第5話【老婆と司令官】
――それは、遥か昔の記憶だ。
グローリア・イーストエンドの中に眠る古い記憶は、涙を流しながら氷の棺に閉じ込められようとする老婆の姿だった。グローリアは懸命に手を伸ばして氷の中から老婆を助け出そうとしたが、彼女はグローリアの手を取ることを拒むように首を横に振った。
ピキピキ、パキパキと足元から老婆が凍りついていく。ごうごうと吹雪き始めて、彼女の姿が真っ白な雪で隠されてしまう。
激しい風の音に紛れて、細々とした老婆の温かみのある声が、グローリアの鼓膜を僅かに揺らした。
「――あなただけは、どうか、生きて」
その時、グローリアはなんと叫んだのかよく覚えていない。
彼女の名前を呼んだのか、ただ喉を震わせて泣き叫んだのか。もしかしたら叫ばなかったかもしれない。
伸ばされた手は空を切り、老婆を救い出すことは叶わなかった。氷の棺で祈るように眠る老婆を前に、グローリアは彼女を助けなければという使命感に駆られた。
氷の中から彼女を助けださなければ。
しかし、自分にはなんの力もない。ただ無力で、無様に地を這うことしかできなかった。
(――だから、人間をやめなければ)
そうするしかないと判断したのだ。
寒さによって感覚が麻痺していたのか、あるいは自然とその結論に到達したのか。グローリアは真っ先に、人間をやめる選択肢を取った。
人間をやめる方法は、すでに確立されている。悪魔を呼び出す訳でもなく、魔法を使えるようになるまで修行する訳でもない。人間をやめる方法なら、そこら辺に転がっているのだ。
すなわち、
天魔と契約をし、異能の力を手に入れること。
(彼女を救い出すには、強い力を持った天魔でなければならない)
全くもってその通りだ。
弱い天魔と契約しても意味がない。異能の力を有する天魔は限られてきて、どれもこれも名だたる天魔ばかりだった。
当時、有名だったのは剣の達人である【
しかし、すでに【薄氷鬼】は別の人間と契約をしていた。天魔には天魔の考えがあり、当然ながら好みの問題もある。早い者勝ちという訳だ。
ならば、と別の有名な天魔を考えれば、
だが、葬儀屋一族は代々、特定の家系が権利を独占している状態である。当主に受け継がれている葬儀屋一族を横から掻っ攫うことは難しく、グローリアでも相手を騙眩かすことはできない。
(――、――ダメだ。有名な天魔がいない。力のある天魔がほしいのに、どうして)
グローリアは絶望した。
己の無力さに絶望して、老婆を救い出すという壁の高さに絶望した。
強い天魔はいくらでもいるだろうに、寒さのせいなのかどうしても頭が回らない。手足の感覚がなくなり、ほぼ無心でしんしんと雪が降る中を歩いていると、視界の端で黒い靄のようなものを認識した。
虚空に浮かぶ、混沌としたなにか。
人間の眼球がぎょろぎょろと忙しなく蠢き、何本もの手が黒い靄から突き出ている。その有象無象は雪の中を歩くグローリアを認めると、ニタリと笑ったような気がした。
「ちょうどいい」「ちょうどいい」「ちょうどいい」
(――ああ、本当に、ちょうどいい)
黒い靄はしっかりと口に出して、そしてグローリアもまた胸中でほくそ笑んだ。
かの天魔の正体は知っている。あらゆる神霊、悪霊、怨霊が集合して怪物と成り果ててしまった有象無象の集合体。混沌としたなにかは世界の流れを止め、変貌させる強大な力を有する。
すなわち、時と空間を操る異能力を。
とにかく異能力がほしかったグローリアは、その黒い靄――【
「吹雪が酷くて今まではゼルム雪原にすら行けなかった。奪還軍を結成したのは、ゼルム雪原を踏破してエリスを助け出す為だ」
だが、それも意味がなくなる。
ゼルム雪原の吹雪はやみ、永久凍土と呼ばれた彼の地には春が訪れた。麗らかな陽気は天魔も天魔憑きも問題なく歩けるほどであり、寒さに凍えることもない。
グローリアは足元に積み重ねられた戦術書の山を蹴飛ばして、乱雑にかけてあった茶色い外套を羽織る。いくら麗らかな陽気だとはいえ、氷の棺の付近は寒いだろう。
愛用している懐中時計が埋め込まれた死神の鎌を手に取ると、グローリアは自分が使っていた執務室へと振り返った。
床一面に広がった戦術書に地図の山、作戦の指示書なんかが散らばっている。来訪者はみんなこの惨憺たる有り様を眺めて引いたような表情を浮かべ、ユフィーリアやショウに至っては本の山を蹴飛ばして進んでくる始末だ。
しかし、おそらくもうこの部屋には帰ってくることはないだろう。
「彼女を助けることが叶えば、僕の存在は要らなくなるからね」
奪還軍を結成した理由は、恩師である老婆を救う為。
助け出してしまえば、彼らが自分についてくる理由はなくなる。
だから彼らのことは恩師に任せて、自分は彼女の補佐に回るのだ。自分にとって、常に先頭に立つべきなのは恩師である老婆だけであり、グローリア・イーストエンドという青年ではないのだ。
「今までありがとう。これからは、僕じゃなくて彼女が指揮を執ることになるよ」
無人となった執務室に落ちた言葉を拾う者はなく、グローリアは空間と空間を結ぶ『
懐中時計が埋め込まれた死神の鎌を振るえば、虚空に波紋が広がった。水面のように揺らぐ空間に踏み込みながら、彼は安堵したように言う。
「だからエリス。僕を導いたように、今度は奪還軍を勝利へと導いてね」
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