第二章:落ちて来た小さきものたち/四翼が生み出すDal segno
第1話 手つかずの日常
空気が心地よい温度からさらに冷たくなり始めると、布団から出る動作というのは『起きる』ではなく『這い出る』と表現した方がしっくりくる人も多くなってくる。長袖の服を重ね着して刺激の強くなる空気の冷たさに備え始めるような装いが増えたり、厳しくなっていく寒さに備えて暖を取るための準備をし始めたりする、そんな時期。
場所は、大陸南部に広がり、少し温暖な気候であるサウゼル地方。その中心からやや南寄りに位置する街がソゼリアであり、そこにはサウゼル地方中から魔導士の卵が集うサウゼル魔導士育成学校がある。
その敷地から徒歩で最短10分、奥に広がる森の中の小道を通り抜けた先にあるのが、黒い外壁に包まれたフォンバレン家。現在その中の一室では、双子の兄エース・フォンバレンの目覚めが進行している。
仰向けで寝ている体勢のまま、閉じていた瞼をゆっくりと開いていく。その瞳に光が差し込み、1日の始まりを迎えようとしているその視界には、寝起き直後でぼんやりとした、何も代わり映えしない自分の部屋の天井が映っていた。
「んー……」
日中よりも寒い朝の空気が首筋に触れ、エースは反射的に布団の中に入りこむ。
しかし、時計の差す時刻を見てそれは叶わぬ願いだと気づかされたのか、這い出るとまではいかなくともノロノロとした動きで布団から出た。
そして立ち上がった後に想像以上に寒くなっていた自室の窓際のカーテンを開くと、その向こうには前よりも薄暗く感じられる外の景色が存在していた。数か月前には普段起きないような時間にしか見られなかった暗さの景色が、今は目の前にあるような季節になっていることを実感させられるその視界に対して、エースは素直な感想を漏らした。
「そりゃどーりで寒いわけだ……」
外の景色から全く温かさを感じなくなり、夜の間に冷えた空気で寒く感じ始める11月の始め。高校生活も残り半分を切り、学び舎で過ごす日々も終わりへと近づいていく中の1日が、今日も始まろうとしていた。
「んー……はぁ。時間も時間だし、リビング行くか……」
冬になっても起きる時間がほとんど変わらない双子の弟――ミスト・スプラヴィーンが、毎日作っている朝食を作り終わるであろう時間はもう間もなくだ。1つ大きく伸びをした後に、エースは自らの腹部に確かに感じ始めている空腹に従い、自室横の洗面所で洗顔を済ませた後にリビングに向かった。
電気のついていない廊下を進んで最初の角を左折し、その筋の突き当たりにある扉を開いたその先がリビング。明暗と空間を隔てているその木の戸を押し開けると、寝起きのエースには少々眩しく感じられる、明かりのついたいつもの生活空間がある。
「おはよ、エース」
「ああ、おはよう、ミスト」
まだ微かに眠さが残る目をこすりながらリビングへ入っていくと、いつものように台所で朝ごはんを作っているミストから朝の挨拶が投げかけられた。その手元に目線を移せば、すでに完成間近の朝食2人分が並んでいる。
弟からの朝の挨拶にきちんと返しつつ、エースは朝ごはんの配膳のために台所に足を進めた。
「朝ごはん、もう全部出来たよ」
「早いな」
「それ多分作るスピードが早くなったんじゃなくて、エースの起きる時間が遅くなっただけだと思うよ?」
「やっぱり?」
朝から早々にミストのツッコミをもらいつつ、配膳すべきものをお盆ごと受け取り、ダイニングへと運んでいくエース。向かい合わせになるように皿やコップなどを次々に配膳していく間に、台所ではミストが使った調理器具をまとめてシンクに入れていた。
それは時間にして3分。いつもと変りのない朝の食卓の風景が、フォンバレン家のテーブルに展開される。平凡でありながらも、ありがたみを感じることの出来る一時だ。
「さてさて、朝ごはんとしますかね」
そう言ったミストが食卓についてから、フォンバレン家の朝ごはんは始まる。配膳をしていたエースは終えた後そのまま座っていたが、先に食べることはしなかった。基本的に2人揃ってから食べ始める、というのが2人の間で決めた、この家に住み始めてからのルールだからだ。
「そろそろ欲しくなる時期かなと思って、今日は汁物も作ってみたよ」
「それはありがたい。最近さらに寒くなってきたもんなー」
自室の冷たい空気によって冷えた体の、温かさを求める欲に従って、エースは真っ先に汁物に手を伸ばす。
手に取った野菜のたっぷり入った温野菜スープを一口飲むと、身体の中に温かさが行き渡っていくのがしっかり感じ取れる。同時に感じた一息の安心感のような感覚に任せて、口から素直な感想をこぼした。
「あー……身体の芯まで染み渡るー……」
「なんかおっさんくさいよエース。でもまぁエースがそのくらい寒いって言うんだったら、そろそろ防寒着を引っ張り出すような時期になってるのかもね」
「そうだろうな。もう11月の始めだし、冬を越すための準備も少しずつしていかないとな」
リビングの奥にある暖炉に視線を向けつつ、そんなセリフを呟くエース。彼の使う魔法の属性は氷だが、氷を使うからと言って寒さを全く感じないわけではなく、普通に寒く感じることももちろんある。
ただ、普通の人と比べるとやや耐性はあるようで、エースとミストの間ではエースが寒いと感じるか否かが冬準備をするかどうかの最終判断材料となっている。
「んで、そんな氷属性適性の俺も寒く感じるような季節になってきたわけだけど……何故にミストは起きる時間が同じなのか」
「生活リズムがきちんとしてるからね。体内時計の正確さには自信があるよ」
「それだけでこの寒い朝に布団から抜け出せるなら苦労しないんだよなぁ」
冬になっても起床時間は誤差5分以内。何故それほどまでに正確な体内時計を有することが出来るのか、エースにとっては長らく解決しない疑問であった。どういうメンタルならこの寒さを跳ね返して起きることが出来るのかも、同様に不可解なことである。
エースだけでなくこの世界を生きる人の多くが持つ悩みに関する疑問に、何でもなさそうに高難易度のことを答えるのが、何ともミストらしいな、とエースは思う。
「ついでにもう1つ理由を付け加えるとするなら、僕が起きなかったらエースは朝ごはんまともに作れないからね」
「いや、俺だって朝ごはんくらいなら」
「エースはホントに簡単なものしか作らないでしょ。それこそパンに何か挟んだり保存してあるハム焼くとかくらいで、その準備はだいたい僕がやってるんだけど」
「うぐっ……」
反撃しようとした矢先に遮られて、言葉に詰まるエース。
ミストの言う『まとも』の要求ラインが高いことが気にはなったが、そのラインがどれだけ下がったとしても、料理だけはミストに任せっきりでほとんどしないエースがそれを満たすことはない。ミストが例に挙げたような、とても簡単な工程のものしか出来ないのは、紛れもない事実だ。
「まぁそれが出来るだけでも最低限のラインは満たしてるけど、それで満足してたら未来の奥さんが泣くよ。全然家事してくれないんだー、って」
「あのな、流石にそんなこと言われないように練習くらいするわ」
「シンプルにそう答えられると面白くないね。初々しいエースは帰ってこないか」
「人で遊ぶな」
朝から精神的に疲れるような、ミストからのからかいの言葉に対して、エースは特にうろたえることなく返答していた。面白くないと言われてしまった答えがすんなりと出てきたのは、『未来の奥さん』という言葉が誰のことを言っているのか、今のエースにはもう分かりきった話だったからだ。
双子であることにより巻き込まれ、双子であることによって解決した、あの夏の夜の騒動。月日が経つのは早いもので、4ヶ月も経った今はすでに完全に過去のものと成り果てて、誰かが触れることも少なくなってきた。ほとんどの生徒教師にとっては他人事でしかない以上、記憶の風化は早い。
だが、それほどまでに長い月日が流れたということは、あの夜の告白からも同じだけの時間を重ねて来た、ということになる。事件が起こった日の夜に、エースは長年の恋を実らせた。それから4ヶ月も経つのだから、関係性の変化にもなじんできた頃である。
それだけの期間だけでなくそれ以前から彼女のことを引き合いに出されながらからかわれていたこともあり、エースもこのからかいにはそれなりに慣れてきた。ただ、今年の始めには全くそんな未来を想像できなかったことを考えると、人はここまで容易く考えを変えられるものなのか、と、自分に驚く部分もある。
「そういや、今日はお弁当いらないんだよね」
「ああ。1週間に1回のお楽しみ。ある意味実験台みたいなものだけど、それでも幸せ」
「そういうのろけ話、朝からするの?」
「するんだなぁこれが」
ミストの呆れ半分の口調に対して、エースはニヤッと笑いながらそう返して、残りの朝ごはんを食べ進めた。目の前のミストもため息を一つ吐いた後に、同じように自らの食事を食べ進めている。
「ところで、朝の一杯どうする?」
「んー……今日はいいかな」
「んじゃ俺も止めとこ。手間かかる割に冷めるの早いし」
今もまだ忌まれる身であることに変わりはなく、あの夏を経て全てが大きく変わったわけではない。生活の大部分は、この学生生活の間ほとんど変化なく過ごしている。
しかしながら、変わらない日常の中で変わったことが全くないわけでもない。1つだけ日常に入り込んだ変化は、夏に掴んだ一握りの幸せがもたらした、エースの心の新たな拠り所になりつつあるお楽しみ。
そのお楽しみを遠足前夜の幼児のような気分で待ちながら、エースはミストと共に、登校前の朝の一時を和やかに過ごすのだった。
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