第16話 知ってしまった想い
依頼の開始日から数えて12日目となる月曜日の朝の、普段ならまだ誰も起きていない時間。
この時間帯は普段ならばミストの方が早く目覚めるのだが、今日に限っては何故か必要以上に早く目が覚めてしまったエースが、自室で寝ぼけ眼をこすっていた。
上体を起こし、いつもの部屋着姿で欠伸をしながらカーテンを開けて外を見ると、まだ薄暗い外には人の気配がなかった。フォンバレン家が道から少し外れている場所にあるとはいえ、人の気配すらしないのはこういう出歩きが少ない時間帯しかない。
もう一度だけ寝ようかとも思ったが、そうすると今度は朝ご飯の時間を過ぎる可能性もある。加えて自分が二度寝できない体質ということもあり、エースは今日はもう起きてしまうことに決めた。早速部屋を出て台所へと向かい、自分のコップに朝の1杯を注ぐ。
そして誰もいないリビングのソファーに腰掛けて、一口含み、リビングのある場所を見つめていた。
そこは、この1週間ちょっとの間、フローラがいつも際どい寝姿を見せていた場所。慣れないまま、毎日ここにある似たような光景に心拍数を無駄に上げて、紅茶と時間経過で少しずつ下げていく日々。そんな光景が、今日はそこになかった。
どうやら、たった少しの間だけしかここになかったものが、いつの間にかエースの日常を浸食していたようだ。ちょっとだけ、心の中が寂しくなる。
「まぁ、あれを見ても無反応を返せるようになるのはさすがに日がいりそう……」
その寂しさをごまかすように独り言を呟いた後、少しだけいつもの光景を脳裏に浮かべながら、紅茶をもう一口飲む。
それで一応寂しさは薄れたのだが、そのために鮮明に思い出しすぎる失敗をしてしまい、エースは恥ずかしさで頬にやや赤くした。
そんな今の状況をミストに見られたならば何かしらいじられそうではあるが、今はやや早すぎてミストでも起きてきていない時間。ミストの体内時計にほとんどブレがないことを、この時エースは少しありがたく思った。
「とはいえ、どうするかな……」
しかしながら、今どう過ごすかを迷っている状況は、言葉にした通り全く変化がなかった。いつもでさえやることがなくなり登校まで困ってしまうのに、早く起きてしまえばその時間はさらに増えてしまう。今のところ、起きるのが早すぎて昼前後の授業で寝てしまいそうな気がするだけで、特に何もないのだ。
結局何か特別なことをすることはせずにリビングやダイニングをうろつきながら暇な時間を削っていくこと十数分。リビングと各部屋を繋げる通路の奥から足音が聞こえ始めた。どうやらミストも起きて来たらしい。
足音の発生から間もなくしてリビングに顔を見せたミストは、目の前に広がる光景を、意外なものを見るような表情で見る。
一方エースは、違和感など一切なしにいつもと変わりない朝の挨拶を投げかける。
「おはよう」
「おはよ。今日は早いね」
「ああ、なんか早く起きてしまった。おかげでやることない」
「……ふーん、なるほどね」
視線が元に戻ったエースの姿だけを見ただけだったが、それだけでもミストはエースの心の内を察したようだった。物分かりのいい弟なのはもちろんエースも知っているので、その理解の早さを今更驚くこともない。
「早く帰ってこないかと待ってる感じ?」
「よく分からないけど、そうかもしれない」
普段ならからかいを否定してミストのペースに持ち込まれて持ち込まれてしまう場面だったが、どうにも内容を否定する気になれず、エースは半肯定のような言葉を返した。なんとなくだが、モヤモヤし始めていることにも気づく。
「なら、今から迎えに行ってあげれば? 今はもうこっちに向かってるかもよ」
「いや、さすがに早くないか?」
いくら家にいるとはいえ、起きるのが苦手なフローラがこの時間に起きてこちらに向かっているとは考えづらい。
だが、それはそれで今のエースには好都合なのかもしれない。そういう相手との遭遇がないということは、考えずに済む、という側面もある。
ただ、心の中のモヤモヤが拭い去れない。からかわれていることを不機嫌に感じているわけではないのに、引っ掛かりが上手くとれない。
「ミスト、ちょっとだけ外歩いてくる。頭冷ましてくる」
「分かった。朝ご飯までには帰って来てよ。タイムリミットは……多分、長くても20分くらいかな」
「そんなに長くは歩かないよ。じゃ、準備して行ってくる」
ミストの念押しも受け止めておいて、エースは出歩き用の着替えをするために部屋に向かった。といっても、学校のある日の散歩で私服姿になると洗濯物が増えて後で仕事量が増えるので、着るのは今日着る予定の制服である。
着替えを済ませたエースは1人玄関から外へと出て、モヤモヤ気分を変えるべく歩き始めるのであった。
* * * * * * *
エースが頭の中に思い描いていた散歩コースは、向かう先を学校か市街地のどちらかに二分する分岐点まで。そこまで距離のある道のりではなく、見知った道でもあるので迷うことはあり得ない。
外を照らす太陽はまだ昇り始めの方だったが、最初に見た時よりも時間が経っているため、少し太陽の位置が上がっている。やや明るくなった町は、目覚めの時間を迎えているようだ。
人の気配も少しずつし始めており、犬の散歩をしている青年や、日課なのだろうか迷いなく2人並んで歩く老夫婦が見かけられる。同じ学校の生徒はさすがに時間が早すぎるためか見かけなかったが、誰にも話しかけられずにいられるのならばエースにとっては割と好都合だった。
それからも見知った人物と出会うこともなく、折り返し地点となる分岐点まで来たエース。このまま帰り道も誰とも会わず、頭の中を総とっかえして、心のモヤモヤを取り去って帰ることが出来れば最高の時間だった。
だが、そうは問屋が卸さないようだった。
「あれ、フォンバレンくん?」
突然自らの名前を聞き覚えのある声で呼ばれて、エースは後ろを振り返る。
そこには、制服を着たいつものフローラの姿があった。1人でいることから、セレシアは先に学校の敷地内へと向かったのだろう。そうでなければ、この時間にここで、しかも1対1で会うことなどあり得ないからだ。
本当ならばそのあり得ないをきちんと体現してほしかったのだが、もちろんそんなことは面と向かって言えることではないので、エースはいつもと変わりない様子を装いつつ言葉を返した。
「おはよう、スプリンコートさん。だいぶ早いな」
「うん、と言ってもまだすごく眠いんだけどね。いつも起こされてるし、そうでなかったとしても今日みたいな時間には起きないから」
前回戻ってきた時にエースがフローラから聞いたのだが、こうして戻る日だけはいつもより起床時間が大幅に早く母親と同じ時間に起きてもあまり余裕がないらしい。前回は朝ご飯を実家で取ったため、電車の兼ね合いもあり学校の始業ベルに間に合わせるのすらそこそこ厳しい時間になったのだった。
その時かなりきつそうだったので、今回は朝食をフォンバレン家で取ることにしたらどうか、と帰省前に提案したのが自分であったことを、エースは今更ながらに思い出した。どうやら、自分の首を絞めようとしたのは自分だったらしい。
ちょっと苦い気分になりつつも、エースは交わされている会話を続けた。
「なんで起きれたの?」
「うーん……なんでだろうね? 私も不思議。みんながびっくりしてたくらいだから」
「まぁ、そこは気合が勝ったということにしとこう」
朝に弱いということを知っているが故に、これほどまでに早く起きれた理由は皆が知りたいところ。しかしながら、本人でさえも分からないのだから、他の人は一生それを知ることはない。
エースは勝手に理由をつけて、納得することにした。
「あ、そうだ、休みの間にしたセレシアとの約束、きちんと果たさなきゃ」
「約束?」
「うん。『帰ったらこれ言ってあげなよー』って」
2人の間で交わされた約束の内容は、もちろんエースには分かるはずもない。ただ、セレシアの入れ知恵らしいので、何となくだがそういうことなのだろうなぁ、と勝手に納得する。
その次の瞬間には、エースが心構えをする余裕すらもなく、その約束が音となってフローラの口から遂行されていた。
「ただいま、フォンバレンくん」
「……おかえり、スプリンコートさん」
言葉そのものは温かかった。静かな場所に響き渡る声はスッと耳から入り、そしてエースの心に伝わった。
見るならばもう少し意識のはっきりとした時間に見たいと思わせるような、綺麗な笑顔で挨拶を口にするフローラ。彼女に一切他意はないだろう。そういう意地の悪いことをする人間ではないことは、長い付き合いで熟知している。裏がない人間だ。そもそもエースの心の内など、知ることが出来るはずもない。
それでも、八つ当たりだとしても、この時少しだけ、エースは『ただいま』の4文字を恨んだ。
悪意の一切ない、ある意味最凶の刃は、入り込んだ途端に急激に温度を下げて心へと突き刺さったからだ。
──もし、この世界に疎まれなければ……この先こんな風に言いあえる時間が、あったかもしれない
そんな想いになった理由は1つ。
自分のフローラに対する想いがどれほどのものなのか、それを今この瞬間にきちんと感じ取ってしまったからだ。分かっていても向き合ってはいけなかった自分の気持ちを、エースは確かに感じてしまった。
世界が作り出した見えない壁は、確かにそこに存在していた。目の前の大切な人は、手を伸ばせば届きそうで、しかし絶対に届かない場所にいる気がした。
だがそれを知ったところで、いつもと同じようにして1日が始まっていくことに変わりはない。今日もまた世界は、何事もなかったかのように時計を動かすのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます