが、着ているパーカーはやけにぶかぶかで、その華奢さが逆に強調されている。
「ねえ、あんた」
子供に呼び掛けられてはっと我に返った。彼を見つめることに気をとられてしばらくぼーっとしてしまった。……なんていう心の声を知られてしまったら、不審者扱いされてしまうだろう。
「あっえっと、ごめん、表に園芸クラブのおばちゃんが見えたから……見つかったら、きみが怒られてしまうと思って、つい……」
「……そう」
答えた子供の顔には、「本当かよ」という疑問が浮かんでいたが、ここで不審者扱いを受ける訳にはいかない。
「だっ、だいたい、最初に不法侵入したのはきみの方だからね!何なんだよ、こんなところに勝手に入ってきて」
子供は答えない。行幸ははー、とため息をつく。
「とりあえず、今出て行ってもきみも私も疑われるし、おばちゃんがいなくなる頃までこの部屋にいて」
子供は案外素直に靴を脱ぐと、行幸の部屋に上がった。
行幸の部屋は、大した装飾はないが、ピンクのカーテンやベッドの布団、ポムポムプリンのぬいぐるみと、人並みの女子大生の部屋である。
「あんた、男のくせにずいぶんかわいらしい部屋に住んでんだな」
へ?
子供の言葉に、行幸は一瞬思考が停止する。
……あー、そうか。今私こんな恰好してるから……。
しかし、行幸はこれまで周囲の物珍しげな視線を感じることはあっても(そしてそのことに慣れてきつつあっても)、はっきりと言葉にされたことはなかった。
だから、こんな今更過ぎる指摘も行幸の脳はすぐには処理できなかったのだ。
……まあ、相手は遠慮のない子供だし……。というか、いくらこんな服装だからって、本当に男に見えるほど行幸は体格はよくないはずだが。やはり子供の目から見たら分からないものなのか?
……というかそもそも、本気で男に間違えられたなら、それはそれで喜ぶべきことなのか?しかし行幸が目指していたのは、そういうことではない気もする。
では何なのだ。自らこんな恰好を選んでおいて、女としての自分は失いたくないとうのか。
――だって、この恰好は一つの手段だから。
行幸はこの時初めて、自分の思考がひどく歪んだものに思えて、自分という人間を恐ろしいと感じた。
――自分の中に、自分で分からない部分がある。
一瞬のうちに押し寄せたその恐怖を振り払おうとしたのか、子供相手に行幸の口調はきつくなる。
「私は男じゃない」
少年の瞳に浮かんだのは、僅かな敵意と、……同情……?
その中には、思いがけず狼狽える行幸の顔が入り込んでいた。
しかし、次第に冷静になってきた今、落ち着いて考えてみると、これは結構まずい状況なのではないだろうか。咄嗟の判断とはいえ、見知らぬ子供を家に連れ込むなど……!とんでもないことをしてしまったかもしれないという思いを抑え込もうとしたのか(+先程の必要以上に強い口調のフォロー)、行幸は無駄に明るく子供に語りかける。
「……家にまで連れてきておいてお互い知らない同士っていうのも何だしさ、その、名前、聞いてもいいかな」
子供がまたしても何も答えないので、あ、これではまた不審者扱いだ、と気づき慌てて付け加える。
「あ、私は、伊東行幸っていいます」
「みゆき……」
「そう」
子供の頭には、行幸という名前の漢字は浮かんでいないだろうなと思った。平仮名三文字の単語として行幸の名前を噛みしめるようにする少年を、行幸は静かに眺めた。彼の答えは、気長に待つつもりだった。
「あおい」
「あ、うん……あ、お、い?」
「そう、あおい」
子供がぽろりと呟くように自分の名を名乗ったので、またしてもちょっと頭がぼんやりしていた行幸の反応は間抜けなものになった。
あおい。
葵?蒼?碧?
……行幸にも、あおいとう名前の字は浮かばなかった。
園芸クラブのおばちゃんの土いじりは熱心なので、日が暮れるまで帰らないだろう。
「……とりあえず、何か食べる?」
行幸は立ち上がって台所に向かった。冷蔵庫にいちごシュークリームが入っていたのでそれと紅茶を出した。紅茶を入れたカップは、実家からここに引っ越してくる時に叔母にもらったハローキティの絵がついたものだ。
あおいの口からはまた「男のくせに」という言葉が聞かれた。
――この子、もしかして本気で、私が女だってことに気付いてないのかな?
相手は子供だ。もう一度否定したところで、信じはしないだろう。そんな骨の折れることはしないでいい。
まあいいや。それならいっそ、この子の前では男のフリで演じ切ることにしようじゃないか。
「別に、僕だって常に冷蔵庫にいちごシュークリームが入っている男ではないけどね」
さすがに一人称を「俺」にするのは気が引けたので、「僕」くらいにしておく。
それにしても。
この子供はシュークリームの登場に少々喜び過ぎではないか。行幸がシュークリームを出すと、あおいは目をこれ以上ないほどキラキラと輝かせて、「ほんとに俺、これ食べていいのか⁉」と言ってきた。子供なんて何か菓子でも与えておけば喜ぶだろうとは思ったが、そうはいってもあおいは9歳か10歳くらいには見えるのに、シュークリーム一つでこんなにも釣られるものだろうか。
「……おい、そんなに慌てて食べなくても。誰も取るわけじゃねーし。クリーム飛び出しちまうぞ」
――てか私、なんでこんなに自然に男のフリで喋れてるんだろ。これも変身願望ってことなのかな。
あおいはシュークリームにはあんなにがっついていたが、紅茶の方はたいそうゆっくり飲んだ。
――ふ、やっぱり子供だな。
行幸にはきょうだいがいないので、これほど歳の離れた子供と接するのは新鮮だった。同世代や大人相手でもあまり上手く喋れない行幸は、十は歳下であろうこの少年とも勿論大した会話は交わさなかったが、不思議と気まずさや居心地の悪さはなかった。あおいの方も、ほとんど喋らない子供のようだった。
……多分、私と似てるんだろうな、この子は。
もうあおいくらいの歳だった頃のことなど覚えていないが、きっとあおいは十年前の自分の姿だろうと、行幸は思った。
それはそれはゆっくり、ゆっくり紅茶を飲む少年を、行幸は言葉もなく眺めた。
あおいが息で紅茶を冷まそうとする度に、その顔に白いフィルターがかかる。湯気はその子供らしい紅潮した肌や細い黒髪を白く霞めさせた。息の靄の切れ間から、時々カップの中の水面に少年の瞳が映り込んでいるのが見えた。子供の目というのは、誰でもこんなに澄んでいるものなのだろうか。それは、永遠に眺めていてもいいと思うような光景だった。
あおいが漸く紅茶を飲み終わる頃には、陽が傾きかけていた。
(そろそろおばちゃんも帰った頃かな)
しかしおばちゃんが帰るとか帰らないとかは、いつの間にかあおいをこの部屋に引き留めておく言い訳になっていたことに気付く。
「……思ったより長居させちゃったね。帰らないでいて、家の人が心配してない?って、僕がしばらくいろって言ったんだけどさ……」
「心配なんかしてないよ、うちの親は」
思いがけず強い語気で言い返されて、行幸は一瞬たじろいだ。
「……そう、なのか……?でもまあ、表にいたおばちゃんもう帰っただろうし、もう帰りな。悪かったな、なんか」
「うん」
子供はまたしても気が抜けるくらい素直に立ち上がると、玄関で自分の靴を履いた。
それを少し寂しく思う自分に気付いて、行幸は戸惑った。
――いいんだよ、これで。もともとこんなのあまりにおかしな状況ではないか。お互いどこの誰かも知らない他人同士だ。どっちにしたって、この子が今日家に帰って、親に行幸のことを話せば、きっと怒られて、もうそんな怪しいお兄さんに近付くんじゃありませんって言われて、それでおしまい。私たちはもう、会うこともない。
玄関のドアを開けて出て行きかけたあおいは、立ち止まって行幸の方を振り返った。
「あ、あの」
「?」
「また、来てもいい」
「いいよ」
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