第6話 残り香はそこに



 少し時間を戻して、夕陽が空を橙に染め上げた頃。


 レスタの街の薬屋の裏戸口が開かれ、中からフローラが出てくる。その奥、戸を隔てて家屋の中には、レイラが立っていた。


「今日もありがとうございました」


「はいよ。また次もよろしくね」


「はい」


 レイラの見送りを背に、フローラは石畳の道を歩き始めた。戸が閉じられる音は、数歩進んだだけでは聞こえてこない。


 そもそもの話として、フローラは自身が帰路につく際に、戸が閉じられる音を聞いたことがない。戸の開閉の音が消えるほどの音があるわけでもないので、おそらくは、姿が見えなくなるまでレイラが見送ってくれているのだろう。仕事の合間でもきちんとした見送りをしてくれることに、フローラは頭が下がる思いだった。


 そしてそれは、フローラがこの薬屋で働き始めた時から、ずっと持ち続けていた思いでもあった。


 今の時間は、夕日の橙色の煌めきこそあるものの、人々の昼間の営みが終わるにはまだ早い。


 だが、このレスタの街は、フローラの自宅があるナトゥーラの街からはやや遠い。学校の最寄り駅を超えてさらに2駅分なので、それなりの距離を移動する必要がある。そのため、人々の営みが終わる時間に合わせていると、ナトゥーラの街に戻る頃には夜の帳が降りてしまっている。


 もしもそうなるのであればしょうがないと腹をくくり、ダメ元で移動に余裕を持たせるために本来の時間よりも早めに仕事を終えることを頼んだところ、レイラはそれを快く許してくれていた。当時、あまりにもあっさり通ってしまったことで驚いたのを、フローラは未だにぼんやりと覚えている。


 フローラにとって、それを許してもらえるというのは非常にありがたい話だった。薬屋で働くという名目ならば、ナトゥーラの街にはもちろんのこと、学校の最寄り駅までの間でも1つや2つはある。そういった生活区域の範囲内ではなくこのレスタの街の薬屋を選んだことにはもちろん理由があるのだが、それを、フローラはレイラには言っていない。


――フォンバレンくん、まだ孤児院にいるかな……?


 フローラが唯一関連する記憶を全て失くしてしまった少年――エース・フォンバレン。彼がこのレスタの街にいることを聞いて、フローラはこの街の薬屋で働くことを選んだ。故に、今日レイラがエースの育ての親であることを知るまでは、全く関係のない理由だったため言おうにも言えない理由だった。


 知ったきっかけはミストに聞いたから、というものだったが、7月の長期休暇突入の直前にそれを知り、すぐにレスタの街を訪れて今の薬屋に挨拶をしたことを覚えている。理由も曖昧なままで快く許してくれたことに、フローラは感謝してもしきれなかった。


 その直後から孤児院に来始めた上、薬屋自体が孤児院の管理人であるシエスタの実家であるため、シエスタともそれなりに顔を合わせている。孤児院に関係する人物で、フローラが孤児院に来ていることを知らないのは、エースだけだった。


 とはいえ、今日の出来事はフローラにとっては大小さまざまな驚きの連続だった。エースがこの街にいることは知っていたが、まさか孤児院来訪で彼に出迎えられる、ということになるのは想像していなかった。エースほどではないにしても、想定外の状況に数秒間驚きで思考回路を動かせなかったのは事実だ。


 そしてレイラがエースの育ての親であることを知った時、もしかすると何かに引き寄せられているのかもしれない、と感じた。


 『彼のために』という思いは、記憶を失くす前の自分と比べれば確実に薄い。今は本当の事が知りたいという思いと、エースのことが心配という思いの2つが大部分で、そこに義務感が少しある、という感じだった。


 それでも、今のフローラもまた、エースのことが気になっているのには間違いない。


 エースの隣で歩くことが出来るかどうかは分からない。けれども、エースがどれほどの思いを抱えているのかを、本人の口から聞きたい。そういう思いで、フローラはエースと繋がろうとしていた。


 故に今日だけは、フローラの足は真っすぐに駅に向かうことはなく、向かっていたのは朝にも来訪した、エースがいた孤児院だった。もしかすると会って話ができるかもしれない、という少しの望みに賭けて、フローラは行き先をこの場所に向けていた。



 夕陽に照らされている孤児院の建物は、質素ながらもきれいだった。フローラはその扉を軽くノックして、ゆっくりと開けた。


 朝に訪れた時とは同じ場所と思えない程に、今の孤児院は音が少なかった。ひっそりとした空間に、これ以上音を出すことがためらわれるほどだった。


――誰もいないのかな……?


 そう思ってしまうほどの静けさでは、流石に声を出すのもはばかられる。


 賑やかさの欠片もない光景は、フローラに『エースはここにはもういない』と推測させる。そうなればもう用はないと、フローラが再び帰路に足を乗せようかと思った時だった。


「あら、フローラさん。こんにちは。どうかなさったんですか?」


 そんな声とともに、廊下の奥の方から、シエスタが顔を覗かせていた。帰ろうとした矢先のことだったために、フローラは一瞬だけ言葉に詰まる。


「えっと……フォンバレンくん、まだいますか?」


「エースさんなら、少し前に帰ってしまわれました。何か御用だったんですか?」


「あ、いや、大したことではないんです。大丈夫です」


 理由がないと言ってもおかしくないほどに薄っぺらいものであるが故、フローラは口にすることをしなかった。


 だが、その後で足を三度帰路に向ける前に、次の言葉がフローラに向けられる。


「フローラさん。少しだけ、お時間ありますか?」


「えっ?」


 シエスタからの急な誘いに、フローラは反射的に問い返した。


「ちょっと聞きたいことがあるのですが……。大丈夫ですか?」


「えーと……」


 シエスタの表情や雰囲気からは、深刻さは感じ取れない。単純に何かを聞きたいのだろうと考えられる。


 だが、時間はそこまであるわけでもない。薬屋にいるレイラに早く帰らせてもらっている意味がなくなってしまうことが、フローラの中での引っかかりだった。


 しかし、それは娘であるシエスタにはお見通しのようだった。


「薬屋のことを気にしているなら大丈夫です。別にお母さん、そこまで厳しいわけじゃないですから」


「えっ、でも……」


「厳しいのはやるべきことをやっていなかった時だけです。それさえやっていれば、別に何も言いませんよ」


 娘であるシエスタからの発言となれば、説得力は十分。加えてフローラの側からも質問が出来るかも、と考えて、フローラは承諾していた。


「なら大丈夫です」


「はい。じゃあ、ついてきてください」


 シエスタが先ほど顔をのぞかせた方へと戻っていく。その後ろをついて行きながら、フローラは改めて朝の来訪時との違いを感じていた。


「朝とは違って、静かですね」


「日中の疲れでみんな寝ています。エースさんと遊んだり、買い物に行ったり、楽しかった時間の反動がこの時間によく出るんですよ」


 そんな会話をしながら着いたのは、テーブル1つと椅子が数個だけある小さな部屋だった。


「ここは応接室兼私の日中の居場所です。最も、エースさんがいる時はエースさんが使うので、奥の部屋にいる時もあるんですけど」


「もしかして、さっきいたのもここですか?」


「はい。ここからなら、仮に悪い人が玄関から侵入しても、先に私が気付けます。最も、人々の交流が活発なレスタの街では、そういうことはあまりないんですけどね」


 シエスタの言葉を聞きながら、フローラは部屋についている小窓に視線を向けていた。確かに、部屋からは玄関口が簡単に覗ける。


「それで、聞きたいことって、何でしょう?」


「エースさんのことなんですけど……」


 シエスタの口から出てきたエースの名前に、フローラは少し驚いていた。


「どうして、私に?」


「今のエースさんが、外でどんな生活をしているのかな、って少し気になって」


 シエスタから出てきた、聞きたいことの中身に関して、フローラは申し訳なさそうな表情をするしかなかった。


「ごめんなさい。おそらく、私には何も答えられません」


「どうしてですか?」


「私、覚えていないんです。フォンバレンくんのこと、何もかも」


 シエスタからの素朴な疑問に、フローラは答えを返す。


「私も彼も中等部から見知ってるはずで、私とよく話す人とフォンバレンくんにも交友関係があるのに、不思議なくらい何も覚えてないんです。だから、私からは何も出せないんです。ごめんなさい」


「いえいえ、気になさらないでください」


 フローラの軽く気落ちした様子に、シエスタが慌てて慰めの声をかける。


「でも、朝の会話では全然そんな風には見えませんでした。結構見知っていそうな感じでしたけど……」


「そうですね。私もちょっと、驚いています」


 フローラにとって、エースが自分のことをあくまでも一他人のように会話をしていることが、むしろ怖かった。関係の再構築をしようとするものだと思っていたが故に、この4ヶ月のエースの行動は、ほぼ予想外だった。


「あの……私の方からも、質問いいですか?」


「全然かまいませんよ」


「ここでのフォンバレンくんって、どんな感じなんですか?」


 フローラの口から出たのは、シンプルな質問だった。


 エースの現状を知るために、孤児院での彼の様子をぼんやりとでも知りたい。身を案じるが故に、出た問いだった。


「孤児院のことを手伝いつつ、一緒にいる子供たちを上手くコントロールしています。子供たちからすれば、話聞いてくれたり、遊んでくれたりして頼りになるお兄ちゃん、なんじゃないですかね」


「すごく、頼もしそうですね」


「そうですね。いつも助けられています」


 学校の様子とは違う姿に、フローラの心に安心感が生まれる。孤児院では、何の引け目もなく、自然体で過ごしているのかな、という風に考えていた。


「お話とかも、フォンバレンくんはたくさんするんですか?」


「お話は……あんまりですかね。エースさん、ほとんど何も話さないので」


「えっ?」


 シエスタのこの言葉は、フローラの心の中に生まれた安心を包むように、不安を生み出していた。先ほどの考えも、一瞬で吹き飛んでいた。


「誤解を招かないように言うと、エースさんの方から食べ物とかの好みの話とかはされます。だけど、学校に通われていること以外の、普段どう過ごしているのか、などの情報は私も子供たちも一切知りません」


「そうですか……」


 フローラの中に生まれた不安は、言葉を重ねたことで大きくなっていた。


 出力する場所を持たない、ということは、エースの中に抱えられた感情は、ずっとエースの中にあり続けることになる。今の学校での状況によってついた傷が、ここでの生活で多少なりとも癒えているのであれば問題ないが、無理して平常を装っているのであれば、むしろ逆効果。


 仮に、過ごす全ての時間によって常に大小の傷が心につき続けているのであれば、エースはそう遠くないうちに限界を迎えるのではないか、という不吉な予感は、フローラの頭の中にすぐに出来上がる。


 とはいえ、ここで得られる情報だけでは、フローラもどう動いていいか分からない。何かアクションは起こさなければならないが、そのアクションも、場合によっては逆効果になることを考えると、むやみには動けない。



 そんな風に考えていたフローラに、シエスタからの言葉が飛んでくる。


「もし、フローラさんが、エースさんのことを知りたい、っていうのであれば、私よりもお母さんに頼ってみるのがいいと思います」


「えっ?」


「エースさんがここで過ごしていた頃の長なので、育ての親になります。可能性がないわけじゃない、くらいの話ですけど、もしかしたら、お母さんになら何か話すかもしれませんし、そうでなくとも、ちょっと有益な情報も得られるかもしれません」


 思ってもみない、助け船。その中身は、確かに、と瞬時に思わせるほどに、力強い。


「フローラさんの移動のこともありますし、日が暮れてない今のうちに行ってきたらいいんじゃないでしょうか」


 シエスタからのもう一押しは、フローラを少し揺らがせた。


 シエスタの助言の通りに動けば、確かに何かは得られるかもしれない。


 しかし、先ほど別れを告げて、今度は完全に私的なことで再度の来訪となると、流石に迷惑ではないか、という考えがフローラの頭を過る。そのせいで、フローラはすぐには動けず、黙ってしまっていた。


「大丈夫です。お母さん、頼まれごとには弱いので」


「え?」


「力を貸してほしい、と言えば、何とかしてくれます。いつも薬屋に力を貸してくれているフローラさんなら、渋ることなんてそうないと思いますよ」


 今日二度目の、娘たる立場からの助言。薬屋に戻ることに対しての迷う要素は、フローラの中にはなくなった。


 しかし、それ以外のところで、戸惑いを隠せない要素が、1つだけ残っている。


「どうして、私にそんなことを……?」


「フローラさん、なんだかエースさんのことを善意で知ろうとしてる感じがしたので。私の思い違いかもしれませんけどね」


 フローラがエースに関する話をしたのは今朝と先ほどのやりとりの2回。


 分かりやすい行動だったことは間違いないが、それでまさか助言まで貰えるとは、フローラは全く思っていなかった。


「じゃあ、またお言葉に甘えて……行ってきます」


 ここまでしてもらっては、何もしない方がかえって失礼な気がしたフローラは、決心するようにそう言った後で、席を立っていた。シエスタはその行動に、微笑みを見せていた。



 その後、フローラが部屋から出ようとするところで、シエスタから声が飛んだ。


「あっ、フローラさんに1つ言い忘れてました」


「なんでしょう?」


「次は来週月曜日に来るそうです。フローラさんも、お待ちしていますよ」


 中身を問いながら振り返るフローラに対し、投げかけられたのは、主語のない来訪予定。


 それが誰の来訪なのかは、今は言わずとも分かった。


「ありがとうございます」


 フローラは一礼した後に、孤児院を出る。外には、鮮やかな夕暮れ時の空が広がっていた。


 その下、段々と静かになっていく街の中で、フローラの歩みは、先ほどまでいた薬屋に向けられていた。


――何もしないより、やってみよう


 その表情には、先ほどまでなかった真剣さが宿っていた。


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