第1話【海、海、海!】

 ザザン、と波の音が耳朶じだに触れる。

 輝く白い砂浜、遥か遠くに臨む水平線。

 空から謎の怪物は雨の如く降り注いでいるものの、澄み渡った晴空を見せている。

 そして、


「うーみだーい!!」


 どこまでも広く青い海に、野郎どもの歓声が響き渡る。

 キラキラと輝く海面を蹴飛ばし、野太い声を上げながらむさ苦しい男どもが楽しそうにはしゃいでいる。はた目から見ていて、鬱陶しく思ってしまうのは何故だろうか。

 波打ち際ではしゃぐむさ苦しい野郎どもをぼんやり眺めながら、銀髪の美女は深々とため息を吐く。


「……こんなむさ苦しいサービスシーンなんざァ、一体誰が喜ぶんだよ」


 げんなりとした様子でため息を吐く彼女は、目の前に広がる青い海の輝きすらかすむほど美しい。

 透き通るような銀髪に気品漂う色鮮やかな碧眼、人形の如き整った造形の顔立ちはこの世のあらゆる美しいものを否定できるだろう。白磁の肌は日焼けの恐ろしさなど知らず、燦々さんさんと降り注ぐ陽光の下に晒されている。

 そんな美女だが、自分を着飾るという意識は全くないらしい。着古したシャツと軍用ズボン、そして頑丈な軍靴という洒落っ気の欠片も感じられない簡素な服装の上から、漆黒の外套を羽織っていた。細い腰を強調するように巻き付けられた帯刀ベルトには、黒鞘の大太刀が吊り下げられている。

 銀髪碧眼の美女――ユフィーリア・エイクトベルは「うへぁ」とばかりに顔を顰めると、


「大体、なんでこんなむさ苦しい野郎どもと海水浴なんかに行かなきゃいけねえんだよ。華がないだろ、華が」

「そうは言っても、奪還軍は九割が男性だ。仕方がないだろう」


 彼女に意見してきたのは、黒髪赤眼の少年である。

 鈴がついた赤い髪紐で戒められた艶のある黒髪に、炯々と輝く赤い双眸。黒い布によって顔の半分以上は隠されているものの、その儚げな印象までは隠せていない。

 華奢な体躯が纏うものは袖と裾の部分に赤いかすり模様が入った黒い上着と、膝丈までの黒いズボンという海に適した服装である。ご丁寧なことに、ズボンは撥水はっすい性の高い布で作られている徹底ぶりだ。

 黒髪赤眼の少年――ショウ・アズマは、ユフィーリアの格好を上から下まで眺めると、


「ユフィーリアは着替えないのか?」

「いや別に泳ぐ訳じゃねえし」

「……つかぬことを聞くが、ユフィーリア、貴様は泳げないのか?」

「…………」


 疑うような赤い瞳からそっと視線を逸らしたユフィーリアは、小さな声で「そんなことねえし」と強がる。

 今まで泳ぐ必要性に駆られなかっただけであって、ユフィーリアは金槌カナヅチではない。ただ海が苦手なだけだ。水が口の中に入るとしょっぱいし、表面上は美しいがその下に広がる暗い死の世界は誰もが恐怖心を抱く場所だ。いくら人間をやめたとはいえ、水の中に潜れば呼吸ができずにそのまま溺死してしまう。

 言い訳じみた文章をつらつらと並べてみたが、要するにユフィーリアは海が苦手なのだった。

 しかし、相棒の少年であるショウにはユフィーリアの心の中が読めてしまったのか、


「泳げない訳ではないが、海が苦手と」

「…………いや別に」

「反論が数秒遅かったぞ」

「泳げるし。海も別に苦手じゃねえし」

「先程から視線が全く合わないのだが」

「別に海の水がしょっぱいからとか、初めて海を見た時にはしゃいで足攣って溺れかけたから嫌だとか、そんなこと思ってねえし」

「ユフィーリア、今苦手な理由を喋ってしまったのだが自覚はあるか?」


 ショウはやれやれと肩を竦めると、


「しかし、ユフィーリア。今回ばかりは着替えなくてはダメだぞ。まだ任務まで時間はあるが、戦場は海の底なのだから」

「分かってるっての。海底に作った奪還軍の支部から異常事態の連絡があったんだろ、海賊船が見えただとかどうとか」


 ユフィーリアは吐き捨てるように言うと、


「だけど今回ばかりは俺も頼りにならねえかもしれねえぞ。なんせ切断術は見える相手にしか効かねえからな、見えねえ敵にはどうにもならねえ」


 ユフィーリアは天魔最強と名高い鬼神【銀月鬼ギンゲツキ】と契約して天魔憑きとなり、目に見える如何なるものでも距離・空間・硬度を無視して切断する『切断術』という異能力を手に入れた。この能力はユフィーリアの視力に依存し、当然ながら幽霊などを切断するには霊感という特殊技能が必要になってくる。だが残念ながら、ユフィーリアには霊感という特殊技能は備わっていないのだ。

 なので海底を動き回る海賊船を見たと報告されても、もしそれが幽霊船だったとしたらユフィーリアはなにも役に立たないのだ。

 野郎どもだけがはしゃぐ海をぼんやりと眺めながら、ユフィーリアは「やっぱり華がねえよなァ」と呟く。


「ユフィーリア、それでは着替えない理由にはならんぞ」

「…………」

「着替えを持ってきていないという訳ではないだろう。一応用意していると言っていたではないか」

「………………」

「ユフィーリア?」

「分かった分かった分かったっての!! 着替えるよ着替えりゃいいんだろ!!」


 なんなんだよもう、と口の中で呟いて、ユフィーリアはまず帯刀ベルトを外した。それから黒い外套を脱いで、ショウに「持ってろ」と投げて渡す。

 着古したシャツと軍用ズボンという簡素な格好になったユフィーリアは、プツプツとシャツのボタンを一つずつ外していった。一つボタンを外すと、その下に着ている黒い肌着が徐々に姿を見せた。


「ユフィーリア、せめて岩陰に隠れるか……!!」

「脱ぐだけだろ。この下に着てんだよ」


 ショウの忠告を無視してシャツを脱ぎ捨てたユフィーリアは、その下に着ていた黒い肌着もあっさりと脱ぐ。

 最後の砦である黒い肌着を脱ぎ捨てると、輝かんばかりの白い肌が晒された。豊かな双丘を覆うのは、模様すらない真っ黒なビキニである。それ以外の布はなく、括れた腰も思いの外鍛えられた腹筋も全てが曝け出される。

 潮風に揺れる銀髪を掻いたユフィーリアは、降り注ぐ陽光の暑さに眉根を寄せる。


「あっつ……なんでこんなに暑いんだよ……」


 吐き捨てるように言うユフィーリアは、手で庇を作って青い空を見上げる。

 ここが海でもその景色は変わらない。

 空からは、雨のように黒い影のようなものが無数に降り注ぐ。大半は海めがけて落ちていき、泳げずにもがき苦しんで沈んでいった。生まれ落ちて間もなく泳げるはずもなく、溺死しか選択肢がないとは可哀想に。

 それは犬のような怪物であり、樹木のような怪物であり、岩のような怪物であり、貝殻のような怪物であり、様々な姿形をした怪物の群れだった。

 ――天から落ちる魔物、天魔。

 地上を我が物顔で闊歩かっぽするあれらの怪物たちを駆逐し、平穏を奪還する為に日夜戦っているのがユフィーリアたち『アルカディア奪還軍』なのだ。


「うん、今日も天魔は元気に降ってるなァ」


 うんざりしたように呟いたユフィーリアは、いつのまにか海が静かになっていることに気づいた。ザザ、ザザという波の音と風の音しか聞こえてこず、それまで楽しそうにはしゃいでいた野郎どもはみんなしてユフィーリアに注目していた。

 考えても見てほしい。

 ユフィーリア・エイクトベルという女は、口調こそ粗雑で乱暴なものだが、外見だけはとても美しい。高級人形もかくやとばかりの容姿に、星の数ほどの男が騙された。今ではすっかり誰もユフィーリアを女扱いしないし、ユフィーリアも女扱いされるなんて気持ち悪いと思っている節さえある。

 しかし、そう言ったとしても彼女はやはり美しい。べらぼうに美しい。そして抜群のプロポーションに男どもが見惚れるのは至極当然のことだ。――特に胸の辺り。


「ユフィーリア」

「ンだよ、ショウ坊。やたら真剣な顔をして」


 相棒に呼びかけられて振り向いたユフィーリアに、ショウは預かっていた黒い外套を羽織らせる。だが外套に前を留めるボタンがないことに気づいて、慌てて自分の上着もユフィーリアに被せた。

 彼女の白い肌を隠すと、奪還軍の同胞たちから「なんで隠すんだよ」「もっと見せろよ」などと野次が飛んでくるが、ショウはそれらを聞こえないフリして首を傾げるユフィーリアに言う。


「あまり、その、肌を見せないでくれ。狼どもに襲われでもしたら大変だ」

「え、暑いから嫌だけど」


 あっさりとショウの頼みを拒否すると、ユフィーリアは「返す」と短く言い捨ててショウの上着を突き返した。そして元のように大太刀を吊り下げた帯刀ベルトを腰に巻きつけ、脱いだシャツと肌着は適当に畳んで外套の内側に放り込む。


「やっぱり暑いなァおい」


 腰の部分で外套を留めているようなものなので、襟元からビキニで覆われた豊かな双丘とその下に続く白い腹がチラリと垣間見える。――ビキニの状態よりも、状況は悪化したと思うべきなのだろうか。

 その隣でショウがなんとか上着を羽織らせようとしてくるが、ユフィーリアは「鬱陶しいからやめろ」と無碍に払っていた。

 その時である。


「うっほほーい、お久しぶりですねけしからん乳をしやがってこのやろおおおおおおおおおおおおお!!」

「うぎゃああ!?」


 背後から唐突に襲いかかってきた何某に、ユフィーリアは悲鳴を上げた。その誰かが脇をすり抜けてユフィーリアの胸元に手を伸ばし、豊かな双丘を鷲掴みにしてきたのだ。

 空の色を写し込んだかのような青い髪と深海のような藍色の瞳、愛らしい顔立ちであるが表情はなにやら憎悪に満ちている。

 海女のように全身を撥水性の高い布で覆っている為か、起伏の少ない華奢な体躯がもろに分かってしまう。だが、ほっそりとした手足に淡雪のような白い肌は女性らしく美しい。ユフィーリアに抱きつく彼女は白魚のような指先をたわわな果実に埋め込み、その柔らかさを存分に堪能しているようだった。


「きっさまあああああよくもまあこんな禁断の果実をお天道様の下に晒して平気な顔でいられるなこの兵器を寄越せ今すぐウチに寄越しなさああい!!」

「イデデデデデ本気でもぐ気かシズク!! やめろ放せえええ!!」


 青い髪の女性――シズク・ルナーティアは「うがああああ」と奇声を上げながらユフィーリアの背中にしがみつくが、彼女の後ろからショウが拳骨を叩き込みユフィーリアから引き剥がした。それから相手が異性であることも厭わず、関節技を決めて永遠に黙らせようとする。

 腕を捻られてもなおユフィーリアを狙おうとするシズクは、後ろから聞こえてきた「おーいシズクー」という声に我に返った。


「ダメ、スバル!! きちゃダメ!! この先は魔境だよぉ!!」

「え、え? 一体どうしちゃったのシズク。なにが魔境なの?」


 遅れてやってきたのは、茶色の髪を持つ少年だった。

 明るめの茶色の髪に黒曜石の瞳、顔立ちはやや幼めで実年齢から五歳ほど差し引いても問題ないだろう。童顔の割に体はきちんと鍛えられているのか、白いシャツや膝丈の水着から覗く手足は意外とがっしりしている。

 ユフィーリアは青い瞳を瞬かせると、遅れてやってきた少年に「よう」と手を振った。


「スバル、この馬鹿をちゃんと見張っててくれよ」

「あはは……すみません、ご迷惑をおかけしました」


 ショウに関節技を決められてもなお暴れるシズクに、少年――スバル・ハルシーナが苦笑する。

 うがあああああ、と狂ったように暴れるシズクの絶叫が青空に響き渡るのだった。

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