通過点のケーキ

大野葉子

通過点のケーキ

 パチンと音を立てて電気ケトルが止まる。いそいそとケトルを持ち上げてガラスの急須に湯を注ぐと早速茶葉から色が出始めた。紅茶なのに急須で淹れるのは茶葉にふさわしいティーポットが家にないからだ。

 待つこと三分。

 年代物の白磁のカップに注ぐとかぐわしい香りがカップから立ち上る。

 カップの隣に置かれた白磁の角皿には小ぶりな赤いケーキがちょこんと載っている。近所のパティスリーで買ってきたラズベリーのケーキだ。

 ケーキと紅茶になんとなく手を合わせ、誰にも聞こえないボリュームで「いただきます」の挨拶を。

 まずは紅茶を一口。

 ピンと立った硬質の香りと口の中に広がる強めの味わい。今日も美味しく淹れられた、お気に入りの紅茶の味だ。

 お次はケーキ。

 ゼリーの衣を纏った赤いムースにそろそろとフォークの先を入れていき、最下層にある土台のスポンジまでをひとすくい。口に含むと甘酸っぱいラズベリーの味がふわーっと広がり、そこへスポンジに効かせられた洋酒の香りが遅れて着地した。

「美味しい。」

 またコソコソと感動を形にする。

 金曜日の深夜。

 家族が寝静まった後のダイニングで香織かおりはひとりケーキを楽しんでいる。

 四十を過ぎて深夜のケーキはおのれの脂肪のエサになるだけとわかっていても、今日だけは特別だ。

 家族の誰も褒めてくれなくても、誰も祝ってくれなくても香織にとって今日はとてもおめでたい日。初昇給ならびに昇給後初の給料日。

 働いた時間はいつもと同じなのにこれまでよりも少しだけ多い金額が振り込まれる。

 実際に銀行で記帳してその金額を目にしたときのいつになく華やいだ気持ち。

 これは夫にも子供たちにもわからない感覚に違いない。

 本当はこの嬉しい気持ちを家族と共有したい。よかったね、おめでとう、今まで頑張ってきた甲斐があったね、そんなふうに褒められたい。認めてほしい。

 ケーキだってひとりでつつくのではなく家族みんなとワイワイ食べたい。まあ、そんなことをしたら昇給分の金額が一瞬で飛んでしまうのだが。

 ちびちびとケーキを削り、口に運ぶ香織の表情が一瞬曇る。

(ママにもできる仕事があるんだね、よかったね。)

(たったの五十円でそこまで喜べるとか、気楽でいいね。)

(そんなことで声かけてくんな。)

 もしも香織が家族に対してこの喜びを実際に打ち明けようものならこんな台詞が飛んでくるに決まっている。無神経な夫と主婦を非生産的な社会的に終わった存在として認知している長女と反抗期をこじらせている次女は揃いも揃って言葉を凶器に香織を傷つけることに長けている。

(ここまでよく頑張ってきたよね、私。)

 家族の反応を想像しただけで傷ついてしまった自分の繊細なハートを慰めるべく、香織はケーキをぱくりと食べる。

 甘酸っぱい味わいが心に沁み渡るようで、暗くなりかけた気分が少し持ち直した。


 何も好き好んで正社員の地位を手放したわけではない。

 長女を保育園に入れて職場復帰し、しばらくは働いていたのだ。

 だが、想像していた以上に職場の風当たりが強かったことと、保育園に入って三か月ほど経った頃に長女が入院治療が必要になるほどの病気に二回も罹ってしまったことが重なり、退職を決断した。

 十年近く頑張ってきた仕事を、キャリアを、棒に振って家の中でだけ過ごす日々。

 その後次女も生まれて仕事への未練など考えなくて済む程度には慌ただしく過ごしていたが、子は育つのだ。

 手のかかる時期を脱した子供たちはかわりに出費がかさむようになってきていた。

 ならばと思い、再び働き始めたのだ。

 半分在宅、半分出勤の事務仕事のパートは家事もきちんとこなしながらお金を稼ぎたい香織にはぴったりで、薄給でも文句を言わずに働いている。未経験の業種、職種なので薄給もやむなしと自分の中では納得もしているし。

(あれ?もしかして。)

 ふと気になってフォークを置いて席を立ち、クローゼットにしまいこんだ通帳を取り出す。

 ぱらぱらと遡ると、三年前の今日、給与が振り込まれた記録がある。

(そっか!今月がお仕事三周年!)

 早いものだという感慨がある。慣れない仕事で辛い時期もあったがよく頑張ってきた自分を改めて労いたい。

 そんな気持ちでテーブルに戻り口に運ぶケーキはことさらに甘酸っぱい。

(三年かぁ…。)

 ブランクの間に世間では携帯電話からスマートフォンに変わる等、技術の進歩著しく仕事を取り巻く環境も大きく変わっていた。ペーパーレスだのノマドだのクラウドだのということが進み、フルタイムで働くには条件の悪かった香織のような主婦層もデスクワークに就けるチャンスは広がった。ただその分ライバルも多いので、香織の会社ではスキルアップのための努力を惜しまぬようかなり口酸っぱく指導される。

 香織も社内研修に参加したり資格を取得したりと一所懸命に努力してきた。

 三年経っての時給五十円アップはそういった香織の努力と会社への貢献を会社が認めてくれたことにほかならない。


 けど…。


 ほうっとため息をついて香織はカップの紅茶をすする。

(一番認めてほしいのは家族なんだけどね。)

 今日は香織にとってとても嬉しいことのあった日なのだ。仕事が会社に認められてついに昇給が叶い、そのお給料が振り込まれた日。

 この喜びを家族へ無邪気に伝えたかった。

 どうせとりあってもらえないだろうと伝えることさえしていない。

 買ったケーキもひとつだけというところに一抹の寂しさを感じる。

 思春期の難しい年頃の娘たちはもう数年すればまた普通に接してくれるようになるかもしれない、そう思うこともできる。でも、年とともに無神経さに磨きがかかる夫との間にいつの間にか開いてきてしまったこの隔たりが何かのきっかけで戻ることなどあるのだろうか。

 いや…。

「ケーキ…やっぱりもうひとつ買ってくれば良かったかな。」

 ぽつりと呟いた声がダイニングに響く。それがまた思ったより響いたものでその後の静けさが際立ち、誰もいない部屋で一人でお祝いをしていた寂しさもじわりとこみあげてきてしまった。

 と、そこへ、

「何してるの。」

 眠そうな顔の夫がダイニングの入口に姿を見せた。

「あ…起きてたの?」

「うん?喉が渇いただけ。」

 夫はスタスタと冷蔵庫に近づくと麦茶を取り出してコップも出さずにそのまま飲み始めた。

 香織としてはなんとなく気まずいが食べかけのケーキも飲みかけの紅茶も咄嗟に隠せるものではないのでそのまま黙って夫が麦茶を飲むところを見ていた。

 ふうっと一息ついた夫はテーブルの上のものに気が付いたようだ。

「何、こんな時間に甘いもの?胸やけするよ。」

「あ、うん、あ、いや、一個くらい大丈夫よ。」

「ママは胃腸が強いねぇ。おれは見るだけでお腹いっぱい。」

 夫が肩をすくめて去っていこうとするところへ慌てて声をかける。

「ねえ、今日私ね、お給料日だったの。ちょっとお給料上がったのよ。だからこれはそのお祝いで、いつも夜中に甘いもの食べてるわけじゃないのよ。」

 振り返った夫があくびを噛み殺したような顔をしていたので香織はちょっと後悔した。何故今ケーキの言い訳と昇給の話をしてしまったのだろうかと。

「あ、そうなの?」

 案の定、夫からは適当な返ししか出てこない。

「そうなのよ…。」

 ちょっとはおめでとうとか何とか、労いの言葉とか出てこないものなのか。催促してでも言わせようかなと思ったところで夫に訊かれた。

「今のパート始めて何年だっけ?」

「え?…ちょうど三年。」

「やっと三年か。まだこれからだな。」

「…は!?」

 労いどころかハッピーな気持ちに水を差すような言い回しで返ってきたので香織は片眉を上げたのだが、

「いやだって、三年って仕事を覚えてやっとちょっと面白くなるくらいじゃないの、ふつう。パートはまた違うのかもしれないけどさ。それでも三年で満足するより四年五年経ったらもっと仕事ができるようになってますようにって思ってるほうが印象もいいし楽しいだろ。」

 存外まともなことを言うと夫はへらへらと笑った。

「だからママがこれからもパートを続けて来年も時給上がってたら今度はおれがケーキ買ってくるよ。おやすみ。」

 意外な発言にあっけにとられているうちに夫は香織に背中を向けて歩き出していた。

「おやすみ…。」

 遅ればせながら挨拶を返し、とりあえずフォークを握る。

 手にフォークを持ちながらも頭の中では先ほどの夫の言葉がぐるぐると回っている。

(三年で満足するよりも、か。)

 年次を重ねていくごとに上位のポジションへと出世したり大きい仕事を任されるようになったりという正社員の仕事と今のパートの仕事は違う。

 それでも夫が夫なりの表現で自分を鼓舞しようとしてくれたことが嬉しい。労いの言葉こそなかったけれど。

(そうね、もっと仕事できるようになって、ケーキ買ってもらおう。)

 香織は再びフォークを動かす。

(三周年も五十円の昇給も、通過点だもんね。)

 ふんわりと広がるラズベリーの甘酸っぱさに香織は笑みをこぼした。

「美味しい。」

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