第6話【離れないでと願う君】

「はー、怒涛の一日だった……」


 縁側に腰掛けたユフィーリアは、疲れたようにため息を漏らす。

 ワノクニまでほぼ半日かかり、そこからショウの自宅に度肝を抜かれ、おもてなしはショウの幼馴染であるナンブ家が総出で行い、ようやくどんちゃん騒ぎから解放されればすでに真夜中になっていた。

 紺碧の空に星はなく、ぽっかりと浮かぶ十六夜いざよいの月だけが物寂しい雰囲気を醸す。冷たい夜風が頬を撫で、ユフィーリアの銀髪を揺らした。


「ワノクニは静かなところだな」


 感慨深げに呟くと、ユフィーリアは引きずってきた黒い外套の内側を漁り、煙草の箱とジッポーを取り出す。

 黒い煙草を咥えた彼女は、慣れた手つきで先端に火を灯した。毒素を孕んだ苦い紫煙を、そっと夜空に向かって吐き出す。

閉ざされた理想郷クローディア】は昼も夜も騒がしく、閉鎖された地下空間でも人々は元気に暮らしている。モグラのように地中で暮らしているにもかかわらず、その不便さなど意に介した様子はない。


「静かすぎて、逆に怖いな」


 こんなに静かな夜は、【閉ざされた理想郷】に到達する前以来だろうか。

 あの時は天魔の脅威に警戒しながら大人数で移動していたので、常に気を張っていた為か全然休めなかった。今でこそ【閉ざされた理想郷】で安心して暮らしているが、あの時の緊張感に似ている。

 胃の腑にのしかかる異物感が飲み込めない。ユフィーリアは着古したシャツの上から腹の辺りをさすると、背後で誰かが蠢く気配を素早く察知した。


「……ユフィーリア……? 眠れないのか?」

「おう、ショウ坊。起こしたか?」


 振り返ると、障子の隙間から顔を覗かせたショウが、眠たげに赤い瞳を擦って縁側までやってくる。

 普通にショウが隣に座ってきたので、ユフィーリアは毒素を孕んだ副流煙が相棒のもとまで行かないように顔を背ける。ショウも危険な煙草であることは理解しているので、顔を背けたところで何も言わない。


「起きたら、ユフィーリアがいなかったので……心配した」

「勝手に外を出歩くほど、俺は無用心じゃねえぞ」

「そうではない……そうではないんだ」

「?」


 ショウはキュッと唇を引き結ぶ。口布をしていないせいか、いつもより感情表現が豊かだ。

 なにか心配ごとでもあったのだろうか、とユフィーリアは首を傾げる。さすがに夜のワノクニを一人で出歩くような真似はしないつもりだが、それ以外だろうか?


「……ユフィーリアを、ワノクニに連れ込まなければよかった。いいや、そもそも俺一人で訪れるべきだったのだ」

「でも、乗車券とやらが四枚も入ってたじゃねえか。同業者の好意だろ?」

「その好意が罠だとしたら?」

「……おっと、そうきたか」


 まさしくグローリアが考えそうな卑怯な手口である。いや、さすがのグローリアもここまで卑怯な手は使ったことがないか。

 苦笑するユフィーリアの横で、ショウが後悔するように項垂れる。


「これでもし、ユフィーリアや、イーストエンド司令官たちに危害が及ぶと考えれば……俺は恐ろしくなる。俺の判断一つで、この天魔との戦争に勝てなくなる」

「おいおい、そこまで深刻な問題か? 俺にはそう見えねえけど」


 思った以上に物事を深刻な方向で考えるショウに、ユフィーリアは軽い口調で返す。

 たかがワノクニに連れてこられた時点で、まだなにもされていないのに。乗車券まで手配してくれたのだから、罠だとしてもそこまで悪く考えないと思うが。

 能天気なことを考えるユフィーリアだったが、


「ユフィーリア」

「うおッ!?」


 いきなりショウに抱きつかれて、ユフィーリアは思わず咥えていた煙草を明後日の方向へ投げつける。地面に落ちた煙草は小さな火を燻らせていたが、それよりも驚いたのがショウの大胆すぎる抱擁だ。

 こいつ、一体どうした。夕飯のナンブ家のもてなしの際に、なにか悪いものでも食べたのだろうか。

 冷やかしの言葉でもかけてやろうとしたユフィーリアだが、相棒の華奢な両腕が小刻みに震えていることに気づいて、揶揄からかいの言葉が吹き飛んだ。


「……頼む、俺から離れないでくれ」


 祈るような口ぶりに、ユフィーリアはなにも言えなくなる。いつものような軽口でさえも、どこか記憶の彼方に飛んで行った。


「ユフィーリアだけは……失いたくない……」


 彼に一体なにがあったのか。

 彼は一体なにを知っているのか。

 ユフィーリアにはそれを察知することはできないが、本心からユフィーリアの喪失を恐れるショウに、彼女は小さな頭をポンポンと撫でて答えた。


「分かったよ」

「……いいのか?」

「自分で言っておいてそれかよ」


 苦笑いを浮かべたユフィーリアは、


「お前がなにを知っているのか、なにを思っているのか、俺は分かんねえ。お前がどういう事情を抱えているのかも、お前が進んで話さない限りは根掘り葉掘り聞こうとは思わねえよ」


 真っ直ぐに不安な色を滲ませる赤い双眸を見据えて、ユフィーリアは言う。


「でも、お前が離れてほしくないと言うならそうする。俺はワノクニの作法なんざ知らねえからな、ここの勝手が分かるお前の判断に従うさ」

「…………ありがとう、ユフィーリア」


 安堵したように笑うショウは、


「そう言ってくれて、嬉しい」


 月明かりに照らされる彼の微笑は、まさしく絵になるほど美しい。

 滅多に拝めない微笑を目の当たりにし、ユフィーリアは素直に「役得だな」と思った。なんか分からないがありがとう、ワノクニ。

 ユフィーリアは縁側から立ち上がって、地面に落ちた煙草の火を踏み消す。さすがに他人の家の庭に吸殻を捨てる訳にはいかないので、きちんと回収した。


「さて、もう深夜だ。寝ようぜ」

「ああ」

「つーか、ワノクニの夜って静かすぎじゃねえか? 静かすぎて逆に怖いんだけど」

「ユフィーリアは慣れないか?」

「【閉ざされた理想郷】の方が賑やかだからな。ここまで静かだと、野営の時を思い出してゆっくり休めねえ」


 肩を竦めたユフィーリアが部屋に戻ると、薄暗く広い客間に五組の布団が並べられていた。

 そのうちの三組はすでにグローリア、スカイ、八雲神が使用している。彼らが起きる気配は一切なく、このまま朝までぐっすりだろう。

 空いているのはちょうど真ん中と、その右隣。――普通は男女別の部屋をあてがうものだと思っていたのだが、何故かこうして男子とも一緒に寝てしまっている。ユフィーリアは元々男なので、こういうことは気にしない性格なのだが。


「よーし、おやすみショウ坊」

「待てユフィーリア」

「なんだよ」

「何故同衾どうきんする必要が?」


 ユフィーリアは「あん?」と首を傾げる。

 彼女は強制的にショウを同じ布団の中に引きずり込み、その高い体温を享受しながら寝ようとしたのだが、どうも相棒様はそれが気に食わないらしい。つい先程、彼が「離れないでくれ」と言ったが故の策なのに。


「お前が離れるなって言ったんだろ」

「そうだけど、そうじゃない」

「我儘な奴だな。お前のご要望にお応えして、今日はそんなに露出してねえだろ」


 今のユフィーリアの格好は、着古したシャツに厚手の軍用ズボンという外套を除いたいつもの格好だった。青少年に不埒な想いを抱かせるような格好をした覚えはない。

 しかし、ショウは「離してくれ、離してくれ」と小声で訴えてくる。先程の主張とはまるっと変わっている。


「じゃあどうすりゃいいんだ」

「せめて隣の布団で寝かせてくれ」

「あー、子供体温が心地いいー」

「話を聞いてくれ、頼むから、話を聞い――――くそ、離れないッ!!」


 ショウの体温があまりにも心地よく、ユフィーリアはすぐに眠りの世界へと誘われた。


 次の日の朝、シクシクと静かに泣くショウを抱き枕にして眠るユフィーリアの姿が目撃されることになる。

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