第6話【母親ヅラするな】

 スカイは震えていた。

 艶やかに微笑むあの女が、吐くほど嫌いだった。そして半分でも自分の中にあの女の血が流れているという事実が、嫌で嫌で仕方がなかった。あの女の影が脳裏をよぎれば、すぐさま首を吊って自殺を図りたくなるほどに。

 リリィ・エルクラシス。

 それは、紛れもなくスカイの実のだった。


「どうしたんだい、坊や。この産湯うぶゆのような夢の世界を自らの手で壊して、お前はなにがしたい?」

「リリィ……!!」


 スカイは歯噛みする。

 唾棄だきすべき存在である。会話することだって嫌だ。同じ空間で呼吸をしていることすら、口が臭くなると思ってしまうほどに嫌いな相手だ。

 それなのに、この両足は地面に縫い付けられたように動かない。

 冷や汗を流すスカイは、悪態の一つも吐けずに母親であるリリィを睨みつけるばかりだった。

 そんな息子の反応が面白いのか、クスクスとリリィは笑っている。


「怖い怖い。久しぶりの親子の再会だっていうのに、どうしてそんなに睨んでくるんだい?」

「アンタを親だと思ったことは一度だってねーッス」


 反抗の精神を表すように、スカイは唾を吐き捨てた。


「アンタの汚い股ぐらから生まれたことだって、思い出したくもねーッス」

「おやおや、随分と反抗的じゃないかい。ここがどこだか分かっているんだろう?」


 リリィが白魚のような指先をパチリと鳴らすと、それまで外から聞こえていた断末魔や悲鳴が消え失せた。

 怪訝な視線を窓の外へ投げたスカイは、すぐに納得したように頷く。

 燃えているはずの空が、漆黒に染められていた。太陽も月も星もなく、ただの深淵が広がっている。そしてその下に広がっている炎に包まれた王都は、なにもかもがピタリと静止していた。逃げ回る人類も、それを追いかけ回す天魔憑てんまつきも、全てがグローリアの『時間静止クロノグラフ』によって止められたように。


「なるほど、ここはアンタの世界ッスか」

「そうさね。よぅく分かってるじゃないかい」


 クスクスと楽しそうに笑うリリィに、スカイは舌打ちをくれる。実に精巧にできた世界はスカイの記憶から読み取ったもので、グローロアやユフィーリアやショウたちが上手く再現されていたのもスカイの記憶の中にある彼らを参考にしたか。

 そんなことがすぐに分かってしまう自分が恨めしく感じると共に、今までこの女の手のひらの上で転がされていたという事実を知って死にたくなった。首を吊ることを思いとどまったのは、大理石の床で今もまだ目覚めず転がっているグローリアの姿を見てからだろう。

 ここで自害をしたところで意味などない。おそらく目の前の女は悲しむことすらしない。


「この夢の世界に閉じ込めて、アンタはなにがしたかったんスか」

「別に? お前が戸惑って苦しむ様が見たかったからに決まってるじゃないかい」


 けらけらとなんでもない調子で笑う彼女だが、スカイの機嫌は地の底まで落ちていた。地の底まで落ちるどころか、足元の大理石の床をめり込まない勢いで下落していた。

 本当にこの女だけは気に食わない。今すぐ殺して自分も死んでやりたい。

 この女と血の繋がりがあるというだけで唾棄すべき事実なのに、どうして体が動かないのか。どうしてこの女を殺すことができないのか!

 舌打ちをしたスカイは、断ち切ったはずの共有術を発動させる。狙うは大理石の床の上を転がる三人――彼らであれば、あのアバズレを殺すことができるだろう。


「起きろ!! いつまで寝てるッスか!!」


 スカイの激昂が王宮内にこだまする。

 すると、今まで眠っていたはずの三人が、まるで操り人形よろしくゆらりと立ち上がる。天空から見えない糸で吊り下げられているかのように動きに滑らかさがなく、しかしスカイはそのまま無造作にリリィへ突撃するように命じる。

 余裕綽々とした表情を浮かべるリリィは、


「あらあら、随分とに似てきたものじゃないかい」


 とてもとても楽しそうに、右の細腕を横へ振るった。

 それだけで。

 それだけで、ユフィーリアが、ショウが、グローリアが、


「――――――――」


 スカイの思考回路が止まった。

 それと同時に、共有していた痛覚がスカイに直接流れ込んできた。体を乱暴に引き裂かれたような焼けつく痛みが脳髄まで支配して、スカイは堪らず大理石の床に身を投げ出して叫ぶ。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

「おやおや、痛覚まで共有していたのかい? あの人はそんな間抜けなことはしなかったけどねぇ」


 パチンと指を弾く音。

 リリィがほっそりとした指を鳴らすと、どこからか赤い椅子が出現した。どろりとした液体が湧き出てきて、それが椅子の形をなして固まる。

 赤い椅子にどっかりと腰かけると、リリィは肉感のある足を組んでのたうち回るスカイを楽しそうに見下ろす。まるでそれが一つの見せ物だとでも言いたげに。

 ああ、あの目。

 愛情と愉悦と恍惚こうこつと――それからなんだろう、欲情だろうか。それらの感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った、あの目。

 痛みも忘れて、スカイは恐怖を感じた。あの目は、息子たるスカイに向けるものではない。スカイを通してなにを見ている?


「――スカイ、ああ、私の可愛い坊や」


 うっとり、と。

 リリィは、心の底から愛おしいという感情をこれでもかと滲ませて、言う。


「数多の魔物を従える天魔――【魔王マオウ】と私の、愛しい息子よ。まだそんな無様な姿を見せているの?」


 痛みが遠のく。

 耳鳴りがする。

 その事実は、その真実は、誰一人として知らないスカイの汚点。グローリアだって、この可能性にすら気づいていないだろう。

 ただの天魔憑きが、他人と感覚を共有するだけの共有術で、広大な情報網を築けると思うだろうか。共有術の適用範囲は自分から半径一キロがせいぜいで、使いどころがない術式である。広大な情報網を築けたのは、使い魔にスカイの術式すらも共有させたからである。

 そんな器用な芸当が、他の天魔憑きにできるだろうか。

 ――答えは否だ。


「……あー、本当に、本当に幻想でも、なんでも、この場に知り合いがいなくてよかったッスわ」


 全身にわだかまる痛みを堪えて、スカイは大理石の床から起き上がる。

 ボサボサの赤い髪を掻き上げて、彼は真っ直ぐに忌々しい母親を睨みつけた。


「だから何度も死にたいと思ったんスよ。が、人間に加担してていー訳がねーんスよ」


 スカイ・エルクラシスは人間ではない。

 天魔憑きという人間を超越した存在ではあるものの、元より人間ではなかったのだ。

 彼は自分と契約した天魔である【魔王】を父親とし、目の前の憎き母親の股ぐらから生まれてきた天魔と人間の子供だ。


「目論見が外れたねぇ。まさか【魔王】の精神がお前如きを乗っ取れないなんてねぇ」

「…………」


 リリィは残念だとばかりに言うが、スカイは口を噤んだ。

 スカイが生まれた理由は、父親たる【魔王】と契約をして肉の器になる為だ。その全てを【魔王】へ明け渡し、お前は死ねと暗に母親から言われていたのだ。

 しかし、リリィの目論見は失敗した。スカイの精神はこの世に残り、契約者の【魔王】はスカイへ共有術を明け渡すと深層意識に引きこもった。そのままなにも語りかけないまま、長い年月を過ごした。

 細く長い息を吐いて、スカイはようやく立ち上がるにまで至る。リリィは感心したように「へえ、強くなったねぇ」と言うが、


「――母親ヅラしてんじゃねーッス」


 吐き捨てた。


「何度でも言うッスけど、ボクはアンタを母親だと思ったことは一度だってねーッス。世界中のどこの母親が、化け物に喜んで息子を差し出すんスか。ちったァ頭使えッスよこのアバズレが」


 この夢の世界では、リリィが主役だ。だからどう足掻いたって、この世界ではリリィに勝てない。

 ならばどうするか。

 どうすればリリィに勝てるか、あの女を圧倒できるか、この世界から脱出できるか。


(リリィに共有術で支配するのは悪手ッス。この世界はあのババアの独壇場――ボクにできることと言えば誰かを洗脳して支配下に置くだけッス)


 手駒で最も強いものは消えてしまった。

 残った手駒であの絶対君主を倒せるとは到底思えない。

 スカイは自分の中で使えるものを選んで、選んで、選んで選んで選んで選んで選んで選んで選んで選んで選んで選んで選んで選んで。

 ――そして、ようやく思いついた。


「そッスか。あー、そッスね。言い換えてみれば、あー、そーッスよ」


 スカイは額を押さえて、笑った。

 自分の間違いに気づいて、おかしくなってしまった。

 何故、今まで気づかなかったのだろう。そうすることができれば、できたはずなのに。その可能性を最初から排除していた。理論としては十分に実現可能で、リリィを圧倒できるかもしれない唯一の手段だ。


「このババア、覚悟しろッス」


 スカイは、前髪の下にある翡翠色の瞳を輝かせる。

 そして。

 そして――――。


 ☆


 有象無象の怪物に囲まれている。

 誰も彼もが頭を垂れて、その瞬間を待ち望んでいる。

 祭壇に掲げられているのは、小さな赤い髪の子供だ。もしゃもしゃとした赤い髪は毒々しい色合いで、前髪で目元を完全に覆い隠している。ろくに食事も与えられていないのか、手も足も枝のように痩せ細っている。


【――貴様はここで死ぬのか】

「たぶん」


 子供は言う。

 祭壇に向かっているのは、黒い人影のようなものだった。おそらく無理やり人の姿を保っているのだろうが、肌が竜の鱗のようにゴツゴツとしている。ぎょろりと蠢く赤い瞳には、魔法陣が浮かんでいた。


【死にたいのか】

「しにたくはないかな」


 子供の言葉は、思いのほか流暢だった。誰にも言葉を習っていないはずなのに、何故か言葉が喋られるようになっていた。


【――ならば】

「ならば?」


 黒い人影は、懇願するように言う。


【――私と取引をしよう】

「…………」


 子供は答えた。


「かってにすれば」


 随分と素っ気なかったかもしれない。

 それでもよかった。生きようが、死のうが、どうでもよかった。どっちでもよかった。絶望しかないこの世界で、生きていたくなかった。


【――私はもう疲れた。だから、貴様が次の王となれ】


 黒い人影は、子供の薄い胸板に手を添える。そしてずぶり、と子供の胸板に腕を突き入れる。

 痛みは不思議となかった。体を探られると同時に、この黒い人影と繋がるような気がした。


「――おとうさん」


 乾いた唇が、ひび割れた声を紡ぐ。

 自らの父親は小さく笑って、


【私の全てを背負わせてすまない。――だが、もう疲れた。貴様は好きに生きろ】

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