第5話 言えず、進めず、逃げられず



 孤児院で、賑やかで心温まる時間を過ごした後。


 制服に着替えたエースは、列車に揺られて、学校の最寄り駅まで戻ってきていた。



「はぁ……」


 口からは、大きめのため息がこぼれる。


 鮮やかな夕陽の橙が際立つ空の下、エースを駅の入口横に置かれたベンチに押しとどめているのは、心の中の憂鬱な気分。人の行き交う道の姿を、エースはただぼんやりと眺めていた。


 楽しい時間が過ぎた後の、虚しさだけが残る一時。思い出は相応の輝きを放っているはずなのに、それが霞むほどの虚ろな感覚。それは間違いなく、後に残された義務が原因だった。


 平日の授業のある時間中での行動は、その全てを学校に報告する必要があり、そのためには学校に一度戻らなくてはならない。居心地が最悪な場所にどうしても行かなければいけないと分かっていて、それでも腰を上げられないのが、エースの今の状況だ。


 学校よりは居心地がいいこの場から離れることは、エースには出来なかった。駅周辺ならば生徒がいる可能性は低く、道行く人も無関心であるが故に、多少は気が休まる。



 気づけば、空は灰に橙を差した状態になっており、近くの街灯の明かりがより際立ち始めている。行き交う人の数も、長め始めた頃より少し減り、陽気に満ちた営みの終わりが近づいてきていた。


「しょうがないか……」


 吐き出すように言葉を口にすると、エースは重い腰を上げた。


 後ろ髪を引かれる思いも、今抱えている憂鬱気分も、おそらくは家に帰るまでは残ったまま。どう頑張っても消せないなら諦めよう、と自分自身を無理やり言い包めながら、その足を学校への帰路に乗せる。


 歩みはゆっくりで、小さい。まるで綱渡りをしているかのように慎重で、臆病な足取り。それは、エースにとっての苦痛な時間を少しずつ引き延ばしていく。


 家が学校と同じ進行方向にあるため、逃げたい、という感情は、なくはない。だが一度でも逃げれば、おそらくもう後戻り出来ない。甘い誘惑にずるずると引きずられて、そのまま何もなくなる。フローラとの関係性だけでなく、将来の夢と公言したものも、捨てなくてはならなくなるのだ。


 魔導士育成学校の教師になるためには、魔導士育成学校を卒業することがほぼ不可欠なのだ。本当に稀にそうでない教師もいるが、その場合はさらに狭き門を潜る必要がある。それほどに狭い門を潜ることが出来る、という楽観的思考は、エースは平常時でも持ち合わせていない。


 そのため、教師になるには、嫌でも学校に戻り、今日の行動を報告しなければならない。報告を忘れてしまうと、登校日数を1日減らしてしまうことになる。授業の出席日数は授業に出ていれば問題ないが、卒業の要件に含まれているのは登校日数と出席日数の両方である以上、嫌でもこのルールを守らなくてはならない。


 依頼も、このような外出も、前後の届出と登校をしているからこそ問題なく認められている。ルールの範囲内で逃げることを許されている現状を続けるために、憂鬱な気分を抱えたままでも、エースは少しずつの前進を重ね続けることを選んだ。




 だがそれも、長い道のりの終盤、サウゼル魔導士育成学校の校舎がはっきりと見えてくる道に差し掛かったあたりで、ぴたりと止まった。


「……なんで、俺は」


 そこまで言って、続きの言葉を発しようとして、エースは口を閉じた。



 吐き出した言葉に、続けたい台詞は確かにあった。


 しかし、吐き出したところで、何にもならない。答えがないことも分かり切っている。言えば言った分だけ虚しくなると分かっているのなら、今したところで重い足をひきずれなくなるだけだと、エースはそう考えていた。



 その後、色づきかけた街路樹を右手に進むこと数分。


 エースは、学校の校門を抜けて敷地内へと入っていた。校門から見える時計に目を向ければ、直近の授業が終わった後の時間を差している。


 終わった後の生徒と鉢合わせる可能性は、非常に高い。遭遇を回避することは無理だと諦め、エースは心を固めた。



 感知ドアを抜けてエントランスエリアまでたどり着くと、エースの想像通り、授業終わりの生徒が複数人歩いている。


 そして、その一部が、エースの姿を認識した途端に容赦なく鋭い視線を突き刺してくる。まるで示しあっているかのようなその動きが、エースには気味が悪く感じられた。


――そうまでして許せないのなら、生徒会を使うなりしてでも退学を訴えればいいだろうに


 もしかすると水面下ではエースを退学させようという何かしらの動きがあるのかもしれないが、それをエースが事細かに知る術はない。加えて、エース側に明かせない情報が多すぎて、下手に反論が出来ない以上は、視線に耐えながら黙秘を貫くしかなかった。


 そんな、自分ではどうしようもないいくつもの視線については考えることを止め、エースはエントランスエリアを左に曲がった後、高校棟の廊下を直進した。


 エースの目的地は、高校棟の1階、事務室の横に存在するリクエストルームだった。そこは基本的には魔導士育成学校に集められた依頼の窓口や処理が主な仕事だが、生徒の課外活動の報告窓口も担っているのだ。


 故に、エースはレスタの街から帰ると、必ずここに来る。特別な中身があれば先に教師棟3階の校長室に行き、パードレに何かを報告することもあるが、今日は報告すべき話題もないと考えていたため、文字通り真っ直ぐ向かっていた。


 リクエストルームの扉を開けてすぐに左に曲がると、いくつかの机が綺麗に並べられた場所がある。報告用の書類を作るために作られた筆記スペースであり、エースはその一番奥の席を使って、早速書類の作成を始めていた。


 と言っても、書き留めておく項目に特別なものはない。自身の名前、学年、時間帯、行った場所とその中身をある程度事細かに書けば、提出書類としては成立する。


 エースはあまり事務作業的なものは好きではなかったが、決まり事である以上は、愚痴を零すこともなく黙々と書いていた。行った場所の欄に、朝の出発時刻、移動経路、学校への到着時刻などを事細かに記し、そのすぐ下に詳細の記述欄として確保された大枠には、行った先で何をしていたかを簡単に書いていた。


 ただそれだけの作業なので、かかった時間は10分程。そうして出来上がった書類を持って、リクエストルーム奥の窓口に向かうと、エースはそこにいる女性に、ガラス越しに声をかけた。


「すみません。書類の確認をお願いしたいのですが」


 そう言いながら、エースは今日の窓口担当の女性に書類を渡す。


「不備の確認をするので、少々お待ちください」


 窓口担当の女性は、エースの書類を受け取ると、そう言って書類に目を通し始めた。


 不備がなければ、提出自体は問題ない。正式な受理の前に教師の確認があるものの、その確認は少なくとも今日の内には行われない。


「書き忘れなどはないようなので、このままこちらで預かります。確認後、何かあれば先生たちから連絡が来ますので、その時はお願いします」


「分かりました。ありがとうございます」


 何も不備がなければ、窓口の女性との事務的なやりとりはこの時点で終わる。最後に軽く一礼し、足元に置いていたカバンを拾い上げると、エースは窓口から離れ、そのまま廊下に出た。


 この日学校で行う作業が終われば、この校舎にも用はない。ようやく家に戻れる、と少し過剰だった肩の力が抜けたエースは、先ほどきた道を逆向きになぞっていた。




「やぁエース」


 今まさに帰ろうとしているエースに、背中側からかけられる声。


 振り向けば、そこにいたのは荷物を持って帰路につこうか、という状態のミストだった。並び立ったところで、自然と歩みが再開される。


「帰りが一緒になるなんて珍しいね」


「そうだな」


 ミストの言葉に、エースは短く返す。


 ミストがわざと一緒になるような行動をする人間ではないので、言葉通り珍しいことではある。だがそれにエースが何か言葉を付け足すことはせず、ただ肯定するだけだった。ミストも、それに何か言うことはなかった。


 そうして一度切られた会話はそのまま捨てられ、生徒玄関を出て、これから校門を出ようかというところで、新しく会話が始まる。


「今日は何かあったかい?」


「マザーに会ったよ。相変わらずだった」


「そっか。相変わらずなんだ」


 エースの言葉を聞いて、ミストの表情にも懐かしむ感じが見られる。


「場所とか変わってないなら、僕も久々に会いに行ってみようかなぁ」


「いいんじゃないか? 俺よりも長い間会ってないわけだし」


 ここ数ヶ月で何度もレスタの街に行っているエースとは違い、ミストは孤児院を出た後は一度もレスタの街に行っていない。レスタの街の現状は時折エースの言葉伝いで知ることが出来るが、やはり直に見たいと言う思いもあるらしい。



「ああ、あとはスプリンコートさんに会った。どうやら、マザーのところで働いてるらしい」


「へぇ、世界は狭いもんだね」


「だな。偶然もあるもんだ」


「本当に偶然かどうかは分からないけどね」


 エースの出した『偶然』という単語に、少しわざとらしくミストが反応する。


「偶然だよ。偶然でいい」


 それに対して、半分ほど願望が混じった言い方で、エースが言葉を零す。


 フローラが何かを思ってくれて動いているのならば、それはそれで嬉しい話ではある。だが、エースは今の自身を取り巻く事情に深入りされる可能性があることを、よくは思っていない。


 エースに関連する記憶がなくなったとはいえ、見聞きした情報があるためゼロではない。加えて、フローラ自身に何か変化があったわけではない。いつもの優しい彼女から変わっていないことを考えると、下手に事情を知ってしまえば、きっとフローラはエースに肩入れしようとする。


 周囲の悪評を耳にしても接しようとするフローラの姿を見ると、エースにはそう思えてしまい、エースの口から何かを話すことが出来なかった。知っていることを話してしまえば、それが真だと分かってしまう。


 曖昧なままにしておけば、フローラもきっと動けない。今のままで彼女を守れるのであれば、エースは隠し通すつもりでいた。


「そうやって迷うくらいなら、偶然でも何でも利用すればいいじゃないか」


 ふと、ミストがエースの思考を見透かすような言葉を口にする。


「なんだよ急に」


「君がそうやって会話の途中に黙り込んだら、何かを考えている証拠だろう」


 急に連発される、鋭い言葉。ミストの指摘に、エースは嘘をつく気すらなかった。


 だがそれを音にする前に、会話はミストによって続けられる。


「そうやって悩む君に対して、僕は介入することは特にしないつもりだったけど、ちょうどいいし、1つ、言っておこう」


 改まったミストの言い方に、エースは疑問符を浮かべる。


「君がスプリンコートさんのことを守ろうとしているのは分かるけど……それなら僕はむしろ彼女に全部話すべきだと思う」


 ミストの言葉を、エースは間違っているとは思わなかった。


 それも1つの道ではあり、エースもその可能性を当初は模索していた。


「そう……かもしれないな」


 故に、口からも肯定の言葉は出た。


 だが、そうならなかったからには、選ばなかった理由が存在する。次に言葉として口から発したのは、その理由だった。


「でも、それで彼女が傷つくことがあっちゃいけない。俺が楽になるために間接的にでも彼女を傷つけたら、本末転倒なんだよ」


「それは……」


「楽になりたいだけなら、もうとっくに話してるし、望んでスプリンコートさんから遠ざかったりしない」


 エースの口から放たれたぼかしのない言葉に、ミストは次の言葉を出せずに黙っていた。それを見て、エースは息を吐き出した後、今出来る限りの作り笑いをしながら口を開いた。


「悪い。少し取り乱した。腹減ったし、さっさと買い出しすませよう」


「……そうだね。そうしようか」


 ミストも、これ以上自身の言葉を並べることはせず、エースの言葉に呼応するだけだった。


 それからの帰り道では、交わされた会話はいつも通りの他愛ないものだけになっていた。


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