第8話【暴走する魔女】

 視界が白銀に塗り潰される。

 横から、前から、全方位から吹雪が襲いかかり、生きている全てのものを凍らせんとばかりに猛威を振るう。ごうごうと吹き荒れる風を掻き消すように、吹雪を巻き起こす原因となった老婆の悲鳴が曇天へ轟く。


「あああああああああ、ああああああああああああああ、あああああああああああ、ああああああああああ!!」


 まるで意味をなしていない母音の羅列。

 荒れ狂う風に乱される銀髪を押さえて、ユフィーリアは懐に隠した暖房具の代わりとなっている火球入りの瓶を抱える。先ほどまではきちんと温かかったのに、今ではこの瓶の暖房具もどきだけで寒さを凌ぐことができない。


「寒い!! 何度も言うけどクソ寒い!!」

「視界も最悪だ!! どうするユフィーリア!?」

「どうするもなにも、逃げるしかねえだろ!!」


 こんな猛吹雪に見舞われても逃げずに老婆へ立ち向かうとか、正気の沙汰ではない。

 叫ぶ老婆をさっさと見放すことにしたユフィーリアは、ショウとグローリアを連れて吹雪の及ばない位置まで逃げようとしたのだが、


「エリス、エリス!!」

「あ、おいグローリア!!」


 吹雪のせいでユフィーリアの拘束が弱まったのを好機と見たか、グローリアが崖下で悲鳴を上げる老婆へ駆け寄っていく。

 縄でふん縛っておけばよかったと胸中で後悔しながら、ユフィーリアは吹雪の向こうに消えていくグローリアを追いかける。なにも言わずともショウもユフィーリアと共に、グローリアを追いかけた。


「エリス!! 助けにきたよ!!」

「ああああああ、ああああああああ」


 拒絶するように吹雪の威力を強める老婆に、崖下へ飛び降りたグローリアが呼びかけながら近づいていく。

 極寒の地に耐えるような服装ではない彼に、これ以上老婆へ近づけさせるのは命の危機に関わってくる。ユフィーリアはショウに「婆さんを撃て!!」と命じた。


「いいのか!? そんなことをしたら――!!」

「どのみちあれじゃ助かる見込みはねえ!! このままじゃグローリア諸共死ぬぞ!!」


 老婆へ引き金を引くことを躊躇うショウに、ユフィーリアは残酷な判断を下した。

 ここであの老婆を見捨てる他はない。見捨てなければ、ユフィーリアたちは凍死してしまう。ただでさえまともな防寒具を有していないのだから、天魔憑きであろうともこの吹雪には耐えられない。


「エリス、エリス!! ――先生ッ!!」

「――――――――」


 今まで懸命に老婆を「エリス」と呼びかけていたグローリアだが、唐突に呼び方を変えた。

 先生。

 確かグローリアは、あの老婆に形作ってもらったと言っていたか。『先生』という呼び方から察するに、彼女から戦術に関する知識を受け継いだのだろう。

 すると、老婆は途端に叫ぶことをやめた。頭を抱えて、現実から目を背けるようにただ暴れていた彼女は、ふと憑き物が剥がれ落ちたかのように冷静になったのだ。


「…………ユフィーリア」

「ダメだ。さらに状況がまずくなる」


 ユフィーリアは舌打ちをした。

 猛吹雪を起こしていただけならばまだしも、老婆が叫んだことで吹雪は弱まった。しんしんと静かに降り続く雪に、ユフィーリアの予感が悪い方向へ転がっていくことを告げていた。

 呼び方を変えただけで状況が好転するのであれば、ユフィーリアたち天魔憑きの存在は必要ないのだ。

 吹雪が弱まったうちに、とユフィーリアは崖下にいるグローリアを回収するべく飛び降りる。雪が積もった地面に降り立ち、グローリアの腕を引くと、


「――


 凛とした響きを孕んだ女の声が、ユフィーリアの耳朶に触れる。

 雪と同化する白い頭髪を複雑な編み込みによってまとめ、曇天へ向けていた虚ろな瞳は色鮮やかな若葉の色。怜悧れいりな印象を受ける顔立ちには年の功を感じさせる皺が刻まれ、しかしそれらも含めて百合の花の如き立ち姿が美しい。

 濃紺のワンピースの上から白いもこもことしたケープを羽織り、雪を踏みしめる足は茶色い革製のブーツで守られている。

 自分の体を抱きしめ、老婆は狂ったように叫んだ。


「助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ!! わたしがわたしがわたしがわたしがわたしがわたしが助けなきゃいけないのわたしが!!」


 老婆はなにかに怯えているようだった。

 そして、なにかの使命感に囚われているようだった。

 これ以上、彼女を刺激してはならない。だから早くその場を離れなければならなかった。

 それなのに。


「先生、お願い!! 目を覚まして!!」

「グローリア、行くぞ!! もう黙れ!!」

「――だって、!!」


 グローリアが叫んでしまった言葉は、最悪の事態を招くことになる。

 自分に言い聞かせるように「助けなきゃ」と連呼していた老婆は、ふと虚ろな緑色の瞳をグローリアへと向けた。二度、三度と瞬きを繰り返して、それから彼女は唐突に居住まいを正す。

 彼女のまとう雰囲気が変わる。ピリ、と肌を撫でる殺気。穏やかな緑色の瞳に隠された、ぞっとするほどの恐ろしい敵意。


「――そうやって、わたしを惑わそうとしても無駄ですよ」


 口調こそ気品のあるものだったが、言葉の端々に棘のようなものを感じ取った。

 グローリアが地雷を踏み抜いたことは、火を見るよりも明らかだった。あの老婆は、関係者であるはずのグローリアさえ拒絶したのだ。

 敵の立場にあるとようやく気づいたのか、グローリアは震えた声で「違うよ、違う、先生……」と否定する。彼からすれば、先生と呼び慕う老婆を助ける為にここまできたのだ。敵ではなく、味方のはずなのに。


「誰もいない? そんなはずありません。わたしを騙そうという意思が見えます。わたしは先生ですから、生徒を守らなければならないのです」

「だから、その生徒は」

「なにも聞きたくありません」


 老婆は、ほっそりとした腕を掲げた。

 どこからかピキピキ、パキパキという音がする。ユフィーリアは渾身の力でグローリアの腕を引き、一目散にその場から逃げ出した。


「あなたはわたしの敵です。妄言と共に、凍りつきなさい」


 慕ってきた相手に、助けようと手を伸ばした彼女に、敵として認識されることのどれだけ辛いことか。ユフィーリアには想像もつかない。

 ただ、確実にグローリアの中にあったなにかは壊れたに違いない。

 ヒュ、と息を飲み、彼は言葉を発さなくなる。力が抜けたのをいいことに、ユフィーリアはグローリアを抱え直して走り出す。ついてくるショウに「牽制を頼む!!」と叫べば、彼は無言で頷いて背後に火球を何発か撃ち込んだ。

 かろうじて振り返ると、そこには氷山があった。触れるもの全てを刺し貫く棘をまとい、近づくことすら拒むように、崖全体が氷へと覆われていく。


「逃げるのですか。ならば結構、わたしはあなたを許すことはありません」


 姿は見えないのに、老婆の声だけが嫌に響いてくる。

 ユフィーリアは振り返ることをやめ、白い雪が降り始めたゼルム雪原を駆け抜ける。


 しんしんと、静かに雪が降る。

 しんしんと、静かに雪が降る。

 冷たい綿雪は彼の故郷だったゼルム雪原を覆い尽くし、救済を拒絶するように白銀で司会を白く塗り潰す。


(――彼女は助けなんて最初から求めていなかった)


 それどころか。

 唯一、彼女が身を賭して守った生徒の顔すら覚えていないなんて、誰が思うだろうか。

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