最強の剣客は、平伏する
第142話 美しき御台所
そこで待ち構えていた奥坊主に、大奥へ上がるよう告げられる。
「お澪の方さまの、御用でこざいます」
劍禅ははっとなり、長袴の裾を弾くように引き摺って廊下を急いだ。ついてくる奥坊主が走らねばならぬほどの急ぎ足である。それは武術の秘伝、浮き身をつかった歩法であった。
奥坊主の案内はここままでだ。御鈴廊下からは大奥所属の表使いの少女に引き継がれる。ここより男子禁制の大奥となり、本来は劍禅の立ち入りは許されない場所である。
だがそのまま御小座敷へ通される。
本来は上様の寝所であり、毎朝上様と
ここ数か月、上様は表に顔をだしておらず、いっさいの政務を執り行っていない。そればかりではない。奥の者の噂では、上様の姿を見た者すらいないという話だ。
劍禅は内心、すでに上様は亡き者とされたものと思っていた。
下段に座し、平伏して待つ。
ほどなくして衣擦れの気配が入室し、お澪の方様の涼し気な声がかかった。
「劍禅、ご苦労です。
「はっ」
ゆっくりと顔をあげた劍禅は、上段から可憐な瞳で自分を見下ろすお澪の方様と視線を絡める。
その瞬間、胸の奥が見えない手によってぎゅうっと鷲摑みにされ、あまりの苦しさに息を止める。胸が苦しい。だがそれは、得も言われぬ快感をともなった、歓喜の狭窄であった。
「お澪の方様におかれましては、大変ご機嫌麗しゅう……」
「堅苦しい挨拶はよい」
美しい双眸が、いたずらっぽく微笑む。
細い顎が愛らしく動き、花びらのような唇が笛の音色の如き言葉を紡ぐ。
「三種の神器はもう集まったのですか?」氷のような美貌が一瞬で解凍され、童子のような笑顔がこぼれる。「刑部から幕府クエストをクリアした者が現れたと聞きましたが」
由々しき事態であるのだが、お澪の方様は楽しそうだった。
「はっ」
かしこまって劍禅は低頭する。
「一人はクエストの謎を解き、『破邪の勾玉ヨミ』を手に入れた様子。いま一人は、大黒屋悪左衛門を討ち、斬魔刀『オロチ』を手に入れたと聞いております」
「大黒屋が討たれたのですか?」お澪の方様がおどろきの声をあげた。「あのぬらりひょんが? あいつはたしか不死身の再生能力をもっていたはずですが、それが討たれたと?」
「はっ。申し訳ありません」
劍禅はお澪の方様の怒りをおそれて平伏する。
だが、彼の頭を越えて行ったったのは、お澪の方様の、ころころと鈴が転がるような笑い声だった。
劍禅は、おそるおそる顔をあげ、御台所(将軍の妻)の様子をうかがう。
聖女のごとく美しい妃は、鞠と戯れる子犬のように楽しそうに笑っていた。
「あの蛸が」けらけらと楽しそうに笑う。「いい気味ですね」
可笑しくて仕方ないらしい。お腹をおさえて悶絶している。
「あの、え?」
返答に窮しつつも、劍禅はお澪の方様のあまりに愛らしい姿にわが身が震えるのを感じた。
恋しい。あまりに恋しい。恋しさのあまり自分が死んでしまうのではないかと思うほど深く深く、劍禅はお澪の方に恋していた。
彼は若いころ、警視庁の警官だった。
大学を卒業してすぐに警察官の採用試験を受け、四十半ばまで職務に励んだ。が、ちょっとしたミスで懲戒免職となる。ほんの出来心による、ちいさな盗みだった。拾得物の着服である。それがひょんなことから発覚し、すべてのキャリアと職を失った。
路頭に迷った彼は、五十手前にして『ハルマゲドン計画』に参加した。
若いころから剣道で鍛え、警視庁では小野派一刀流を修行してきた。勤務では修羅場をくぐったことも数知れない。その経験を生かし、ここ『ダーク・アース』において剣士としてLVをあげ、このお江戸にたどり着いた。
そして、若いころから育んだ技と経験、それらを生かして、いまや最強の剣士としてこの江戸に名を轟かせ、将軍家指南役にまでのぼりつめている。そして、このお澪の方様に出会ったのだった。
衝撃だった。この世にこれほど美しい女性がいるものなのかと、驚愕した。そして、痛烈に思ったのだ。この人のためなら、自分はどんなことでもしよう、と。
このお澪の方様がダーク・レギオンであると劍禅はうすうす勘づいていた。いや、人がこれほど美しくいられるはずがない。まさに、魔性の美しさだ。だったら自分はこの美しさとともに地獄の底まで堕ちていこう。そう決めたのだった。
自分の命は、この人のため。自分の人生はこの人に出会うため。そのために存在していたのだと、この歳になってようやく気づいたのだった。
「会ってみたいですね、その二人に」
お澪の方様は、夢見るような視線で天井を見上げた。
「ぬらりひょんを倒したという地球人と、クエストの謎を解いたという地球人。その二人に」
「はっ」
劍禅はふたたび平身低頭する。
うち一人は二の丸の地下牢に捕えてある。だが、もう一人は行方が不明だ。副将軍を自称する水戸光希が下屋敷に匿ったという噂だが、すでに屋敷にはいないという密偵からの報告もきていて、情報は錯綜していた。
「そうだ。こういうのはどうでしょう?」
お澪の方は、手にした扇子で、ぽんと膝を打った。そして、きらきらした瞳を期待に輝かせて身を乗り出す。
「御前試合を開きましょう。それに参加させるのです。いえ、彼らばかりではありません。腕に自信のある者どもは、すべて参加させましょう。そして、全員を戦わせるのです。そして、生き残った最強の戦士を……」
お澪の方様は、夢見るような視線でうっとりと天井を見上げる。
「わたしが喰らうのです」
くくくくくと、細く白い喉を震わせる。
「まるで、巫蠱の術のようですね」
御台所の眼が、熾火のような妖しい光を放って期待と狂気に燃え立っていた。
「劍禅。もちろんあなたも、出場するのですよ。そして、頑張って優勝なさい。そうすれば……」
「わたしが喰ろうてあげます」
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