第9話【それは空からやってくる】

「お父様は、あの彗星がやってくることをずっと前から知っていたのよ。禍々しい流れ星が、私たちの大地に災いを運んでくるって」


 研究室に戻ったルナは、一冊の本を取り出しながら言う。

 彼女が手にしている本はとても分厚く、装丁も立派なものだった。革表紙には金色の刺繍で『天体予知』と書かれている。

 丁寧に取り出したその本を台座に置くと、ルナはそっと表紙を開く。バリバリと糊が剥がれる音が、異様に静まり返った研究室に響き渡る。


「禍々しい流れ星の正体は、天魔の卵って言われているわ。どういう形状なのか、私にも分からないけれど」

「その流れ星ってのは、いつ地上に落ちてくるんだ? どれぐらいの被害が出る?」


 椅子に腰かけて、膝に乗せたショウの頭を撫でるユフィーリアはルナに問いかける。

 被害予想を聞いたところで、ユフィーリアがどうこうできるような能力は持ち合わせていない。それでも上官に報告する義務はある。きっと、彼らがなんとかしてくれるはずだ。

 ルナは本のページをめくりながら、


「最短で三日ぐらいかしら。落ちる場所は不明だけれど、天魔の卵が落ちてくれば被害は甚大なものになるでしょうね」


 ルナは赤い瞳でユフィーリアを真っ直ぐに見据えると、


「おそらく【閉ざされた理想郷クローディア】も無事では済まないわよ。今まではなんとか天魔の目から逃げてこられたけれど、今度ばかりは嗅ぎ付けられるかもしれないわ」

「ふん、その前に対策を取るのが奪還軍であろう。幾度となく危機を乗り越えた奪還軍であれば、この程度の難関ぐらいが心地よいものだ」


 偉そうに椅子でふんぞり返るキングに、隣に座ったクイーンが「お兄様、慢心は命取りになるぞ」とたしなめる。そんな彼女の忠告など、キングは高らかな声で笑い飛ばした。


「クイーンよ、なにを恐れる必要がある。奪還軍には戦死者を出さない天才司令官と、数多の使い魔を従える補佐官、そしてなにより最強の天魔憑きであらせられる姉上がいらっしゃるのだ。負ける要素など、万に一つもないだろうに」

「――――と、お兄様は申しておりますが。お姉様、もしそのような状況になられた場合、自信の程は?」


 光を宿さない青い瞳を向けてくるクイーンに、ユフィーリアは肩を竦めてみせる。


「随分と腕を買われちゃいるが、単騎となると限界がある。とっととショウ坊には元の姿に戻ってもらわねえとな」

「うむ、はやくもとのすがたにもどりたい」


 ユフィーリアの膝の上で、ショウはしっかりと頷いた。

 その様子を側で見ていたキングは血涙を流さん勢いでショウを睨みつけ、ギリギリと歯軋りをしながら「羨ましい……羨ましい……」と呪詛を唱えている。さすがにキングの背丈を膝の上に乗せる訳にはいかないので、あえて彼の発言は無視した。

 ルナは「あら」と言うと、


「なら、さっさとちゅ」

「おっと手が滑った」

「アイタッ!? ちょっと、なんでいきなり本を投げつけてくるのよ!! 大切な本なのよ、破れたらどうするつもりなのよ!?」

「そうなったら、うちの上官に報告して時間を巻き戻して元の状態に戻してもらうさ」


 しれっと明後日の方向を見上げて、ユフィーリアは叫ぶルナを軽くあしらう。

 彼女の言いたいことは分かっている。ショウを元の姿に戻すには、粘膜から因子を補う必要があるのだ。それにはショウと唇を重ねることが一番早いのだが、相手は子供の姿である。まだ騎士団に変態として捕まりたくない。

 恨みがましそうに睨みつけてくるルナに、ユフィーリアはもう一冊くれてやろうかとばかりに手近にあった本に手を伸ばす。ショウが膝に乗っているので飛びかかれないのは残念だが、もしショウが膝に乗っていなかったら確実に飛び膝蹴りを叩き込んでいるところだった。

 ユフィーリアの静かな殺気を感じ取ったルナは、軽く咳払いをしてから結論づける。


「とにかく、あの彗星が落ちてきた場合の対策は万全のものがいいわ。ねえユーリ、あなたの上官に報告しておいてくれるかしら?」

「おう、そうしとく」


 ユフィーリアが軽い調子で応じ、話し合いは終了した。


 ☆


【――なるほど、あの彗星が地上に落ちてくるんだね】

「お前のところでも確認ができてるようでよかった」

【一応、僕とスカイも地上には出ているんだ。赤い目の天魔の対策について模索している最中なんだけど……でも、そっか。うん】


 毛繕いの最中である黒猫を介して、グローリアが頷く。


【時間はあまりないってところかな。もしかしたら強行突破するような形になっちゃうかもしれないけど、その部分は覚悟してくれる?】

「その分の給料が支払われるならな」

【現金な性格だなぁ、ユフィーリアは】


 グローリアは仕方がなさそうに【やれやれ、分かったよ】と応じる。この非常事態だからこそ、こんな冗談でもなければ精神的に参ってしまうのだ。

 給金云々の話題のおかげで緊張感がいくらか解れ、ユフィーリアは目の前に広がる荒れ果てた薔薇園に視線を投げる。

 真っ赤な薔薇が咲き乱れる生垣は、二匹の狼の天魔が暴れたせいでひっくり返っていたりバキバキに折られていたりしていた。元々は綺麗な薔薇園だったが、今は無残な状態だ。

 そんな薔薇が咲く生垣に近づき、まじまじと赤い薔薇を観察する子供の姿がある。芳しい香りを放つ薔薇に花を寄せ、すんすんと鼻をひくつかせて匂いを嗅いでいるようだった。


【ショウ君はまだ戻らないの?】

「足りない因子を補ってやれば、あとは【火神ヒジン】の自然治癒能力も発動しているし時間の問題だとよ」

【それで、その足りない因子を補う方法って?】

「…………」


 グローリアの質問に、ユフィーリアは黙秘した。黒猫がわざわざ回ってくるが、ぷいとそっぽを向く。


【ユフィーリア】

「…………キスだってよ」

【へえ】

「おい、なんだその反応は。やってねえよ、変態認定されて騎士団に連行されるからな」


 ユフィーリアだってそのぐらいの常識は持ち合わせている。――今までのあれやそれは、人工呼吸的なあれだ。

 黒猫が目を細めるのに連動して、グローリアもやたら優しい声で言う。


【まあでも、時間が経てば元に戻るんでしょ? なら、もう少し待ってみるのもいいかもしれないね】

「そうするつもりだ、ショウ坊には悪いがな」


 肩を竦めたユフィーリアは、ふと「ゆふぃーりあ」と舌っ足らずな口調で呼ばれたことに気づく。

 見れば、小さな両手いっぱいに赤い薔薇を抱えたショウがてこてこと駆け寄ってきていた。地面に落ちた薔薇を拾ったのだろうか。

 やってきたショウと目線を合わせる為に膝を折り、ユフィーリアは「おう、大量だな」と笑う。


「おちてたからひろった。とてもいーかおりだ」

「よかったな、ショウ坊。きっと、薔薇園を整備してた庭師の奴らの腕がよかったんだろ」


 両手いっぱいに真っ赤な薔薇を抱えるショウの頭を撫でてやると、彼は抱えていた薔薇をユフィーリアに突き出した。


「あげる」

「俺にか?」

「うん」


 ショウは頷く。

 真っ赤な薔薇を受け取ったユフィーリアは、その薔薇の本数を数えてみる。


「一、二、三……二一本か。お前、この意味分かってる?」

「?」


 ユフィーリアの問いかけに、ショウは首を傾げる。意味が分かっていない様子だった。

 横から黒猫を介して眺めていたグローリアが、


【熱烈だね、やるじゃないかショウ君】

「グローリア、帰ったら覚えとけよ」


 ユフィーリアがジロリと黒猫を睨みつけたその時、


「ちょっと、ちょっと嘘でしょ!? お父様は三日後って予想していたのに、早すぎるわ!!」


 バタバタと慌ただしく薔薇園に出てきたルナは、紺碧の空を振り仰いで叫ぶ。

 彼女の視線の先には、地上に迫りくるあの彗星だった。そう言えば、かなり近づいてきているようだが――。

 ルナは弾かれたようにユフィーリアを見やると、


「ちょっと、最強なんでしょ!? なんとかしなさい!!」

「無茶言うなよ。お嬢ちゃん!? あんなのどうにかできたら最強じゃなくて英雄だわ!!」


 ユフィーリアはショウから受け取った薔薇を外套の内側に押し込むと、古城からルナを追いかけて出てきたキングとクイーンに言う。


「行くぞ、あの彗星が思った以上に早く地上にやってくるそうだ!!」

「ええ、もちろん!! どこまでもお供しますぞ、姉上!!」

「はい、お姉様。お任せください!!」


 キングとクイーンがしっかり頷いた姿を確認し、ユフィーリアは心配そうに見上げてくるショウの頭を撫でてやりながら言う。


「ショウ坊はルナのお嬢ちゃんとここにいろ、危ねえからな。――グローリア、すぐに奪還軍の動ける奴を連れてルナサリアまでこい!!」

【分かった、僕もすぐにそっちの方に行くね!!】


 黒猫が「にゃあん」と鳴いたところを確認して、ユフィーリアは彗星が落ちる方向を目指して駆け出した。



【ところで、ショウ君。本当に薔薇の意味は分かっていないのかな?】

「わかってるにきまっているだろう」


 残されたショウは両手で黒猫を抱きかかえると、こそこそと小さな声で言う。


「よのなか、よけいなことをいわないほうがいいときもある」

【……君、随分と策士だね】


 黒猫を介するグローリアは、思ったよりも賢しいショウに苦笑するのだった。

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