第10話 目覚めの朝



 小鳥たちのさえずりが未だ静かな室内へ、これから騒がしくなる外から聞こえてくる。心地よい日差しがカーテンの隙間から漏れこみ、暗い部屋の中で寝ている人の顔を照らして朝の到来を告げる。


 それはミストにとっていつもと同じ、一日の始まりである。


「ん……」


 ベッドの上で寝ぼけ眼をこすったミストは、顔を二度ぴしゃりと叩いて目を強制的に覚ました。


 ミストの朝の目覚めは、何か特別なことがない限りエースより早い。その理由は2人分の朝御飯を作ることが、彼にとっての日課であるためだ。


 今日もこうしていつものように朝御飯を作りに、ついでに朝の快適な目覚めを実現しようと目覚めのコーヒー――ミストはブラックでは飲めないのでミルクと砂糖入り――を飲みにリビングに向かった。



 まだ静かな家の中、ゆっくりと扉を開けて廊下を歩き、ガラスの張られている戸を開く。ここまでは全く変化の余地がない、いつも通りの日々。


 そうでなくなったのは、ミストがリビングにたどり着いたときだった。


 リビングに入ってきたミストの視線の先、普段ならテーブルが置かれているそこにあったのは――無造作に広がった髪の毛と、微妙にはだけさせた胸元で、寝姿でも色気を醸し出す少女――フローラ・スプリンコートの姿だった。



 眠気を簡単に吹き飛ばすその光景がここにある理由ならば、誰に聞かずとも分かる。昨晩からフローラの護衛という依頼の最中であり、布団を敷くスペースを確保するためにリビングで寝ることを提案したのは他でもないミストだ。発言からまだ半日も経っていない上に自分の発言なのでもちろん覚えている。


 だがそういった一切の事情は関係なく、目の前の光景には目覚めのコーヒーなど比べ物にならないほどの威力があった。ミストとて思春期真っ只中の男子なので、少しだけだが顔を赤くする。


 普段では絶対に誰にも見せない反応が出てくるのは、起床直後ですべてのコントロールが立ち上がり始めている時間だからだ。いつもなら感情をコントロールして隙を見せないことで誰にも突っ込まれないようにするのだが、この時間では細かな制御は利かないため素の感情が出てしまう。


 最も、誰も見ていないので問題ないのだが。


「まいったな……ここまで無防備だとは」


 自身の体つきを省みないその姿にため息をついた後、ミストはいつものルーティンへと入るべく台所へと向かった。


「エースが見たら、どんな反応するかな」


 自分よりもとんでもないことになりそうな、今はまだ寝ている兄のことを考えていたミストの口元には、いたずらな笑みがくっきりと浮かべられていた。







* * * * * * *







 それから十数分後、彼にとっての目覚めの時間がやってきたのを知ってか知らずか、エースはベッドの上で寝起き直後の呆け面でいた。


 数秒後に眠気の残る目をこするとその呆け面は消え去り、すぐに普通の顔になる。


「んん……ああー……」


 周囲を全く気にすることなく精一杯の伸びをした後に、重力に任せて腕を下ろす。だらりと落ちた力感のない腕に力を入れて布団からベッドから抜け出た後は、カーテンを開け放って朝日を部屋いっぱいに入れる。


「今日もいい朝だな……」


 まだまだ残る眠気に落ちそうな瞼を無理やり開いた後は、エースは朝食の準備を手伝いにリビングへと向かうべく自分の部屋を出た。もうすでにミストが起きているだろうと静かな動作になることもなく、いつも通りに廊下の先のガラスの張った扉を開けて入ると、左のキッチンの方から声がかかる。


「おはよ、エース」


「ああ、おはよミスト」


 反対側にある光景を一瞥もせず、キッチンにて目覚めの一杯とでも言うべきストレートティーを昨晩洗ったティーカップに注いで、一口目を口に含んだところで視線がリビングへと始めて向く。


 今のリビングには、寝起きとはいえミストでさえ赤面した光景がまだ展開中である。それを、ミストのようにはコントロール出来ないエースが見るとどうなるか。


「ぶふっ……!?」


 答えは簡単である。驚きで吹き出してしまうのだ。顔にストレートティーがかかる。


「何その反応。ギャグ漫画じゃないんだよ。はいタオル」


「すまん……てか発言メタいわ。いや、それよりもあれ」


 大惨事を防ぐためかティーカップの中に吹いたエースに対してミストはタオルを渡しながら突っ込む。そのミストの発言には、エースが顔を拭きながら突っ込みで返していた。


 彼が吹いた理由は先ほどミストが少しだけ顔を赤くしたのと同じで、未だリビングで寝ているフローラの姿だった。寝起き直後の眠気も、その後の目覚めの感覚も吹き飛ばして羞恥に似た感覚をエースに吹き込む。


「色んなとこに悪いわ……。特に目に。劇薬」


「確かにビックリするよねあれは」


 ミストの言葉を傍らに、今度は何事もなくストレートティーを飲み、それからフローラをもう一度見る。そこにはまだ少しあどけなさが残る寝顔を見せながらすやすやと眠る少女の姿がきちんと現実としてあり、何事もない平和な毎日を感じさせるには十分なものであった。


 実際のところ、そこにフローラがいる、というだけでも非日常に片足を突っ込んでいる状態ではあるが、この際細かいことは気にしない。


「そういやそうだったな……」


 エースは起きてすぐにも関わらず劇薬によって覚醒した脳みそを回転させ、昨日のことを思い出し始めた。


 昨晩1人では寝られないから一緒に寝てほしいと言われ、その後落ち着けるように色々とセッティングした後にフローラが完全に寝入ったのを見計らってエースは自室に戻り就寝したのだ。色々とあったせいですぐには寝られなかったが、それでも十分な睡眠は取れた。


 その結末がこれ、というのは、なかなかに刺激的である。


「熟睡してもらうのは全然いいんだけど、朝起きたら毎回これってのは……なぁ?」


「そうだね。思春期男子には刺激が強すぎる」


「これは耐性……つけられそうにないな。無理。絶対無理」


「頑張れエース。未来のためだ」


「言葉選びがあれだが内容間違ってないのがなんか腹立つ」


 今日もミストにいいようにされることを少し面倒に思いながら、エースは手に持ったティーカップをまた口元にもっていく。残り少ないそれを飲み干す間、色々な考えが脳内を舞う。


「そういやさ、俺ずっと気になってたことあるんだけど」


「何だいエース」


「スプリンコートさんって、なんで俺らの家に来る必要があったんだ? 別に俺らが行き帰りを見守りさえすれば、それでなんとかなるよな。というか家の方が周りの家が気づくし安全だと思うんだけど」


「確かに。なんで僕たちが見る必要があったんだろう? 信頼してもらえてるのはありがたいけど、それでも親といた方が落ち着けるはずだよね」


 何となく頭を回していたエースが行き着き、口にして2人で共有した疑問――『何故、取る必要のないリスクを取ったのか』。


 自宅通いであるはずのフローラならば、こちらに来るよりも家で生活していた方が遥かに自由度が高い。安全の面でもエースが述べたように自宅ならば他の家の人が気づく可能性を考えれば、どう考えても自宅生活の方がメリットがある。


 それなのに、何故こちらでの保護を頼んだのか。どうしても、この疑問への回答が見つからなかった。


「エース……よく寝起きで頭が回るね」


「ん、ああ。今日は劇薬があるから」


「なるほど。まぁ、その疑問に関してはまた校長に聞いてみよう。僕らでどうにかなるものじゃないし」


「そうだな。分からないことはとりあえず校長頼みにしとくか」


 ひとまず浮かんできた疑問を一度しまいこむこととして、シンキングタイムは終了した。考えても分からないものを悩み続けて時間を無駄にするのは、2人ともあまり好きではない。


「じゃあ、そろそろ朝御飯できるから、起こしてくれる?」


「りょーかい」


 何を、と言わなくても今起きていないのは1人だけ。そこは共通認識で補って会話を成立させて、エースは今もリビングですやすやと寝ているフローラの元へ向かい、その肩をつついて起こそうとする。


「起きろー、朝だぞー」


「うー……あと、ごふんだけ……」


 この反応を見るに、どうやら朝にも弱いらしい。いつかエースたちが本人から聞いた、『朝に弱い』という弱点が嘘ではないことを今更ながら知る。


 彼女が起きなくともエースたちは朝御飯の準備は出来るが、その後の準備が出来ず、それは3人揃って学校に遅れるという結末を呼ぶ原因にもなる。よって、どんなことがあってもフローラを起こさなければならず、気持ちよく寝ているフローラに対して、エースは心を鬼にして再び起こす。


「早く起きないとミストが困るってさー」


「んー……」


 それまで寝言のように返していたフローラだったが、エースの二言目で何かに勘づいたのか、驚くほどの速さで跳ね起きる。


 そして顔を真っ赤にして、手で覆って、数秒間悶えて、と非常に騒がしい目覚めである。だが、それを訝しむことも、触れることもなく、エースとミストは何もなかったかのように自然な挨拶を返した。


「おはよ」


「おはよう、スプリンコートさん」


「おはよう……ございます」


 数秒後に手が顔から離れると、湯気が出そうなほど真っ赤な顔になっていたフローラ。就寝、起床共に難があるようである眠り姫は、たった今この家での初の目覚めを迎えた。


 それに対して2人が何かを言うことはなく、笑顔を返した後にフローラの1日も無事に始まったのだった。


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