第五章:孤独に歩く迷い人/前に進むためのOverture

第1話 変わったけど、そうじゃなくて



 重い。


 その言葉に、何がと問われたならば、分からない、と返すだろう。体が重いのか、はたまた空気が重いのか、その両方なのか。自分のことなのに、よく分からない。


 ただ、全てが重くのしかかってくる感じがする、というのは確かだった。横たわっている身体を起こす気力をごっそりと奪うような、身の重さ。それでも、どうにか動かなければならない。重くとも這いずりだして、今日を始めなくてはならない。


 時期は、秋に入る気配が少しずつしてきている9月下旬。暑さの和らいだ日が少し増え、タオルケットではなく布団をそろそろ準備しようかという頃。


 エース・フォンバレンは、フォンバレン家の自室のベッドの中で目を覚ました。


「……はぁ」


 浅めのため息をつきながら、寝たままの体勢で自室の天井を見る。これまでと変わらない、灯り以外に何もない空間に、今は変にむなしさを覚えてしまう。


 次いで、時計を見る。


 針が指す時間は、以前の起床時間と比べると大幅に遅い。今時計が差している時間は、これまでなら既に朝食を食べ終わり、弟であるミストと共に各々の仕事をしている頃だ。まだ学校に遅れるほどの時間ではないが、そろそろ動かなければ遅れるのは目に見えている。


 起きたくない、という意思を無理やり押し込めて、エースはゆっくりとした動作で掛け布団をどけた。


「……」


 そこに、ヒールとメールはいない。ここ最近だけではなく、もう数ヶ月の間、エースの布団に2匹が入ってきたことはない。若干重たくて苦しいが、それなりの幸せだった日々は、既に重みすら忘れられ、別の重さにただ苦しむだけの日々が続いている。


 また感じた物寂しさを振り払うべく、すぐにベッドから立ち上がる。その後はクローゼットを開いて、制服に着替え始めていた。


「……ふぅ」


 ボタンを留める。ズボンを履く。ブレザーを着る。身なりを整えるために必要な動作全てが、エースにとっては億劫だった。着なくても問題ないのであれば、あまり着たくはない。だが、己が掲げ、周りに公言した夢のために、今は着なくてはならない。



「あ」


 何かに気づいたのか短い音を漏らしたエースが、カーテンの方へと向かう。ゆっくりと開けたカーテンの向こうからは、若干冷たくなった光が差し込み始めていた。


「まぶし……」


 思ったよりも強い陽の光に、エースは思わず目を細める。以前ならばそこまで強くも感じない光が、ここ最近はそれなりに眩しく感じている。


 少しして目が慣れたように感じてから、エースはカバンを持ってリビングへと向かった。人気の感じられない廊下を抜けて、見慣れた扉を緩慢な動作で開ける。


――まぁ、誰もいないよな


 既にカーテンが開け放たれ、日が差し込んで明るくなっているリビングには、誰の姿もなかった。おそらくは、起きる時間が遅いためにミストもヒールもメールも、もうこの家ではないどこかに行ってしまっている。


 いつもご飯時に向かい合って座っていたテーブル。最近は2人で座った記憶のないそこに、1枚のメモが存在していた。それを見つけたエースは、手に取ってその中身を黙読していた。


「『先に行くから、朝ごはんのパンとサラダを食べておいてね。朝ごはんをすっぽかすくらい遅れないことを祈るよ。ミスト』――ずっと迷惑かけて、すまないな」


 いつもなら余計なお世話だ、などと言い返していたはずの最後の一言は、今では心温まる言葉になっていた。今はもう学校にいるのかもしれないミストの親切な書き置きを同じ場所に置くと、エースの足は台所に向けられる。


 ミストやヒールとメールの朝食に使い、既に洗い終わった皿が置かれているシンクの横のスペースには、おそらくエースのために用意された朝食であろう、半分のパンと小皿に乗せられたサラダが置かれていた。年頃の男性が食べるには少ない量だったが、今のエースにとってはこれで十分だった。


 それをエースは、すぐそこのテーブルに持っていくのすら面倒だと言わんばかりに、その場で立ち食いを始めていた。特に表情を変えることなく、己の手を用いて食べ物を口に運んでいく。



 咀嚼する音だけが、空間に微かに漏れ出す。それはまるでただの作業のように、口に運んでは咀嚼して飲み込んで、という流れをエースは繰り返していた。


 それが終わったのは、そこに置かれた朝食が、全てエースの胃の中に収まるまで。近くにあったコップに水を注いで飲み干し、少し汚れた口元を拭うと、次の瞬間には食べ終わった後の食器類を洗い始めていた。


 そこまで数がない食器の汚れを、泡立てたスポンジと水で、適当に洗い流すだけの作業。それを済ませた後は、濡れた手を拭き、食事のために近くに投げていたカバンを手に取る。


 朝に家でやることは、ミストが粗方やってしまったため、エースにはもう残されていない。窓の外に干された衣類でそれを理解したエースは、その足を洗面所に向けた。


 洗面所は灯りをつけていないため少し暗い。だが、備え付けの鏡には今のエースの姿がきちんと映っていた。


「ひでぇ顔」


 鏡に映る自身の姿に、投げた自虐的な言葉。感情を誤魔化すような、変に取り繕われた声色でそれを吐いた後、エースはしばしの間鏡を見つめていた。


 少しして、エースは手に持っていたカバンを置くと、己の口角を無理やり引っ張り上げて、それを下げて、というような奇妙な動作を、鏡の前で己の顔を見ながら何回行っていた。


「……よし」


 普通の表情に戻した後、意を決したような言葉を発すると、もう用はないとばかりにエースは玄関へと向かう。そしていつものように靴を履き、かかとで地面を小突いて微調整をすると、すぐに玄関の戸を開く。


 外には、室内に差し込むよりも明るい陽の光が差す世界が待っていた。暑さが和らいだ季節になっても、まだきちんと明るい自然の道を、エースは歩き始める。


 夏の間に青々としていた葉を色づかせた木々が作った小道を通って森を抜け、人通りが若干増えた道へと踏み入れると、登校途中の生徒たちの後ろ姿がちらほらと見える。


 エースもその流れに乗って右に木々が並ぶ道を進み、いくつかの曲がり角を過ぎて、校舎が見えるはずの角で折れ曲がる。そうして見えてきたのは、もう大分修理が進んだサウゼル魔導士育成学校の校舎だった。


 春の終わりの、神の戦艦による襲撃。生徒間では呼びやすいように大襲撃事件と呼ばれているそれによって中学棟と高校棟が大きく損壊した校舎は、地域の住民の協力の元、多くの生徒や教師がずっと修理に携わり続けたことで、以前の姿を取り戻していた。



 壁にかけられた時計は、始業まで程ないくらいの時間を差している。起床時間が遅くなっても間に合うくらいにエースが到着している、ということは、ミストがかなり早くに家を出ていることが分かる。家で潰す時間がそれなりに長いとは言えど、早く登校させてしまっていることへの罪悪感が、時計を見たことにより湧き出てくる。


――本当に、すまない


 申し訳なさの感情と同時に、家で少し頑張って緩めた表情筋が再び固くなっていくのを感じる。上げていた視線をまた前方に戻すと、エースは校舎の中に入っていった。


 生徒玄関と、その中の靴箱をくぐり抜けると、エントランスの光景が目の前に広がる。生徒や教師陣が行き交う姿も、かなり前に戻ってきて、いつもの光景となっていた。少し生徒が減ってしまってはいるが、それ以外は大襲撃事件前の光景とほぼ一緒だった。



 そこから左に曲がり、そのまま真っ直ぐ進めば、高校棟の上の階に上るための階段がある。その奥には事務室やリクエストルームが存在し、そこには今日も数人の生徒がいた。


 リクエストルームにて受けられる依頼は、学校の復旧中は数こそ減らしつつも、学校に少しでも依頼金が入る状態にしておこうということで、受理可能な状態ではあった。夏休み明けからは、依頼の数も平常運転に戻り、早くからいつも通りの光景が戻ってきていた。



 そんないつも通りの光景を一瞥して、高校棟の階段を上がれば、エースたちの教室がある3階が見える。一番損傷が激しかった3階も、早くから手が付けられたことで戦禍による傷跡もほとんどなくなり、今は既に大襲撃事件以前と変わらぬ光景が広がっている。多くの生徒の会話声が聞こえてくるのも、これまで通りだった。



 ほとんどのものがこれまで通りを取り戻した中で、変わったものもあった。


 時折、エースに向けて異様に強い敵意の視線が突き刺さる。何となく分かってしまうそれは、この4ヶ月の間で毎日のように浴びせられていた。


 大襲撃事件の際に、集束砲から逃れるように穴から離脱し、事件終結後に校舎へと戻ってきたエース。その行動の不明瞭さ故に、高等部の一部の生徒の間では『卑怯者』『学校の恥』という言葉が、エースに投げかけられることもあった。事件終結後、生徒会室にて真っ正面から投げられた言葉の数々は、表には出していないが、エースの心に突き刺さり、確かな傷になっている。


 もちろんエースには逃げたつもりなど一切なく、むしろエースの大奮闘あってこその解決だったことを、エース自身が一番知っている。だがそれを言ったところで、誰も信じようとはしないだろう。エースの全ての戦闘は、ほとんどの人の記憶に残らないタイミングだったからだ。


 校内での戦闘は皆が戦っているためにエースのことなど気にする余裕がなく、空から舞い戻ってきた後は誰にも見られていない場所でしか戦っていない。故に大襲撃事件でのエースは、『集束砲に乗じて校舎から抜け出て、事件終結後に戻ってきた』という、悪意がなくともあるように見える姿になってしまうのだ。


 こうして今日も教室に来るなり、数人の生徒からの厳しい視線が飛ぶ。大襲撃事件以前よりも敵意を向ける生徒の数は増えており、それが影響してか今では教師陣のごく一部もエースの評価は芳しくない。


 そんな中で、エースに対して好意的な感情や、これまで通りの接し方をしてくれる生徒は、エースにとってはありがたかった。


 だが1人だけ、そう思えない生徒がいた。


「あ……おはよう」


「おはよ」


 どこかぎこちない挨拶をエースに対して投げかけたのは、エースの前の席に座る少女――フローラ・スプリンコートだった。彼女の挨拶に対してエースも、短く挨拶を返すことしかしなかった。


 大襲撃事件でのフローラは、一時的に敵側に降伏したものの、結果的に多くの被害を未然に防ぎ、さらには反撃の糸口となった、という評価をされている。故に彼女はエースとは反対に、多くの生徒や教師陣から感謝され、英雄視されている状況であり、生徒会の仕事を後続に引継いだ後も、その影響力は衰えることを知らなかった。


 そうした立場の正反対さ故に、エースがフローラと話す時間は、席が近くともほとんどない。話そうものなら、教室を出た途端に背中から何かしらの攻撃を受けることすらある。



 だがかつては、エースとフローラは恋人関係だった。ほとんどの生徒や教師が知らない、特別な関係性。その関係の中で持ち得た特別な時間や感情や数々の記憶は今も、エースの中に強く残っている。


 しかし、フローラの中にはその記憶は全く残っていない。大襲撃事件の終結後、エースと紡いだ時間の記憶だけが、綺麗に抜け落ちてしまった。そして今は、あまりにも離れすぎてしまった立場のせいで、再構築の糸口すら掴めなくなっていた。



 校内では会話をすることすら、許されない。席の位置のおかげで魔法攻撃を受けたりすることはないが、席の位置のせいで、ずっと敵意むき出しの視線を向けられ、陰口を言われ続ける。



 事件終結後、戻ってきた多くの『いつも通り』とは反対に、エースとフローラの関係性やその立ち位置は、あまりにも大きく変わってしまっていた。


 そんな日々が4ヶ月もの間続いたエース。その道中で、先の未来のことなど考える余裕は完全に消え去り、自分がどうしたいのかすらも分からなくなっていた。


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