エピローグ 勝ち得た懐かしの一時



 エースが目を覚ますと、そこにはあまり見慣れない天井があった。


 体へと意識を向ければ、やや柔らかいベッドマットの感触と、体にかけられた布団の感触が感じられる。


 そこまで情報が入ってきたところで、エースはここが保健室であることに気づいた。だが、記憶の中の景色からは、この場所へと繋がってこない。


 つい先ほどまで闘技場にいて、向かってくる生徒を片っ端から倒していって――



 その先はほとんど覚えていないのだが、どうしてここに、という疑問だけは確かに持ったまま、エースは体を起こした。


 周囲は、薄緑のカーテンに覆われていた。静まり返った空間は、まだ見えない向こう側の空間に人がいないように思わせる。時間が経っていることには違いないのだろうが、どうにも時間感覚が掴めない。


「よいしょっと」


 ベッドから降りて自分の足で立ち、閉まっていたカーテンを開けると、そこには確かに人はいなかった。


 今は何時で、皆はどこにいるのだろうか。


 そんな疑問がエースの頭を過り、視線を窓の外に向けさせた。


「もう夜なのか……」


 窓の外の景色には、すっかり夜の帳が落ちていた。今日が週末であることを考えると、人の気配のなさも少しばかりは合点がいく。


 と、その時、保健室の扉が開いた。


 入ってきたのは、サウゼル魔導士育成学校校長、パードレ・ファルシュだった。


「おう、目ぇ覚めたか」


「校長? なんでここに?」


「父親だから……というのもあるが、生徒や他の教師に、この時間まで見守りを任すわけにはいかんしな」


「ああ、そっか。心配おかけしました」


「そっちは気にすんな。ついでにいうと寝てるお前を狙って良からぬことをたくらむ生徒がいないとも思えんし、まぁ、適材適所ってやつだ」


 もう夜であることを考えると、確かに生徒や教師に負担を強いることになる。そこを自分が、というあたりは、パードレ自身の気質なのだろう。校長本人が見守っているとなれば、抑止力としてもこの上ない力強さがある。


「こんな時間だし他の生徒はほぼ帰ったが、いつもの面々は校長室にいるぞ」


「何故校長室に?」


「教室でずっと待たせるわけにもいかんし、そもそも校長権限で鍵を開けておけるのが校長室くらいしかないもんでな。お前の荷物はミストに持たせてそっちにあるから、顔見せついでに行くぞ」


「それ、行かないという選択肢は一ミリもないっすねぇ……」


 する気もなかった反論がそもそも出来ないことには突っ込みつつ、エースは先行するパードレの少し後ろについて、歩き始めた。



「んで、体の調子はどうだ?」


「まだそこそこ怠い」


 戦った後の傷の治療こそされているものの、疲労感は治療でなくなるものではない。未だ残る激戦の置き土産は、エースの体を、もうしばらくは離れてくれそうになかった。


 回復魔法での治療は、傷こそ綺麗に治してしまうが、筋肉の疲労感までは取り去ってくれない。連戦の間にそう何度も使うと、体の疲労感と脳がかみ合わずに回復ずれを起こす――あの大襲撃事件の終わり際には、今よりも酷い感覚を味わった。


 大きな事件の終わりを告げるように起こるこの怠さの、三度目は流石に遠慮したいという気持ちが起こる。それだけ大きな戦いに巻き込まれ続けること自体、そう何度もあってほしいことではない。



 そんな大きな戦いを『嵐』をするならば、今この空間を取り囲む静けさは『凪』だろうか。それほどに静まり返った空間の中を歩いているため、足音は普段よりも際立つ。


 目的地までは、それなりに距離がある。


 出発地点が、教師棟1階の、手前にある方の保健室。魔導士育成学校において全部で10を超える保健室があるのだが、その中で教師棟に入って最初にたどり着くのが、先ほどまでエースが寝ていた保健室だった。


 闘技場から向かうには、高校棟を経由するため相当遠いはずなのだが、どうやって運び込んだのだろうか。


 そんな純粋な疑問は、次の瞬間には音になる。


「校長」


「なんだ?」


「あそこまで、俺をどうやって運んだんです?」


「教師陣に担架を持ってこさせて、俺の指示でお前だけこっちに運んだ。他の生徒をもっと近いところに運び込んでたからな」


「なるほど、そういうことっすか」


 パードレの言葉で、エースは、今の今まで他にも治療が必要な生徒がいたことを忘れていた。


 倒した生徒は20人を超える。確実に2つ以上の保健室を使わなければ収容できない人数なので、彼らを近いところに割り当てて注目をそちらに向けるのは間違いなく英断だった。


「あ、でよ。そいつらの処遇、どうする?」


「え?」


「お前だけ負けたらどうこう、って言うんじゃ流石に不公平なんでな。校長権限で無理やり合意取った」


「怖っ」


 パードレから発せられた言葉の中身に、エースの口からほぼ反射的に感想が出る。


 そこに言葉通りの感情はなく、本当に都合よく使うな、という思いが呆れ半分で生まれていた。


「そいつら、どうなりました?」


「学校の生徒を出来る限り呼び集めて治療してもらったんで、今も寝てるやつはいるけど、基本全員問題ないと思っていい」


 問題ないのであれば、来週にはいつも通りの生活に戻ることになる。何事もなく勝って望み通り相手を退学させて、という目論見を達成できなかった相手側からすれば、それだけで済まないことはじわじわと来る恐怖だろう。


 そこに何を付け加えれば、意味があるか。少し考えて、エースは口を開いた。


「処分は何もなくていいです」


「おお? いやまぁお前がそれでいいならいいんだが……本当にいいのか?」


「多分その方が、『あのエース・フォンバレンに温情かけられた』って、プライドに傷がつくんで、ちょうどいいんじゃないですかね。真っ向勝負でぶん殴れたんで、俺としてはそれで充分です」


「相手からすりゃ、一番最悪かもしれんがな」


「それならそれで問題ないんじゃないですかね」


 そんなやりとりを交わしている間に、エースはパードレに続いて、階段を上り切っていた。


 そして3階の廊下を見ると、校長室から明かりが漏れているのを見つけた。


「みんな待ってるだろうから、お前1人で行ってくるといい」


「校長は?」


「俺は道中の分で十分だ」


「そっか。じゃあ、行ってきます」


 そう言うと、パードレを置いて、エースは1人で校長室の茶塗の扉を引き開けた。


 これまで薄暗い道ばかりであったためか、明かりが眩しく感じられて少し目を細めるが、その視界の光に慣れた後、ようやくそこにいた3人と2匹を認識した。


「「くるぅ!!」」


 認識とほぼ同時に、ヒールとメールがエースの方へ突っ込んでくる。


「おわっ」


 それを受け止めると、今度はミスト、セレシア、フローラが走り寄ってくるのが見えていた。


「フォンバレンくん、もう大丈夫なの?」


「大丈夫っちゃ大丈夫だけど、若干体は怠い」


「怠いだけで済んでるなら問題ないかもね」


「それはホントにそう」


 ミストの言葉に乗っかる形で、エースは笑いながらそう口にする。


「で、そんなエースに聞きたいことがあるんだけど」


「ん、なんだ?」


「あの時、なんで控室に行かずに、観客席からフィールドに向かったのか。答えは後で言うって言ってたよね?」


「あー、そういやそうだったな。あそこ完全アウェーだったし、言わなかっただけなんだけど」


 激戦の後で忘れかけていたことを、エースはミストの言葉で思い出す。


「相手の人数多かったの、ミストとプラントリナさんは見てるから分かるだろうけど、あそこまで多いと、方向性の統一は出来ても思考の統率までは出来ないんじゃないかって思ってさ」


「確かにそうだね。あれだけ多いと、同じ考えっていうのは難しそう」


「だろ? んで、相手が一枚岩ならともかく、プライドの高い連中はそうしなくとも、そうじゃない『勝てばいい』精神の面々が、何かをしかけてこないとは言いづらい。じゃあそれをいつやるか、ってなると、人の目が入りづらいけど、避けるのがほぼ無理な控室かなって思ってさ。それで上に行ったんだ」


「なるほどね。すごく納得」


 エースが謎のままにしておいた行動の理由を事細かに聞いて、言葉通り納得した様子のセレシア。ミストも、声こそ出さなかったものの、セレシアの言葉を聞いて首を縦に振っているところを見ると、ほぼ同じ気持ちのようだった。


「これをあそこで言わなかったのは、完全アウェーだったからだな。戦う前に目くじら立てられるの、嫌だったし」


「まぁ、あれだけ周りに生徒いたら、小声でも話しづらいよねー」


「流石にな」


 誰が敵で誰でそうではないかはっきりとは分からない以上、敵対することは厭わずとも面倒事を引き起こすのは避けたい、というのがエースの思いだった。


「それもビックリしたけど、その後の方が驚きだった。あれだけ連戦して、何なら1発くらいブラム・エクスプロージョンもらったのに、バンバンみんなを倒していくんだもの」


「いや、多分余波含めたら3発くらいはもらってる。外からだと氷の迷宮で見えてないだろうけど、あの中割と無法地帯だった」


「それをさらっと言うんだからあたしはもう君が人間に見えないよ……」


「ええ……」


 呆れたような口調でそう言うセレシアに、エースは困惑する。


「まぁ正直なところ、目の前のことに集中し過ぎてて、闘技場のフィールドにたくさん出てきた辺りからよく覚えてないんだよな。気づいた時にはもう誰も立ってなくて、その後俺もすぐにぶっ倒れたし」


「そうだよね。同じ生徒とはいえ、あれだけ敵に囲まれたら、エースもそこまで余裕はないよね」


「やる前はそれなりに余裕ぶってたとこはあるけど、思ったよりもしんどかった。なめてるのはどっちだったんだろうな」


 過ぎたこともあり、エースは笑いながらそう言う。


 何とかなりはしたが、魔導士育成学校にて実力をつけた生徒と戦い続けることは、非常に心身に負担がかかったのは間違いない。敵対してきた生徒が自分の実力をきちんとは知らない、というのは思っていたエースだったが、戦いながら、自身の予測の甘さにも少しばかり泣かされていた。


「ねぇ、フローラ」


「えっ?」


 今まで聞くことに徹していたところに突然声をかけられたフローラが、少しびっくりしながらも反応する。


「フローラも話したいこと、何かない?」


「えっと……」


「2人きりの方がいい、って言うんなら、あたしとスプラヴィーンくんは退散するけど」


「いいよ、そんなことしなくても」


「本当に?」


 セレシアに物理的に少し詰められて、フローラは言葉に詰まっていた。嘘が苦手な彼女は、おそらくは受け答えに困っているのだろう。


 故にしょうがなくはあるのだが、この場面において、沈黙は2人の勢いを加速させる。


「話勝手に進めそうになってたけど、スプラヴィーンくんは大丈夫?」


「もちろん」


「えっ」


 今度は、エースがミストの反応に驚く番だった。


「おま「じゃあ、僕らは先にすぐそこで待ってるね。ヒールとメールもついてきて」


「くるぅ?」


 エースの言葉を遮るような言葉の後、ミストはセレシアと共に、茶塗の扉の向こうへと消えていく。それに、何故かヒールとメールも素直に従ってしまったことで、エースとフローラは校長室に取り残されていた。



 突然2人きりになり、エースとフローラは戸惑うしかなかった。


「いや、いきなりすぎてちょっと困るな……」


「あはは……」


 ミストとセレシアの暴走ともいえる行為に対するエースの苦言に、フローラが愛想笑い気味に返す。


 そのやりとりに、エースは少し懐かしさを感じさせられる。


「でもごめんな。なんか若干置いてけぼり気味で」


「ううん、ずっと聞いてるだけのつもりだったからいいの。見に行けなかったのもあるし……」


「それに関しては、授業があったんならしょうがないと思うけどな」


 数時間前にセレシアに対して言ったものと同じ言葉を、今度はフローラ本人に向けて発する。


 以前懲罰房の中で似たような言葉を言ったエースとしては、彼女が彼女自身の予定を無理やり変更してでもエースの関わる何かに時間を割く行為はしてほしくはなかった。


「うん、分かってる。でも――」


「でも?」


「傷ついた後のあなたを見て、本当にそれでよかったのかな、って」


「えっ……」


 フローラの言葉を聞いて、エースが驚きの表情を見せ、少しだけ空間が沈黙する。


「見た……って、いつ?」


「全部終わった後、担架で運ばれていく時。授業が終わった後たまたまその場面に遭遇して、その時に少しだけ見えたの」


 エースが運び込まれた教師棟の保健室に闘技場から向かうには、確実に高校棟を通る。授業終わりの生徒が見ることの出来る道筋であるため、フローラがその時に見ていること自体は、何もおかしくはない。


「レスタの街で話した時、あなたが自信に満ちた姿でいたからその言葉に何の疑いもなかった。でも、担架で運ばれていく時の痛々しい姿を見たら、本当にそれでよかったのかなって思っちゃって」



――なんで、フローラは負い目を感じているのだろう


 フローラの言葉を聞いて、エースは素直にそう思った。


 色々なことがあったものの、結末は自分たちが望んだ姿で着地できたことは何の問題もないはずだった。


 であるはずなのに、明確に負い目を感じていると分かる言葉を口にしたフローラの姿が、エースには理解できない。


 故に数秒後、疑問は声になった。


「なんで、そう思ったの?」


 ストレートな問いに、今度はフローラが言葉に詰まる番だった。


 少し考えた素振りの後で、ゆっくりと口が開かれる。


「多分……私があなたの大切な人だから」


 驚きの感情が、再び入れ替わる。


 まさかその言葉がフローラの方から出てくるとは、エースは微塵も思っていなかった。


「確かに私は忘れてしまったけど、あなたはまだ大事に思ってくれる。だったら私も、大事な時に見守ってあげた方がよかったんじゃないかな、って」


「そっか」


 フローラが少し申し上げなさそうに言う言葉に、短い言葉で返すエース。


 その後の沈黙の中で、何を言うかを悩んでいた。


 どこか、自分とフローラの感性がずれている気がして――下手なことは言えないという思いが生まれる。


 ただ、それでも、何かを負い目に感じているフローラの、その負い目部分を全部拾い上げて消さなくてはならない。


 自分の中の思いをまとめきった後で、エースは再び口を開いた。


「でも、そうやって君が安心してくれたり、今の君の感性で受け止めてくれるのは、嬉しかったりする」


「……っ!」


「見に来なかったことは、ちょっと残念だった。でも、あれだけ傷ついた姿を見続けさせるのも酷だったし、もしかしたら、君の顔見知りとか、友人の友人とかを殴ったりとかもしてるかもしれないし……これでいいんじゃないかな。後で痛そうにしてたら、その時はマジですまん」


 言葉を重くしないように、少し笑いながらだったり、変に言葉を付け足してみたり。


 今度は蛇行気味のエースの言葉は、少しずつ、その揺れ幅を小さくしていく。


「それに、無事にこうして終われたし、まだ俺はこの学び舎に居られる。細かいとこはまぁ色々あるかもしれないけど、それを話すことが出来るこれから先の時間を作ってくれたのは君のおかげだし、その時点でもう、俺は救われてる」


 もちろん、そこには協力してくれた人がたくさんいることも、エースは忘れていない。


 だが、そんな協力を得ることも含めて、動き始めるきっかけを作ったのはフローラだ。


 身体に傷を負い、いつも彼女に救われて、そしてもう一度立ち上がる――


 今はもう他人である彼女にずっと依存してていいのか、という思いはあったが、今はひとまずその厚意に浸ることにしていた。


「俺のことを支え続けてくれて、ありがとう」


 感謝の言葉を、エースは面と向かって口にする。


 目の前にいるフローラは、少し驚いた表情の後に、自然な微笑みを作っていた。


「ふふっ。私の方こそ、励ましてくれてありがとう」


 互いに交わした感謝の言葉が、心に染み入る。


 自身の残した悔恨にも決着がつき、全てが終わったことを、エースは今一度実感していた。


「じゃあ、帰ろうか。もうめちゃくちゃ遅いし、きっと君の両親も帰りを待ってるから」


「うん。そうだね」


 そうして、エースとフローラは、茶塗の扉を開けて、校長室を出る。


 そこそこ暗い廊下では、先に出ていたミストとセレシアが、エースをここに連れてきていたパードレを会話をしていた。エースとフローラが3人の元に着くと、少し意外そうな表情で出迎えた。


「ん、もういいのかい?」


「別にこれで最後じゃないしな。夜も遅いしさっさと帰って、また話せばいいかって。な?」


「うん」


 エースの言葉にフローラがうなずく。


 そのやりとりを皮切りに、皆の足が同じ方へと向いた。


「んじゃ、帰ります」


「おう。気をつけて帰れよ」


 パードレの見送りを背に、4人は帰り道に足を乗せた。


 それは、いつかの日々が戻ってきたかのように、4人揃っての、のんびりとした帰り道だった。



 止まっていた時間が少しずつ、確かに未来へと動き出していく。




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