第四章:明日を求めた少年の決意/幸せを願い零れたElegy

第1話 一日を起こして



 重い。


 重たい。


 まるで沈められたような感覚に陥った体は、もがこうと思っても上手くもがけず、出来たところで一向に進む気配がない。


 その重さの理由すらも思い出せず、己の体は沈んでいく。確かに見えているはずの光は、手を伸ばせば届きそうなくらいに見える。しかし届かない。


 今この体は水の中にいるのかどうかも分からない。沈んでいく己の体と、纏わりつく重苦しい感覚だけが分かる。


 あがいて、もがいて、それでも届かなくて、苦しくなって、どんどんと遠ざかって――


 視界はブラックアウトした。






「――っ!!」


 一度ブラックアウトしたその視界は、次の瞬間に木の天井を捉えていた。あまりに変わりすぎたそれをしばしの間受け入れられずにいたが、少し時間をおいて、先ほどまで見えていた景色が全て夢であったことを理解する。



 時は、春の温かな気候が少しばかり残る5月の上旬。自身が寝ているフォンバレン家の自室にて、エース・フォンバレンは寝起きの頭で先ほどの嫌な夢をどうにか処理していた。


「あ、夢か――重っ」


 体を起こそうとして、その身にかかる重さだけ確かに存在していることに気づく。枕に頭を乗せた位置からでも見える布団の上にはヒールが丸くなって寝ている姿がある。足の辺りにも同じような重い感覚があることから、メールがそこで寝ているのも簡単に予想出来た。


「いやお前らかい」


 先ほど夢の中で感じていた重苦しさは、どうやらヒールとメールのせいだったらしい。見ていた夢の苦しい感覚は、その原因の呆気なさを理解した途端にエースの中から霧散し、すでにどこかへと消え去っていた。


「……待ったこれ絶妙に面倒なやつ」


 ヒールとメールが直列の配置で寝ているせいで、エースの体は固定されているような状態だった。おそらくはこのせいで寝返りが出来なかったのが、先ほどの夢が模られた原因だという風に推測できる。


 最近は順調に育ってきたことで、出会った当初のような扱いは段々と出来なくなっていた。1匹分抱き上げることならエースもまだ出来ることだったが、こうして2匹同時にのしかかられている状態に耐えるのは流石にもう無理である。


 エースは難なく動く右腕で、まずは胴体の上を占領しているヒールをつついた。気持ちよさそうに寝ているヒールだったが、3回ほど人差し指で顔をつつくと、ようやく目を覚ました。


「くる?」


「おはよう。そしてどいてくれ」


 その言葉が通じたのか、ヒールは少し名残惜しそうにふらふらと宙に浮く。それによりようやく動かせるようになった上体を、左肘をついて起こすと、動いた視界には足の辺りに寝ているメールの姿が入ってくる。


 これまたスヤスヤと気持ちよさそうに寝ているメールは、ヒールがその顔をつついて起こしていた。ヒールと違い、メールはすぐに気づいて、そのまま宙にふわりと浮かんだ。


「メールもおはよう」


「くるぅ~」


 元気よく鳴き声を返したメールに対して笑みを浮かべつつ、布団をどけてエースはその両足で地に立った。大きく伸びをして、まただらんと両手を下ろす。


 あまりにも嫌な夢だったな、と、エースは少しの間思い返しながら考えていた。まるで何か良くないことが起こるかのようにも思えてきて、即座にそれを否定するように、細かく顔を振る。


 それくらいに嫌な夢ではあったが、その原因であろう2匹を、エースは怒る気にもなれなかった。ひとまず部屋のカーテンを開け放ち、外からの光を部屋に入れる。


「今日もいい天気だな……」


 外から指す日光は、まだそこまで強くはない。これから迎える1日のために、起きたばかりの視界に入れるにはちょうどいいくらいの明るさの光だ。


 これからは段々と夏に向けて暖かく、そして暑くなっていく。今はまだ心地よく感じられる日の光を、エースは思い切り浴びていた。


「よし。ヒール、メール、リビングに行こうか」


「「くるる~」」


 気持ちを切り替えるために発せられたエースの言葉に、同じように日光を浴びていた2匹が返事の一鳴きを発した。


 その鳴き声に少し満足げな笑みを浮かべたエースは、自室のドアを開けて、リビングへと通じる廊下に出た。少しひんやりとするそこを通って、申し訳程度に装飾の施された扉を開けると、すでに時間が動き始めたリビングがそこにあった。


 ほのかに香る朝食の匂いに釣られるように台所に目を向けると、双子の弟であるミスト・スプラヴィーンがすでに朝食の準備を始めていた。


「おはよう、ミスト」


「うん、おはよう。朝ご飯、もうほとんど出来てるよ」


「ありゃ、マジか」


 自身の挨拶への返答として発せられたミストの言葉に驚いて、エースは壁に掛けられた時計を見る。指している時間は、いつもの起床時間よりも20分ほど遅い時間を指していた。


「思ったより寝てたな……あ、だからヒールとメールがずっしりと俺の上で寝てたのか」


「僕が起きた時にはもうリビングにいなかったし、そんなことないと思うけどね」


 ミストが配膳の準備をしながら、そう口にする。それを見たエースは、分からない理由を探るのを止めて、台所へと足を向けた。


 台所のシンクにスペースを確保して並べられた2つのお盆は、手前と奥の配膳が鏡写しのようになっていた。エースとミストで利き手が違うことを考慮して逆に配膳されたそれの、奥にある右利き用の配置のものを持ったエースは、いつものようにテーブルに備え付けられた椅子に座った。


「エースがいつもより寝てたの、昨日孤児院に行って疲れてたからじゃないかな」


「あーそれかもしれんわ。昨日風呂入った後の記憶ないし」


 台所に戻っていたミストの言葉に、少しの思い返しによる証拠を得たエースはすぐに納得する。


 サウゼル魔導士育成学校校長であり義父でもあるパードレ・ファルシュの提案で、4月の下旬辺りからエースはソゼリアから少し離れた町の孤児院に出向いていた。将来の進路を決めるにあたりパードレが『今のお前に必要なことだ』と言って唐突に提案してきたことが事の始まりで、場所がエースたちがこのサウゼル地方に来た当初にいた孤児院であることを知り、エースはその提案を二つ返事で了承していた。


 その孤児院での仕事――子供たちの面倒を見る手伝いを約半日こなしたことで溜まった疲れは、風呂上がりのエースの足をすぐにベッドに向かわせていたのだった。


「でも疲れて寝たにしては目覚めの悪い朝だったな……」


「それはタイミングがたまたま重なっただけだと思うけどね。はい、これはヒールとメールの分」


 エースのぼやきに反応しつつ、小皿に盛られた肉と野菜を持って動くミスト。ヒールとメールの朝食であるそれを、いつものように暖炉の前に陣取っている2匹の目の前に置いていた。


 冬の初めに出会い、寒さ対策で暖を取ることが多かった当時の名残で、ヒールとメールは未だに暖炉の前が定位置だと思い込んでいる節はある。リビングの他のところに居場所を確保できないこともあり、エースとミストは、何も言わずにそこを2匹のスペースとして認識することにしていた。


「んじゃ、いただきます」


「どうぞ」


 ミストが席についたことで、今日もまた2人は揃って朝食を食べ始める。メニューはトーストにハムとチーズを乗せたハムトーストに、簡単な盛り付けのサラダというもので、春初めにはまだ見られたスープ系の料理は暖かくなったことで段々と食卓に並ばなくなっている。


「エース、今日はお昼作らなくていいよね」


「ん、そうだな。今日は金曜だったはず」


 食事の間に、昼食についての会話を交わすエースとミスト。


 月に2回、主に月前半の金曜日にフローラの作る昼ご飯を食べながら2人で会話をする、という習慣は、ヒールとメールがフォンバレン家に来た冬始めの時期に手が必要となり少しだけ増えたものの、2回という回数自体は付き合い始めた当初から変えていなかった。回数を増やす、という話はちらほらと出ていたが、それをエースは毎回やんわりと断っていた。


 叶うことならもう少しだけ回数を増やしたいという思いは、もちろんある。だがエースは、忙しくなったフローラの負担を増やすことをあまりしたくなかった。食事を作ってもらっている身であり、さらに人のために無理をしやすいフローラのことを考えると、特別感があっていい、くらいの建前の理由を並べておいて優しめに断る方がいいかな、とエースはそう考えていた。


「……あ」


「どうしたんだいエース」


 ふとカレンダーに視線を移し、エースは口から音を零す。アーチ状の食べた跡が残るハムトーストを置いたままで視線を動かさないエースに対して、ミストは食べようとしている動作を止めて、不思議そうに問いを投げた。


「いや、今日でピッタリ10か月なんだなって……」


「ああ、なるほどね」


 何が、という部分はエースの言葉にはなかったが、ミストはすぐに主語の部分を理解したようでまた食事を再開していた。それに倣ったわけではないが、エースも自身の持つハムトーストをもう一度口に運んだ。


 エースがフローラと付き合い始めたあの夏の事件から、今日で10か月が経つ。時間の流れは早いな、と、心の中で感じるのに十分な月日ではある。


 あの夏を越えた後も、大きな出来事はあった。ヒールとメールとの遭遇と、未来に飛んでしまい時渡の森とフェアテムを知った冬始めの事件に、つい最近の未来からフローゼという娘が来訪した出来事と、それに付随する事件。


 フローゼが来たことですら、すでに1か月前の話になろうとしている。時間が段々と加速しているような感覚にもなりながら、最近の日々を過ごしているのは間違いない。


「エース、いつまでモグモグし続けるの?」


「ん? んー」


 いつの間にかまた止まっていた食事は、口の中のものを飲み込んだ後にまた始まる。まだ少し残っているエースのものとは違い、目の前のミストはすでにほとんど食べ終えていた。


「んー……」


 頭を空っぽにするのは難しいな、と考えながら、残りのハムトーストとサラダを食していくエース。意図せず緩急つけられたペース配分で食事を終え、自身の使った食器を台所のシンクに入れる。


 気が付くとミストの姿はダイニングテーブルの付近にはなかった。いつの間にか、自室へと戻っていったらしい。


「ふぅ……」


 コップに注いだ水を一気に飲み干し、一息つきながらふと視線を向けた、ダイニングテーブルの奥。暖炉の辺りでは、食べつくされて上に何もなくなった皿と、食事終わりを示すかのように皿から少し離れた位置で丸くなっているヒールとメールの姿があった。


 満足そうにしている2匹の姿を見て、エースの足は暖炉の方へと向く。


「さて、洗い物でもするかな」


 そう言いつつ、エースはヒールとメールの目の前に置かれた、2匹の食事を乗せていた皿を回収する。


 そして台所に戻り、回収した皿をシンクの中に置いた後は、別の使用済みの皿共々朝食の後片付けを開始していた。



「今日はどうすっかなー……」


 その最中、エースは両手を動かしながら、今日1日に対してあれこれ考えを巡らせるのだった。


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