エピローグ 秒針の音は鳴らず



 事件が終わってから2日後。


 エースとミストはかなり日が昇った時間に、のんびり歩きながら登校していた。


「おはざーす」


「おはよう」


 校門のところにいる生徒に、朝の挨拶を言って、敷地内へと入っていく。そこからいつも見えていた時計は、校舎の崩壊と共に失われて、今の時間は分からなくなっていた。


 だがそのことを特に気にするような素振りもなく、エースとミストはいつも通りに校舎の中に入っていく。生徒玄関から靴箱を抜けてさらに奥へと向かうと、そこでは生徒と教師がそれぞれに物品を運ぶ姿があった。



 サウゼル魔導士育成学校の教師陣は皆、事件のあったその日の夕方、終結から程なくして眠りから覚めていた。それから帰宅せずに残っていた生徒たちに対して、気づかぬうちに崩壊していた校舎の姿のことなど、眠っていた間の出来事を聞き、そして驚いていた。


 実際にエースやミストも校長パードレに事の成り行きを聞かれた際に、細かいところを少し省きながら語ったが、その最中の表情は険しくなったが驚いていたかのどちらかだった。


 他の教師陣も、あまりの状況が全く知らないうちに起きていることに訝しんでいる教師こそいたものの、生徒側の発言に基本的に嘘がないと判断したのか、教師の側から生徒側への非難が出ることはなかった。



 そうして情報の共有が行われた後に、再び『いつも通り』を取り戻すために、方針が定まっていった。


 本来この時間に既に行われている授業に関しては、パードレの『どうであろうと必死に戦った生徒のために最善を尽くすのが今の教師の仕事だ』という言葉によってしばらくの間は縮小して行われることになり、ある程度の片付けや整備を行った後に本格的に再開する、という方針になっていた。


「さて、俺はこれから生徒会室に向かうけど、ミストは?」


「僕は授業のために教師棟へ向かうよ。復旧作業を手伝いたいけど、座学も大事だからね」


 エースがこれから向かおうとしている方向と違う方を向いて、ミストがそう言う。


 戦闘が繰り広げられた中学・高校棟と違い、教師棟や学生寮などは特に傷がつくこともなく、授業や生活を行うのに全く差支えがない状態だった。そのため、現在開講されている授業は全て、教師棟にある教室を利用して行われている。


 中学・高校棟にいる面々は復旧作業、教師棟にいる面々は授業という風に分かれて、上手く事を回しているのが今のサウゼル魔導士育成学校の状況だった。


「ん、じゃあまたな」


「ああ」


 高校棟の廊下に入ったあたりで、エースはミストとそんな会話を交わし、軽く手を振って別れた。


 さらに少し歩いた辺りで、高校棟の事務室が見える。そこには、数名の生徒が何かしらの紙を持ったままで、列を作って並んでいた。


――ああ、辞める生徒が今日も並んでるのか


 校内を戦場としての生死のかかる戦闘による恐怖。来ると思っていたはずの教師陣や救援が来ないことへの不信。


 それらによって、サウゼル魔導士育成学校を退学することを決めた生徒は少なからずいた。


 エースたちのように事情を知っていたり、慣れている面々にはほぼいなかったが、戦闘に慣れていない中学生やこれからに期待をしていた高校1年生は心のダメージが大きかったらしく、彼らが事務室に退学届を出すための列を作っていた。


 エースがパードレから聞いたところによると、これらの生徒は一度パードレが面談をしたのちに、だいたいの場合にはそのまま退学となるらしい。かなり大変な作業だな、と感想を漏らすと、パードレが『自主退学するなんてのはだいたい何か思うところがあったんだろうから、こっちもその中身をある程度は知っときたいんだよ』と言っていたのを、エースは覚えている。


 考え得る限りでは最悪の状況と最強の敵であったことを、エースはフェアテムと話したために知っている。故に今回ばかりは相手が悪い、くらいの気持ちでいたが、これがどのレベルなのかも分からない、経験の浅い生徒たちにとっては心から敬遠したくなることなのだろう。


――まぁ、力つける前に死にたくはないよな


 彼らを蔑むことは、エースはもちろん、他の誰にも出来ない。死ぬことを覚悟してでも身を投じ、己を高めることが選択なら、己の実力を十分に理解し、危険を回避しようとすることも、また選択である。


 少しの間階段の前で立ち止まり、そんなことを考えていたエースは、自分のやるべきことを思い出して、その階段を上がった。


 踊り場を経て折り返すように上った2階で、階段を背にして正面に伸びる廊下の途中、他と変わりないデザインをした3つ目の扉の向こう。


 幾度かの頼まれ事のせいで少し行き慣れてしまった生徒会室は、そこにあった。その入口にたどり着くと、軽く2回ノックして扉を引き開ける。


「失礼しゃーす」


 軽い挨拶を投げると、藍色の髪をした、眼鏡をかけた大人しそうな生徒が、エースに向けて軽く頭を下げた。そしてペンを取ろうとして、何かに気づいたのか少し慌て気味で何かを探した後に、エースの方へと近づいてくる。


「あ、先輩……これ」


「どーも」


 手渡された紺色の腕章を受け取ると、渡してきた生徒は元の席に戻り、それから忙しそうにペンを動かしていた。それを見て、エースは彼女がどんな仕事をしているのかをなんとなく察した。


――ああ、フローラの代役か……


 事件から2日目になっても、フローラが目覚めた、という報告はなかった。


 事件の後保健室に運ばれたフローラは、すぐにベッドに寝かせられ、その時から今まで保健室の先生とセレシア含む数名の女子生徒が交代で経過観察をしているらしい。


 中々目覚めない彼女の生徒会としての業務は、役職を持たない生徒会の他の面々が交代で行っているらしい。今左腕につけた紺色の腕章は、それを知ることとなった来訪の際に生徒会長フィーア・クラシオーネに呼び止められ、はいこれ、という軽いノリで渡されたものだった。


 聞いてみれば、フィーアが直々に渡したことを示す直筆サインまで入っているらしく、その理由をフィーアは『そっちの方があなたが動きやすくなると思いまして』と語っていた。


 生徒会の一員ですらないのに会長直々にこんなものを渡されていいのか、という思いこそあったが、エースはどうせ仕事頼まれるしなぁ、と思って受け取っていた。


 その後に案の定早速仕事を任された時には、エースはフィーアの前で物言いたげな視線を、思い切り突き刺していたりするのだが。


――とはいえ、結構ありがたかったりするんだよなぁ


 いつもの面々以外では数少ない、友好的な振る舞いをしてくれる人物からの気遣い。それを腕に留めて、エースは生徒会室を出た。同時に、気持ちも入れ替える。半分ほど押し付けとはいえ、正式に生徒会の面々として動くことになるため、いつもよりも多少は友好的に振る舞わなくてはならない。



 そんなことを考え、廊下へと再び出て歩き始めたところで、廊下の向こう側からセレシアが走ってくるのが見えた。


「おーい!!」


 大きな声でエースのことを呼び、着くなり肩で息をするセレシア。彼女の急ぐ様子に、エースは少し戸惑いながらも問いかける。


「どうしたんだよ、そんなに急いで」


「はぁ……はぁ……ちょっと待って。息整えるから」


 セレシアにそう言われ、エースはセレシアが普通に発言できるくらいに息を整えるのを待った。


 少し経って、いつもの状態に近くなったセレシアが、小声で言葉を発する。


「フローラがね、さっき目を覚ましたの」


「何!?」


「あたしの配慮、意味ないじゃん」


「すまん」


 セレシアの言葉に大きな声を出したことを謝った後で、エースはその朗報によってわいてきた喜びをかみしめる。いつ目を覚ますのだろうか、という不安を抱えたままの時間が終わりに近づくことを、嬉しく思っていた。


「早速いこ? 今ならまだ人がいないよ」


「ああ」


 セレシアの誘いに乗り、エースはフローラが寝ている保健室を目指した。


 幸いなことに、エースのいる位置からその保健室までの距離はさほどなかった。ものの数分で、保健室の扉であるスライド式のドアが現れる。


 2日前に不安を抱えつつも出ていくこととなったそのドアの向こう、そこにあるであろう風景に少しだけワクワクしながら、エースはセレシアと共に、出入口の前まで来た。


「失礼しまーす」


「失礼します」


 2人揃って挨拶をした後に、そのドアを開けて保健室へと入る。


 そこから少し入ったところに並んでいるベッドの一番奥で、フローラが上体を起こして待っていた。


 何事もなく目を覚ました様子を見て、エースは安心した。突然倒れた時から抱えたままだった不安が、その姿を見たことで消え去る。


 しかし、こちらを向くフローラの表情に、嬉しさの感情が見えないことに、エースは気づいた。


 そしてその違和感に、エースは何故か背筋が凍りつく感覚を覚える。知ってはいけないものを知ってしまった時の、恐怖に似たあの感覚。




 その数十秒後に、エースはその違和感の正体を、残酷な形で知ることになってしまった。


「フローラ、フォンバレンくん連れてきたよ」


 セレシアが、エースを連れてきたことをフローラに告げる。


 だが、フローラは顔をほころばせることはしなかった。


「フォンバレン……くん?」


 それどころか、フローラは、セレシアの言葉に首を傾げていた。その声色には歓喜の色も、安堵の色もない。


 それは明らかに、思い当たるものが何もない時の、困惑の色と仕草であった。


「フローラ、どうしたの?」


「えっと……フォンバレンくんって、誰のこと……?」


「えっ……」


 フローラから放たれた、衝撃的な言葉。


 問いを投げたセレシアとその隣にいたエースは揃って、驚きの表情を作ることしか出来なかった。


「もしかしてフローラ、覚えてないの……?」


「えーと……」


 どうにか立ち直ったセレシアの戸惑いながらの問いに、フローラは首を縦に振る。その様子を受けて、セレシアは少し慌てたような物言いで、さらに問いを投げた。


「あたしのことは、分かるんだよね?」


「うん、セレシアのことはちゃんと覚えてる。お父さんやお母さん、みんなのことも覚えてるんだけど……」


 言葉の最後に、フローラから向けられる視線。


 特別感、とでもいうものが抜け落ちたそれを見て、エースは彼女の反応に一切の嘘がないことを悟った。


 何も言えず、動けないまま、その視線だけは、フローラの方に向く。


「あっ……あなたが、フォンバレンくん……?」


 その反応を見て、エースは驚きで目を見開いていた。それを見て、フローラは思い出そうと頑張っているのか、少しの間唸っていた。


「ねぇ、本当に、フォンバレンくんのこと、何も覚えてないの?」


「うん。ごめん……なさい。何も、思い出せなくて」


 セレシアの聞き返しにも、フローラは申し訳なさそうな声でそう答えていた。



 その直後。


「うっ……!!」


「フローラ!?」


 フローラが頭を抱えて、再びベッドに倒れ込む。その痛みに耐えかねている様子に、セレシアが慌て始める。離れたところで何か仕事していた保健室の先生も、こちらへと向かってきていた。






 そんな中で、反応することを忘れるくらいに、エースはその場に立ち尽くしていた。


 地面が揺らぐ感覚。立っているはずなのに、立っているかどうか分からなくなる。



 ああ、夢であってくれ、という願いは、目の前にある、あまりにも残酷な現実によって瞬時にかき消される。



 残酷な現実による衝撃で感覚がぼやけていくエースの耳には、すぐそこで起こっている喧騒も、時を刻む時計の針の音も、そして自身の心臓の鼓動すらも、入ってくることはなかった。







* * * * * * *







「ん……」


 フローラの意識が、自然と浮上する。


 その瞬間に感じた眩しさに戸惑いつつ、フローラは目を開けた。


「ここは……?」


 周りに見える風景がどこか分からず、フローラは困惑するしかなかった。


 喧騒とは程遠く見える、静かな森の中。小鳥がさえずり、どこかから小川のせせらぎが聞こえてくる場所。争いの気配など微塵もないような、そんな場所で、自分は何故寝ているのだろう、という気分になる。


「私は……」


 こうしてこの場所で目覚める前、もっと言うと意識が沈む前のことを、フローラは思い返す。


 サウゼル魔導士育成学校を襲った戦艦による、別世界線のエース・フォンバレン――ゼロの企み。それを阻止した後、いつもの面々であるエース、ミスト、セレシアと共に校内のグラウンドに降り立ち、事の終わりを実感し、そして――


「みんなは……?」


 校内のグラウンドでは明らかにない場所と、いたはずの人物がいない状況。フローラは立ち上がった後で、あまりにも様変わりしている周囲の光景をくるりと見回した。


 奥まで視線を投げても木々ばかりで、どこまで続いているのかも見当がつかない。人の気配すらない場所で、フローラの心の中に、少しずつ寂しさが生まれる。




「おや、お目覚めかな?」


 不意に、目の前の空間が揺らぎ、声が聞こえてくる。


 そこに、次第にフェアテムの姿形が出来上がり、そして動き出したのを見て、フローラは驚きのあまり少しの間固まっていた。


「いや、お目覚めというのはちょっと違うか。まだ、眠ったままだからね」


 そこまで言葉を連ねたところで、フェアテムはようやく、フローラが言葉を発せずに硬直しているのに気づいた。


「そういえば、目の当たりにするのは始めてかな? 僕が現れる時は、こうやって何もないところからすっ……と現れるのさ」


「はぁ……?」


 ようやく驚きから解放されたところで、フローラは何から聞いていいか分からず、また言葉に詰まる。


 そんなフローラの様子を察したのかどうかは分からないが、フェアテムがまた話を始めていた。


「ここは君の精神世界。風景に関しては時渡の森を模しているけど、眠っている君の精神世界に、今私はお邪魔している」


 そう言われて、フローラはようやくこの場所にほんのりと感じていた既視感の正体が分かった。エースほどではないにしても、数回は訪れている場所を模しているのだから、少しはひっかかって当たり前の風景だ。


 と同時に、ある疑問を抱き、それを口にした。


「どうして、私の精神世界に神様がいるんですか?」


「君に用事があってね」


「用事?」


 思い当たる節のないフローラは、またもや疑問符を浮かべ、フェアテムに聞き返す。


 するとフェアテムはしばしの間悩んだ後に、口を開いた。


「問いに問いを返して申し訳ないのだが――君は、何故エース・フォンバレンがこんなにも早く復帰し、そして状況を覆すことが出来たのか、疑問に思わなかったのかい?」


「それは……神様が力を貸してくれたから?」


 フローラは答えとして十分であろう中身を、フェアテムに対して返していた。


 エースがフェアテムから力を借りていたことは、実際に事件の最中にエースが話していたために知っている。何故こんなにも早く復帰し、状況をひっくり返すことが出来たのかは、そういう風に納得していた。


 だがしかし。


「そうだね。だけど、何故私が力を貸したのか、というところについては……どうだろう?」


「それは……」


 フェアテムが次に出した問いには、フローラは合いそうな答えを持ち合わせておらず、言葉に詰まるしかなかった。


 どう頑張っても覆しようがないと思われていた戦況を、あんなにもあっさりとひっくり返してしまったことへの驚きは、記憶に新しいところである。いくらエースが状況をひっくり返すだけの能力を持っているとは言えども、今回ばかりはフローラも流石に無理だろう、と思っていたのだ。


 だが、エースは、その無理だろう、という予想を越えて、解決まで導いてしまった。そのための力を神様から借りたことは本人の口から聞いていたが、それが出来た理由は、エースからは語られなかった。


 フローラは、そのことに関して、フェアテムが珍しく協力的だな、と思っていただけだった。


「神様に要求して力を借りる、ということは、それ相応の対価を、己の持ち得る何かから支払う必要がある――この台詞の意味を、君は理解出来るかい?」


「まさか……!!」


 フェアテムの言葉を聞いたフローラが、驚きの表情を再び見せる。エースがどうしてその力を貸してもらうことが出来たのか、その真実を、フローラは今ここで完全に理解してしまった。


 絶望的だった状況をひっくり返すために、エースは神様に、対価を支払うことを覚悟の上で力を借りた。そして、何度もボロボロになりながらも、状況を完全にひっくり返し、全てを終わらせることに成功した。


 戦況をひっくり返してしまったエースの、その決断を知って、フローラは心の中をかき回されている気分になった。ぐちゃぐちゃになった感情が、フローラの気持ちを澱ませる。


「自分の手で未来を変えると決めるまで、彼はかなり迷っていた。君との約束を守れなくなる、と言いながらも、失うことの恐怖と天秤にかけていたよ」


「そんなの……そんなの、守れなくたって、しょうがないのに……!」


 誰もが絶望的な状況に成す術をなくし、沈んでいたあの時間。フローラは戦艦の上でエースのことを想いはすれど、約束のことは全く頭になかった。ただひたすらに、彼の無事を願っていた。


 そんな中で、無事に帰ってきて、あろうことか戦況をひっくり返してしまったエースは、ずっと、約束のことを口にしていた。


『もしフローラが、自分自身が頑張れたかどうか不安なら、俺を見て。君が頑張った分が分かるように、俺も頑張るから』


 最初は、エアードの行方が分からなくなり、報復の未来に震える自分を勇気づけるために、エースが言ってくれた言葉だった。それだけの約束だと思っていた。


 しかしその約束は、エースの原動力となり、最後まで彼を支えると共に、エースに重い決断させるに至った、唯一の呪いにもなっていた。


 それらの事実を、もう戻れないところまで来てから知ってしまったことに、フローラは己の浅はかさを痛感させられる。吞気に喜んでいた自分が、何も知らなかったことを、思い知らされていた。


「私は時間と運命の神フェアテム。時間を見守り、運命を司る神。故に、変えた運命と元々の調和を保つ必要がある。君への用事と言うのは、それに関してだ」


「え……?」


「単刀直入に言わせてもらおう。君の記憶を封じさせてもらおうと思っている」


 悲しみから戻り切れない中、またもや発せられた衝撃的な言葉に、フローラは涙を淵につけたままで目を見開いた。その様子を気にすることもなく、フェアテムが話を続ける。


「といっても全部じゃない。君とエース・フォンバレンの繋がりたる部分だけ、綺麗に封じてしまう。だから君はほとんどの人との会話は難なくこなせるし、不都合が起きることもあまりないだろう」


 それはすなわち、自分だけが忘れられてしまうという、ある意味では精神を破壊しかねないような事実。


 それをなんのためらいもなくそう言い放ったフェアテムに、フローラは沸き起こった怒りをこらえながら、口を開いた。


「それは、フォンバレンくんから奪う、ということに嘘をつくことになりませんか?」


「そう。君の言う通り、嘘になってしまう。『フローラ・スプリンコートと過ごすはずだった幸せな未来』を奪う、という解釈なら嘘にはならないが、こればかりはその弁解で誤魔化すつもりもない」


 フローラの指摘に動じることなく、フェアテムは言葉を並べていた。その様子に、フローラは悲しみと怒りを持ち合わせながらも、おそらくはぶつけても何にもならないという無力さを感じていた。


 もう決まってしまったからこそ、フェアテムの提案に従うしかないのだ。


「勘違いしないでほしいのはこれは罰ではなく、調和を保つためのものだ。そして同時に、エース・フォンバレンとフローラ・スプリンコートの未来を試すための試練でもある。だから、この封じには条件をつける」


「条件?」


「君には、『恋人が自分の記憶だけを失ったと分かったエース・フォンバレンが、どのような未来を描くか』を予想してほしい。その通りになれば君の記憶は元に戻るし、そうでなければ、君の記憶は封じられたままだ」


 フェアテムの言葉を聞いて、フローラはすぐにその回答を用意した。


「なら、『フォンバレンくんが私にまた告白する』、というのは」


「それはダメだ。あまりにも簡単すぎる」


「簡単って……人の人生で遊んでおいて、そんなの……!!」


「彼はそのくらい困難なことを、私に頼んだ。故に、私もその対価として、それなりのものを要求する権利はある」


 どこか冷たさを感じられるような口調でそう言われ、フローラはそれ以上の反論を引っ込めるしかなかった。



 エースと共に、幸せな未来を歩きたい。だがそれは、どのようにしたら得られるものか、すぐには思いつかなかった。


――フォンバレンくん、絶対に大丈夫じゃないよね……


 もしも、恋人が自分の記憶だけを失ったら。


 そのことを想像したフローラは、背筋が凍る思いだった。


 仮にエースが記憶を失い、フローラが覚えているのならば、エースとの関係を始めるのはそこまで難しくはなかった。好いているのだろう、くらいの情報は他の生徒も分かっているだろうことから、きっかけ作りは容易い。最初の部分の関係構築が出来てしまえば、元通りにするのはそこまで難しくないと考えていた。


 しかしその逆で、エースが覚えておりフローラが記憶を失う場合は、関係を作ることすら困難に思えた。


 エースのことをよく思わない人間はたくさんいる。優しい人であるはずなのに、妬ましく思い、蔑む人がたくさんいる。そのような人物を避けながら関係構築をし、残り少なくなった期間でどこまで戻せるか――フローラは、最悪の可能性の方が起こりやすいのではないかとさえ思えていた。


 そうなれば、エースのために、今の自分が何か出来るのはこれが最後になるかもしれない。


 そう考えたフローラは、これまでで一番、エースのことを考えた。その性格から仕草、しそうなことまでを、全部思い返した。



 数分間もの間悩み続けた末、ついにフローラは、その口を開く。


「だったら、私が示す条件は――」





 フローラが改めて発した『条件』と、その根拠。それを聞いてフェアテムは驚きの表情を見せた後、満足そうな表情を見せていた。





「面白い。ならば、その通りになるか、はたまた別の未来になるか……その生き様を、私は見届けるとしよう」






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