第15話 言葉が針を動かして



 喧嘩騒ぎから3日後。今日もまた、エースは屋上にいた。


 否、ここに来るしかなかった。行きたい場所に向かうことも出来ずに、しかし閉じ込められることを拒むように、空に最も近い場所にいた。


 転落防止用の柵にもたれて、空を眺める。その景色の中にある何かに意識を向けることはなく、ただ視線を泳がせていた。


 当然ながら、喧嘩騒ぎを起こした次の日からエースは自宅には戻れていない。寮の一角、教師が泊まっているその横の部屋で必要最低限の物品だけ持ち込んで寝泊まりをしている。


 三食を取ることも授業に出ることもでき、学校の敷地内であれば行動の制限はさほどされない。そんな、場所の制限を除けばそこまで行動を制限されない処罰も、折り返し地点をようやく過ぎた。


 だが、ずっと敵地に放り込まれているに等しい状態のエースは、精神的にギリギリのところにいた。



 2回分の寮での寝泊まりを含めた喧嘩騒ぎから今までの間、ずっと誰かに見られている感覚が抜けず、後ろから指を向けられて何かを言われている気分になっていた。別に何ともなかったはずのものが、今はエースの精神を少しずつ削り取っていった。


 自分が蒔いた種なのは、もう痛いほど分かっている。自責の念にも苛まれた。


――もう、勘弁してくれ



 これまで一度も気にしなかった自分の立ち振る舞いを、エースはこの3日間で始めて悔いた。


 他の面々のように、可能な範囲で明るく優しく振る舞えば、今回みたいなことにはならなかったのかもしれない。と同時に、そう振る舞うのは自分には無理だとも思ってしまう。


 幼い頃――両親を失った後の自分は、純粋に強くなりたいという思いが強すぎて、尖っていた部分はある。当然エースにはその自覚があり、もしそれが第一印象になっているのなら、今の結果も、なるべくしてなったのか、と考える。


 もしかすると、その後に多少は変化した立ち振る舞いも、良くはなかったのか、と思ってしまう。


 好意には好意を、悪意には相応の態度を。敵を作ることを厭わず、真っ直ぐであり続けることを、これまでは間違いだと思わなかった。皆に好かれる、ということが不可能であることを幼少期から理解していたエースが、自分によくしてくれる人には、と考えるのは、飛躍した思考では全くない。


 損得勘定や善し悪しが先に来てその後に感情が考慮されるのも、人とやりとりする上ではよくない――


 マイナスに振り切った思考回路が、エース自身に生き様や在り方を否定させるほどに、エースは追い込まれていた。




 そんな、屋上でエースが1人佇んでいる最中に、屋上の扉が開く音がした。


 金属の軋む音の後、固い床によって生み出される乾いた足音は、確実にこちらに向かっている。もう1人にはなれないことを理解して、立ち去るためにエースは向きを変える。


 そしてこれまで背にしていた方向が正面になった時、視界に入った人物を見て、少しだけエースの目が見開かれる。


「やっぱりここにいたんだ」


 そんな静かな声と共に、エースの目の前に現れたのはセレシアだった。クリーム色のサイドポニーを風になびかせて、そこに立っていた。


「どうして、ここが……」


「スプラヴィーンくんに聞いた……のもあるけど、君が今来そうなの、ここしかないんじゃないかなって」


 セレシアの推測には、全く間違いはない。


 校内で1人になろうと思ってなれる場所は、屋上くらいしかない。休憩中だとそうもいかないのだが、授業中ならば高い確率で人がいないため、簡単に1人になることが出来る。


「何か用?」


「フローラが、君のこと探してた」


 想像もしていなかった言葉を投げられて、エースは驚きのあまり言葉を音にするのを忘れそうになった。驚きが表情に現れてから少し遅れて、問い返しの言葉が音になる。


「どうして……」


「そんなの、あたしにも分からないわよ。だって、あたしもなーんにも聞いてないし」


 細々とした問いにあっさりと反応されて、エースは何かを言うことは出来なかった。


 何も知らないのだから、答えられないのは当たり前だった。また、理由を自分で考えるしかなかった。


「今更俺に会おうとする理由なんて……」


「あるから、会おうとしてるんじゃないの?」


 至極当然な、セレシアの指摘。理由があるから、会おうとする。拒むべきだという思いと、会いたいという思いが混じりあい、エースに言葉を作らせない。


「知りたいなら、会って話せばいいと思う」


「それが出来たら……」


「少なくとも、フローラは会おうとしてくれてるよ」


 セレシアから飛んでくる言葉は、中身もテンポも、エースの言葉を否定するかのようだった。


 あまりにも軽く聞こえるそれが、エースはどこか苛立たしかった。不満は顔に現れ、口は少し硬めに結ばれる。


「会いたくないなら、それでもいいよ」


「っ……」


「だけど、それならあたしにでもいいからそう言って。どっちか分かんなきゃ、何も出来ないから」


 返答に困るエースに、セレシアからの言葉は続いていた。


 声色は優しく、言葉は適度に鋭い。どっちつかずのエースに、それは確かに刺さっていた。


「……分かった」


 合わせる顔など全くない。だが、恐らくはこのままだとやりとりは並行線を辿ることになる。


 そうなれば、エースの中には、従う以外の選択肢はなかった。


「会えばいいんだろ?」


「うん。そうだね。会って話してくれれば、あたしはその先は気にしない。その先をどうするかも含めて、決めるのは君とフローラだから」


「なら……呼んできてほしい」


「分かった。ここで待っててね」


 了承の返答を、困惑したままで返すエースを残して、セレシアが屋上から去っていく。


 風吹く屋上に、しばらくの間エースは1人だけ取り残された。


 醜態をさらした自分に、何故会おうとするのか、エースにはやはり理解できなかった。


 フローラの方には、メリットなど何もない。むしろ積極的に会おうとすることで、周囲に悪評を広められてしまう可能性も存在している。損得勘定だけで考えるべきではないことは分かっているが、それでも、かなりリスキーな行動であることに違いはない。


 こうなれば、彼女の安全のために、煮え切らないエース自身がはっきりと関係を断つように動くべきなのかもしれない――欲しがっていた、細い糸の先に続く未来の可能性を捨てることを、エースは少しずつ、考え始めていた。




 それから数分後、時は来た。


 扉が開かれる音。その数秒後から響く足音。


 その姿が目の前に現れた時、エースはこの時間が、夢かと思ってしまった。


「スプリンコートさん……」


「こんにちは、フォンバレンくん」


 セレシアと同じクリーム色の髪を少し風になびかせて、フローラはそこにいた。声色も、前に聞いたものよりも少し明るく聞こえる。


「突然ごめんね」


「いや、別にいいんだけど……どうしてここに?」


「あなたと話がしたかったから」


 その言葉を聞くのは、何度目だろうか。


 毎回同じ言葉で、毎回違う声色。そんな言葉は、今のエースには疑問の種でしかなかった。


「話なんて、またレスタの街に行けば出来るじゃないか」


「それまで待てない。遅いかもしれないから」


「遅い……?」


「そこまで待ってたら、あなたの心が、崩れちゃうかもしれないから」


「大丈夫だよ。だって――「大丈夫じゃない」」


 エースの弁明を、フローラの声が遮る。


 記憶があった時ですらほぼなかった遮る言葉に、エースは続きを引っ込めて驚きの表情を作っていた。


「大丈夫じゃない。大丈夫だったら、あんなに苦しそうに言わない」


 フローラの指摘に、間違いはなかった。


 どんなに取り繕ったとて、言葉に感情の色は出る。それを、フローラは感じ取っていたようだった。


 反論も出来ずに、エースは口を閉じていた。


「あのね、あなたのこと、少しだけレイラさんから聞いたの。レスタの街で過ごしてた頃の、あなたのこと」


「えっ……」


 フローラの独白に、エースは言葉に詰まらされる。同時に、音に出来ない『どうして』が脳内を駆け回る。


 その答えは、エースが問いを音にする前に、フローラの方から語られた。


「私は、あなたのことを忘れてしまった。だから、何をしてあげればいいかすぐに分からなくて、それでレイラさんに話を聞いたの」


 行動の理由は、答えを聞いても分からない。


 だが、推測ならば出来る。


 決心するまでに時間はかかるが、決心したら行動を起こすのは早い。フローラのそんなところを、エースは不意に思い出す。おそらくは、エースの知らないところで何かがあり、それを経てフローラは動くことを決めた――そんなところだろう。


「でね、話を聞いた後、色々考えて……結果出来たのは、これ」


 エースに向けてフローラが差し出したのは、6つの便箋だった。差出人の書かれていないそれを、エースはただ見ていた。


「こっちは孤児院の子供たちの分をひとまとめにしてあって、これはシエスタさんとレイラさんの分。全部、あなたへ向けて書いてくれた手紙」


「えっ……?」


「シエスタさんとレイラさんに頼んで、子供たちと一緒に感謝のお手紙を書いてもらったの。子供たちには中身は伏せたけど、話したら、みんな心配してくれてたよ」


 差し出された手から、エースは手紙を受け取る。


 その場で1つを開けて取り出すと、絵と文字が散りばめられた手紙があった。


 文字を書ける子は、しっかりと。書けない子は、文字の代わりに絵を用いて。


 子供たちが一生懸命に書いたのが伝わる手紙が、そこには入れられていた。


「どう? みんな、あなたに感謝してるの、伝わった?」


「……」


 エースの声は、音にならなかった。


 フローラの言葉の裏付けは、渡された手紙を読めば問題なくとれる。


 エースが戸惑っていたのはそこではなく、そこに至るまでのフローラの行動の理由だった。


「どうして、そこまでしてくれるんだ……?」


「私が見たあなたを、信じたかったから」


 すぐに返ってきた答えを聞いて、エースはまた驚き、意味の掴めない言葉に戸惑う。


「私は、あなたが学校で言われてるような人間に見えない。何も話してくれないし、1人で全部抱え込もうとしてるのは気になるけど……でもそれは、きっとあなたが優しいからだよね」


 フローラの言葉は、今のエースには良く言っているようにしか聞こえなかった。


 上手く声を出せず、しかし否定の意を伝えるために、エースは首を横に振っていた。


「うん。違うのかもしれない。だけど、私には、本当にそうかは分からない」


 その否定を肯定も否定もしない、フローラの言葉。優しさを形にしたその後に、彼女の言葉は続いていく。


「優しくて、我慢しがちで、責任感が強くて、人のために無理して、大丈夫じゃないのに、大丈夫だって言う――そんなフォンバレンくんしか、私は見てないし、聞いてない。だって、記憶はなくなっちゃったから」


 続く言葉は、同じように優しさを具現化していながら、完全にエースの反論を潰しに来ていた。


 何も言わせず、しかし確かに擁護する言葉。自身を否定する言葉を挟む余地すら与えられない状態で、エースは音を発せない。


「だから、あの日――大襲撃事件の日に、あなたがどんな思いで動いたのかも、私には分からない。だけど、セレシアも、スプラヴィーンくんも、私も……みんな、あの日のあなたのお陰で救われたのは、見えないだけの事実なんだろうって、そう思う」


「それは……」


 確かに、フローラの言葉通り、見えないだけの事実ではある。


 だが、エースは首を縦にも横にも触れなかった。否定をするつもりはないが、肯定も出来ない。口にするのも何かが違う気がして、黙り込むことしか出来なかった。


「遅くなってしまったけど……間違いじゃないなら、今の私に、代わりに言わせてください」


 かしこまるフローラに、エースは少し戸惑いながらも向きを正す。


「あの日の私たちを救ってくれて、ありがとう」


「あ……」


 その言葉を聞いた瞬間、エースは体から、何かが剥がれ落ちた気がした。漏れないように、零れないようにと、固めた何かが、静かに剝がれて、そして消えていく。


 同時に、心の中に巣食っていた感情も、少しずつ溶けていく。柔らかな言葉に、抱えていたものが軽くなり、表情が緩む。肩の力も抜けて、張りつめていたものは、もう欠片も存在していなかった。



 手紙を持ったまま、エースはフローラの目の前で、ボロボロと泣き始めた。


 止めようと思っても、抱えていた感情が制御を奪い去り、押し流していく。手紙を濡らさぬように、などという細かい配慮も出来ずに、大粒の涙がエースの頬を流れていく。


 しばらくの間、フローラはエースの姿を優しく見ていた。





 あの日が過ぎて、結局誰からも、貰うことの出来なかった感謝の言葉。当時はそれを欲しがったつもりはなかったが、心のどこかでは、それがないことに多少なりとも傷ついていたのかもしれない。


 自分の行動も、決断も、間違いじゃなかった。だって、自分は間違いなく全てを救ったのだから。


 1人だけ全てを知った上でそう思い続けることに、限界はあった。


 その限界を無限に伸ばす、フローラの言葉。ああ、この言葉が欲しくて、あの時頑張ったんだな――エースには、そう思えていた。


 そして、あの日からずっと欲していた言葉をようやく貰えたことで、エースの中での大襲撃事件が、ようやく終わりを告げた気がしていた。





「「くるる~!!」」


 泣き止みかけたエースの耳に届くのは、空から響く、鳴き声が2つ。


 青空に紛れながら、2つの影がエースを目がけて飛んでくる。



「ヒール、メール……」


 いつの間にか少し大きくなっていた2匹が、今エースの前に姿を現している。


 これまで全く姿を見せなかったのが嘘のように、今までのように、エースの周りをくるくると舞っている。


 きっとそれは、エースが本当の意味で、立ち直ろうとしているからだろうか。


「うん。きっと大丈夫だ。なんだか、そう思える」


 今までよりも曖昧で、今までよりも自然な『大丈夫』の言葉。


「信じてもいい?」


「ああ。本当に大丈夫だ」


 意識しなければ出来なかった笑みも、声も、自然に出せる。


 自分に言い聞かせるのではなく、他人に伝える『大丈夫』の一言が、そこにはある。


「俺自身も気づかなかった、本当に欲しかったものを、1つもらえたから」


 まだこの先に、自らが残した悔恨も償いも残っている。


 それでも、きっと切り開いて行けると、エースにはそんな風に思えていたのだった。


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