第4話 再起の地で、再び交わりて



 ほんの少しの間だけ、世界は時間を進めるのを止めたのではないか。


 そう思えるほどに、景色が止まったような感覚が残り、その中でエースは、ただただ目の前のフローラを見ているだけだった。驚き以外の感情は吹き飛び、何故ここへ、という疑問が湧きおこる。


 孤児院に行っている、と言った記憶はエースの中には確かに存在しているが、そのことを今のフローラが知っているはずがない。街中でエースのことを見かけたとしても、おそらくフローラは後をつけることはしないだろうし、今の彼女にはそうする理由もない。


 思考だけが異様に回り脳内にあれこれと推測を並べ立てるが、そこには必ず『何故』という問いかけも同居しており、答えに辿り着くことは出来なさそうだった。


「フォンバレンくん……?」


 驚きの程度にこそ違いはあれど、相手がここにいる理由に疑問符を浮かべたのはフローラの方も同じようだった。お互いの驚きによって会話が成立せず、互いの内側に生じた疑問の答えは受け取れないままでいた。



 そんな風に停滞していた場を動かしたのは、エースでもフローラでもなく、いつの間にか再び玄関に来ていた孤児院の子供たちだった。廊下をドタバタと盛大に音を立てて走ってきた総勢4人の子供たちは、2人がフローラの方へ、2人がエースの方に寄っていた。


「お姉ちゃんまた来たー」


「今日もおくすり?」


「うん。今日もお薬、持ってきたよ」


 子供たちにかけられた声に、フローラは膝に手を着いて視線を落としつつ、笑顔でそう返していた。


「お兄ちゃん変な顔してるー」


「えっ? あ、ああ……」


 一方で、子供たちにズボンの裾を引っ張られながらそう言われたエースは、しばしの間驚きで固まっていた状態からようやく我に返った。


 それと時を同じくして、入り口を塞ぐ形で固まっていたフローラの後ろから、シエスタが顔をのぞかせていることに気づく。その際のエースの視線の動き方で、フローラもそのことに気づいたようだった。


「あっ、すみません。すぐどけます」


「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。ついでに紙袋も受け取っておきますね」


 慌てて横に移動したフローラに対して、笑いながらシエスタは中に入ると、フローラが抱えたままの紙袋を受け取る。


 その後、そこにいるエースの立ち姿と、フローラの戸惑う様子を見て、シエスタは少し首をかしげていた。


「二人とも、どうかしましたか?」


「あ、いや、予想外の出会いで驚いただけ、というか、なんというか」


 シエスタの問いに答えたのは、エースだった。言葉を選びながら声にしているためか、どこかぎこちなくなってしまう。


 しかし、シエスタはそれで何かを怪しむことはなかった。


「もしかして、お二人はお知り合いですか?」


「ええ、まぁ……」


 濁した言葉の裏で、エースの胸の奥に確かな疼きが生まれる。


 過去にどんな時間があったとしても、今のエースとフローラは、同じ学び舎に通うただの知り合いでしかない。エースにとって大切な人であることは今も変わりがないが、それはあくまでもエースの中の話であって、フローラがどう思っているのかは、知る由もなかった。


「フローラさんは今、私の実家の薬屋で働いていて、仕事の1つとしてここに薬を持ってきてくれるんです。紙袋の中身は、ここに置いておく分の薬です」


「なるほど、そういうことですか」


 シエスタから告げられた理由に、エースは納得の表情を見せる。


 シエスタの実家が薬屋であることは、当然エースも知っている。フローラが記憶をなくす前に『薬屋で働く』ということを言っていたことを思い出した後は、残りの謎も答えを得て、エースの中に湧き出た疑問はすべて霧散した。


「あの……」


 今度は、しばしの間、やりとりから外れていたフローラが声を発する。


「どうしました?」


「えっと、私も質問なんですけど……フォンバレンくんは、どうしてここにいるんですか?」


 シエスタの反応に対して返されたのは、フローラの視点からは至極当然な疑問だった。それには、エース自身が答えを投げるべく口を開いた。


「俺、ここで育ったからさ。恩返し、ってわけでもないんだけど、ちょくちょくここの手伝いをしてるんだ」


「なるほど……」


 エースの言葉を聞いて、フローラも納得したような表情を見せる。


 それだけであるはずなのに、エースの心の中の疼きは、主張を強めてくる。


 過去にフローラに対して明言したのは『孤児院で過ごしていた時期があった』というところだけで、場所については、エースが覚えている限りではないはずだった。


 故にフローラの反応は、例え記憶があったとしても何もおかしくはない。加えて、それは別に覚えておいてほしい事実ではないこと、フローラが忘れたくて忘れたわけではないことを、エースは十二分に分かっているはずだった。



「お兄ちゃんどうしたのー?」


 いつの間にか、傍にいた子供たちがエースに視線を向けていることに気づく。


 意識の外からの呼びかけに少し驚かされてはしまったが、エースはすぐにいつも通りの表情に戻って言葉を返した。


「なんでもないよ。ちょっと考え事してただけだ」


「かんがえごと?」


「わたしたちにもわかる?」


「うーん……」


 少しの間、エースは考えこむ素振りを見せる。彼らに欠片でも見せれば、追及の的になってしまう。子供たちの無邪気な鋭さは、隙を見せれば逃してはくれないことを、エースは知っている。


「今は無理だけど、いつかは……分かるかもしれないな。うん」


 出来る限りぼかしつつも、納得できるような返答を考え、口にしたのがそれだった。もちろん追及される可能性が消え去ったわけではないが、肝心の部分はぼかしきれる算段が、エースの中にはあった。


「でも今の俺にも分かんないのに、みんな分かるか?」


「じゃあわたしたちが分かったらお兄ちゃんより頭いい?」


「そうだな。お兄ちゃんよりも頭いいってことになるな」


 口ではそう言うものの、子供たちに、自分の今抱えている悩みや感情を、決して持ってほしくはなかった。


 全く悩みなく過ごしてほしい、というわけではいが、子供たちには周囲と助け合い、愛されながら育ってほしいなと、今のエースは強く願っている。負わなくても済む傷なら、負う必要など少しもない。



 ふと、そんな風に考えていた時だった。


「覗いてみれば……入り口が賑やかだねぇ」


 突然、この場の誰のものでもない声が響く。


 その声の主を、他人の空似でなければエースは知っていた。そして確実に、フローラもシエスタも確実に知っている。


「お母さん!」


「レイラさん」


 シエスタとフローラからそれぞれの呼称で呼ばれたのは、彼女たちの後ろにいる、やや年を重ねた女性だった。


「やぁ、ちょっとフローラが帰ってこないから、気になってきてみたよ」


「す、すみません」


「別に平謝りすることじゃないさ。いつもキッチリ働いてくれてるしね」


 シエスタとフローラとそれぞれやりとりを交わした後で、レイラ、と呼ばれた女性の視線は真っすぐ前――エースの方を向く。


「久しぶりだね、エース」


「お久しぶりです。マザー」


 また違う呼び方で、同じ人物を指す言葉が、エースの口から出る。


 彼女こそが、フローラをここに向かわせた人物であり、エースがここで過ごしていた頃の管理人であるレイラ・ソルテール。エースが孤児院を離れ、管理人業務をシエスタに職務を引き継いだ後もマザーと呼んでいるのは、その頃からの名残だった。


「ここにいる面々としてはちょっと珍しい組み合わせな気がするけど……よーく考えてみれば、エースもフローラも育成学校の生徒だし、そりゃ顔馴染みよねぇ」


「まぁ、それは……」


 何気ないレイラの言葉が、またエースの心の傷を開く。


 心を許していた恋人だった過去が、その存在を主張してくる。それの気持ちを全力で抑えもうとすれば、当然その分疼きが強くなる。


 だが、その疼きに対してどうすることも出来ない。発言者に悪意がなく、今がすべてであるならば、今エースの中にある感情は、エースの外に出すことはできない。


「でも、こうしてエースが同じくらいの年の子と普通に話しているのを見たのは、初めてかもしれないね」


「え?」


 レイラの言葉に、今度はフローラが疑問符を浮かべた。エースは、複雑な表情を顔に出すくらいしか出来なかった。


「今はそんな風に子供たちと話してるんだけどね、昔はもっと刺々しかったよ。最初の頃はあたしとシエスタで手を焼いたっけねぇ」


「今その話をしなくても……」


 今ここで『止めてください』と、エースは言いたかった。だがそれを八つ当たりに近い感情由来のものだと考えているが故に、口にすることは出来なかった。


 別にレイラが悪いわけでも、フローラが悪いわけでもない。たまたま記憶を失って、過ごした時間が自分の中にしか残っていないから、複雑な感情になっているだけである。


 しかしそれを分かっていても、これ以上関係性に関する話題を出されると確実に心の傷が大きくなって歪んでしまうと、エースはそう感じていた。歪む前にここを離れることが出来れば防げるが、ここから行く当てなど学校以外になく、学校に戻ったところで癒されるわけではない。今感じたこの傷が、分からなくなるだけなのは、もうすでに分かり切っていたことだった。


 ならもう成り行きに任せて、抑え込むだけだと、半分投げやりな感情になっていた。


「他の子よりも精神的な成長が早い分、物言いはきつくなることもあるけど、ちゃんと話せば根は優しい子だからね。仲良くしてくれると嬉しいね」


「はい、そうします」


 フローラがいつもの優しく微笑んだような顔でそう答えるのも、エースには辛かった。こうして見せる表情が、エースにとって特別な意味を持つものではないことが、少し寂しく感じられる。


「さて、このまま思い出話と行きたいけど、お店もあるし流石に帰るかね。フローラはどうするんだい? もう少しここで子供たちと話していくかい?」


「いえ、私も戻ります。ここには色々とひと段落した後でまた来れますから」


「そうかい。じゃ、またね。シエスタもしっかりやるんだよ」


「はい、分かりました」



 最後はシエスタとのやりとりを交わしたレイラがフローラを連れて、扉から出ていく。窓越しでもその姿が見えなくなるまで見た後で、エースは一つ息を吐いた。


「どうされました?」


「いや、なんでも。久々にマザーと話して、ちょっと気が張っただけです。マザーとは呼んでますけど、俺にとって、母親というよりも先生みたいな意味合いが少し強いので」


「ふふっ、そうですか」


 エースが少しの手振りを交えつつ並べ立てた言葉。


 それは、シエスタには意図したとおりの意味で伝わったようで、少し笑った後は特に気を留める様子もなかった。


「この後どうしますか?」


「買い出しに行こうと思っています。ちょっと準備がいりますけど……」


「分かりました。待ってたらいいですか?」


「はい、お願いします」


 そう言ったシエスタがキッチンへと向かうと、玄関にはエースと子供たちが残る。子供たちは、シエスタから出た『買い出し』という言葉でこの後の行動を予測したのか、軽い興奮状態だった。


「ねぇおにいちゃん、おかいものいくの?」


「みんなで行くの?」


「そうだな。みんなで行くんじゃないかな。置いてきぼりってのも寂しいしな」


 子供たちから飛んでくる質問に、エースはひとまとめで答える。


 街を散策できる時間を楽しみにしているのが分かる反応は、少し精神的に疲弊した後でも、微笑ましく思えていた。


「まぁ、気長に待つか」


 再びシエスタが玄関に戻ってくるまでの短い時間、エースは玄関にいた子供たちと共に過ごした。


 その間、思い返したせいで表情が変わらないようにと、先ほどのやりとりについて考えることは止めていた。


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