第1話【死別の決断】

 部下を戦場へ送り込むべく、一度【閉ざされた理想郷クローディア】まで戻っていたグローリアは、帰還直後に絶望の象徴と対面を果たす。

 不思議な色合いの空がひび割れて、本来あるべき紺碧の空すら侵食せんとばかりに黒々とした枝葉を伸ばす巨大な黒い樹木。それは禍々しい雰囲気も追加されて、ついに封印されていた神々の世界から飛び出していた。

 悪夢の繭。

 破裂すれば絶望を世界に撒き散らすと謳われる、最悪の怪物。


「最高総司令官殿か」

八雲神やくもがみ殿。これは一体どういう状況ですか?」


 グローリアの帰還にいち早く気づいた鋼色の髪を持つ狐巫女たちの長――神宮『斗宿ヒキツボシ』が国主である八雲神は、苦々しげに顔を顰めて言う。


菖蒲あやめの奴が、御主の部下の力を奪ってしもうたんじゃ。おそらくだが、悪夢の繭の孵化に使われているんじゃろうよ」

「それは誰のです?」

「ショウ・アズマと言うたかのう。今は葛葉くずのはに見させておるが、戦線の離脱は避けられん」


 グローリアは瞳を伏せる。

 数々の困難を乗り越えてきたが、今回は想定外だ。いつもなら多少の台風の目すら利用して戦術に組み込めるというのに、戦力が削がれる方面での台風の目はそれほど遭遇しないからだ。

 しかも、悪夢の繭の孵化に組み込まれているときた。どうやって奪われたものを取り返せばいいのか見当がつかない。


(――うん、まあでも、


 内心でグローリアは、戦えなくなった仲間を簡単に切り捨てる。

 確かにショウの実力は目を見張るものがあり、戦力としては申し分ないほどだが、それでも『最強』の二文字を背負う彼女に比べれば切り捨てることは簡単だ。

 ユフィーリア・エイクトベル――天魔最強と謳われた【銀月鬼ギンゲツキ】の天魔憑き。その卓抜した戦闘能力はまさに天賦の才能と評しても過言ではなく、彼女と肩を並べるほどの実力者をグローリアはいまだ見たことがない。

 能力を奪われて戦力として使えなくなってしまったのが、ユフィーリアではなくてよかった。もし彼女が戦線離脱となってしまったら、誰に無茶を頼めばいいか不安になってしまう。


「それで、戦況の方はどうなっているんですか?」

「見ての通りじゃ」


 八雲神は肩を竦めた。

 確かに、とグローリアは改めて戦場を見渡した。

 活発化した悪夢の繭によって、あんなに美しかった神宮『斗宿』は無残な光景になっていた。満足な社はろくに残っておらず、桟橋は折れて、降り積もった社の瓦礫のせいで小川は氾濫はんらんしている。無事な社に狐巫女や奪還軍に所属する天魔憑きを集めて、一時的な基地のようなものとして使っているらしい。

 そして狐巫女の頂点に座する八雲神の結界を突き破って、夜空を掌握せんと黒々とした枝葉を伸ばして広がっていく。ぽっこりと膨らんだ木の幹はどくどくと脈動していて、時折、赤い光が駆け巡っていく。


「大変な様子ですね。ここから状況を覆すのは至難の業かと」

「不可能か?」

「まさか」


 目の前の巨大すぎる絶望に反して、グローリアの口元はにんまりと歪んでいた。この状況を楽しんでいるようだった。

 状況が悪ければ悪いほど、グローリアの頭は冴え渡る。台風の目すらも作戦の調味料として利用して、卑劣だ悪辣だと言われようと勝つ為にはどんな手も尽くす。それが、グローリア・イーストエンドのやり方だ。


「――ところで、になることを、貴方は予測していましたか?」

「…………どういう意味で言っている?」

「貴方が思った通りです」


 グローリアは微笑んで、八雲神を見上げた。幻想的に煌めく紫色の瞳が、彼の奥底に眠るなにかを見透かす。

 その瞳で見据えられた八雲神は口元をキュッと引き結び、やがて諦めたようにため息を吐いた。


「全く……最高総司令官殿には敵わなんだ。儂の隠し球まで見透かすとは、もう隠しごとなんぞできんではないか」

「お褒めに与り光栄です」


 微笑みながら、嫌味としても受け取れる言葉をきっちりと真正面から受け止めるグローリア。八雲神はやれやれと肩を竦めて、


「――おうとも、想定しておった。そして唯一、対抗できるだろう術式も組んである」

「八雲神様、それはッ!!」


 八雲神のそばで控えていた金髪の狐巫女――葛葉が、泣きそうな表情で駆け寄ってくる。八雲神は駆け寄ってきた葛葉を手で制するが、構わず葛葉は八雲神に抱きつく。

 美しい琥珀色の瞳から透明な波が流れ落ち、彼女は「いけません、八雲神様!!」と叫ぶ。


「それを使えば、貴方様は!!」

「良い、葛葉」


 豊かな金色の髪を撫でてやり、八雲神は仕方なさそうに微笑んだ。


「儂はもう十分に生きた。じゃから、次の世代にこの『斗宿』の全権を明け渡すべきじゃと考えておる。御主はまだ若い、皆を頼むぞ」

「そんな……嫌です、嫌です!! 私はずっと貴方様のおそばにいると決めております!! 貴方様がその道を選ぶと言うのであれば、私も――!!」

「それは認めない、葛葉」


 八雲神は縋りついてくる葛葉に、ピシャリと言い放つ。

 あまりに冷たい声音に、堪らず葛葉は震えてしまう。その様子はさながら説教に怯える子供のようだ。


「葛葉、儂は御主に生きていてほしい。そして息子たちの成長を見届けてほしい。――ただそれだけじゃよ」

「…………そんな、八雲神様」

「儂の勝手な我儘であるということは自覚しておる。だが、分かってくれ葛葉よ」


 葛葉の頬を伝う涙を指ですくい取り、八雲神は言う。


「儂は御主を愛しておる。だから、儂が愛したこの世界で、生きてほしい」

「…………はい、承知、いたしました」


 彼女にとっては苦渋の決断だっただろう。愛する者を失うことは、遍く絶望に勝る感情だ。八雲神をそこまで想う葛葉の喪失感は、きっと凄まじいことになるだろう。

 涙を流す葛葉の頭を再び撫でて、八雲神は申し訳なさそうに「すまぬな」と謝った。

 彼が謝ることなど、なにもないのだ。責任は、そういう決断をさせてしまったグローリアにあるだろう。――いや、そもそもこんな巨大な怪物が活発状態に陥ったのが原因か。


「うーん、菖蒲ちゃんだっけ。許せないなぁ、こういうのは」


 おおおお、おおおおお、と遠くから聞こえる唸り声を聞きながら、グローリアは微笑みを絶やさず言った。


「僕は君が嫌いになっちゃったよ。だから、きっちりと殺さないとね」

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