第4話【アクティエラへ潜入せよ】

 ――異物だ。

 ――異物だ異物だ異物だ異物だ。

 ――異物だ異物だ異物だ異物だ異物だ異物だ。

 ――異物だ異物だ異物だ異物だ異物だ異物だ異物だ異物異物異物異物異物異物異物。

 ――異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物異物。


「――――――――ッ」


 首筋から氷水を流し込まれたかのような、ぞっとするほどの寒気を感じた少女は弾かれたように顔を上げる。

 周囲を包む暖かな雰囲気。誰しもが楽しそうに会話をしていて、青空の下を歩き回っていて、子供が騒いで大人がそれをたしなめて、どこからどう見ても平和そのものの世界が広がっていた。この幸せな世界から一歩でも外に出れば、待ち受けているのは恐ろしい化け物が蔓延る戦場だというのに。


「姉ちゃん、どうしたの?」


 向かいから声がかけられた。

 木製の丸テーブルを挟んで対面に座る、まだ一〇代中頃に達したばかりの少年が心配そうな表情で少女を見ていた。「顔色悪いよ?」と言って手を伸ばしてくる少年を心配させまいと、少女は取り繕うように笑顔を浮かべた。


「ううん、なんでもない。ちょっと夜更かしをしちゃって」

「今日天気いいもんね。眠くなっちゃうのは分かるよ」


 少年は少女の嘘を簡単に信じて、朗らかな笑みを浮かべた。少女も少年の言葉に同意を示すように「そうなの」と適当な相槌を打っておく。

 本当は、そんなことはない。夜更かしをしただなんて嘘っぱちだ。本当は、

 それでも、目の前の少年にだけは余計な心配をかけさせたくない。なにも知らずに生きていてほしい。たとえそれが、、彼はなにも悪くはないのだから。

 少女は自分の前に置かれたティーカップの紅茶を一口啜る。舌の上に広がる花の香りと、ほんの少しだけ冷めてしまったお茶の味。ぬるい液体が喉の奥へと滑り落ちていき、少女の脳内はようやく切り替えることができる。


「ねえ、スバル。お家に帰っててくれる?」

「え、でも……おれ、姉ちゃんと久しぶりに会えたのに」


 少年は寂しそうに瞳を伏せるが、少女は申し訳なさそうに「ごめんね」と謝るしかなかった。

 その「ごめんね」の言葉の中には、二つの意味が込められている。

 一つは、せっかく久々に会えたのに自分の都合で勝手に予定を変更してしまったことに対する謝罪の意味を込めた「ごめんね」だ。

 そしてもう一つは、これから自分が犯す愚行についてである。

 少女はテーブルから身を乗り出して、少年の額に手のひらをかざす。少年が何事かと少女を見上げてくるが、胸の奥から込み上げてくる申し訳なさと苦しさを堪えて。

 ただ、命じる。


「お願い――家に帰りなさい」


 少女の命令を受けた少年は、黒曜石の瞳から光を消す。少年の中で自分の状態を切り替えるように、ばつんと少年の意識が少女のたった一言によって断ち切られる。


「分かったよ、姉ちゃん」


 多分、本当はもっとお喋りをしていたいのだろう。異物を知らせる警告が少女の頭の中に響く前までは、少年は最近あったできごとを楽しそうに話してくれていた。それを聞いているのが少女にとっては至福の時間であり、そしてそんな純粋無垢な少年をにしてしまう自分に対してひどくやるせなさを感じていた。

 我儘を言うことなく、少年はガタンと席を立つ。少女の命令に従って、少年は人混みの中をすいすいと縫うようにして歩いて姿を消した。少女の命令を正しく受け取ったのであれば、少年は真っ直ぐに帰宅したのだと思う。

 一人残された少女は、冷めてしまった紅茶を一気に流し込んだ。これで申し訳なさが消える訳がないのだが、いっそ酒でも呷った方が気分が晴れるのではないだろうか。できることなら、ああ、できることなら自分を殺してしまいたい。


「ごめんね……ダメなお姉ちゃんでごめんね」


 足早に立ち去ってしまった少年に何度も謝りながら、少女は澄み渡った蒼穹を睨みつけた。――正確には、その先にいるだろう異物を。

 この至福の時間を邪魔した罪は重いのだ。その死をもって償ってもらわなければ、帳尻が合わない。

 一人で空を睨みつける少女は、ほっそりとした右腕を伸ばした。はた目からすると大きく伸びをしているようにも見えるのだが、少女のほっそりとした右腕の一部が唐突に盛り上がり、皮膚の下がもぞもぞと蠢いて、手のひらを食い破って百足むかでの姿をしたなにかが生まれた。

 皮膚が裂けた痛みを堪えて、少女は今しがた生み出したばかりの自分の眷属けんぞくに冷たい声音で命じる。


「異物の排除をしてきて」


 百足の姿をした眷属は果たして少女の言葉をきちんと理解したのか不明だが、綺麗に舗装された石畳の上に落ちると細長い体をくねらせてどこかへ這いずっていく。

 少女は皮膚が裂けた手のひらを左手で押さえて、小さな嘆息を漏らした。


 ☆


 どうしてこうなった。

 ユフィーリアは頭を抱えた。こうしている間にも「どうしてこうなった」と何度か自問自答してみたが、全て自分の中で返ってくる答えは「自業自得だボケ」という極めて辛辣なものだった。

 彼女が頭を抱える理由は次の通りである。


「どうすればアクティエラに潜入できるだろうか?」

「ちょうどアクティエラを目指してる連中がごまんといるじゃねえか。そいつらに混ざれば、どさくさに紛れて潜入できんじゃねえの?」

「採用」


 ユフィーリアとしては冗談で言ったつもりだったのが、まさか採用されるとは思ってもいなかったのである。

 という訳で、ユフィーリアたち三人は覚束ない足取りでアクティエラを目指す人間の集団に何食わぬ顔で混ざり込み、どさくさに紛れてアクティエラへ潜入することを試みている途中だった。男も女も貧富の差も関係なく年齢もバラバラの集団に混じって、少しでも仲間意識を持たれるようにとちょっとだけだらしなく歩いているのだが、果たしてこの程度でスカイすら潜入できなかったアクティエラに忍び込めるのかが微妙なところであるが。


「見たところ、奴らに意識はないようだが」

「夢遊病の類かねェ。素人判断じゃたかが知れてるけどな」


 外套の内側から煙草の箱を取り出したユフィーリアは、箱から直接煙草を咥えながら小さな声で応じる。確かにユフィーリアたちの周りを歩く人間は、誰もがどこか虚ろな目をしていた。なんなら半開きの口から涎が垂れている者もいる。遠くから観察していても気味の悪いものがあったが、こうして近くで見ると気味の悪さが二倍ぐらい跳ね上がる。

 やはりなにかに操られている、もしくはなにかに取り憑かれていると表現してもおかしくはないだろう。他人の精神状態に働きかけるものか、あるいは別のなにかがあるのか。情報が少ない現状では、正確な判断を下すことは難しい。

 咥えた煙草にマッチで火を灯したユフィーリアは、薬品めいた紫煙を吐き出しながら少し後ろを歩く同行者へ視線を投げた。


「無理してついてこなくてもいいぜ?」

「……ぃや、大丈夫。無問題。気にしないであとなるべくこっち見ないで」


 ユフィーリアとショウの少し後ろを歩くシズクは、なにやら青い顔で相棒と呼んだ銀色の長大な狙撃銃を抱えていた。森の中にいる時は元気に笑い転げていたというのに、何故か人前に出てからは顔色が悪くなる一方だった。

 足を引きずるようにして歩く青い髪の少女が割と本気で心配になってくるユフィーリアは、手を差し伸べつつ提案する。


「なんだったらおんぶしてやろうか?」

「大丈夫、大丈夫、まだ歩ける」


 その言葉に若干の不安はあるが、本人が「大丈夫だ」と豪語するのだから大丈夫なのだろう。強がりで言った訳ではなさそうなので、ユフィーリアは「無理すんなよ」としか言えなかった。


「……狙撃手ってのは人前に出ると体調が悪くなるのかね」

「奴が特殊なのだろう」


 今にも倒れてしまいそうなほど体調が悪そうな少女を前にしても、ショウの態度は淡々としていた。むしろ男として率先してシズクの体調不良を気遣ってもいいのではないだろうかとは思ったのだが、真面目さ故にシズクの「大丈夫」という言葉を鵜呑みにしたのかそれ以外の理由でもあるのか、彼は一切シズクに手を貸すことはなかった。振り返って体調を気遣うことすらせずに、ずんずんと迷いのない足取りで前へ突き進んでいく。

 屑だのなんだの散々好き勝手に言われているユフィーリアの方が、紳士的にシズクの体調を心配しているぐらいである。多分この光景をエドワードやハーゲン、アイゼルネが見たらそれこそ腹を抱えて笑い転げられたあとに三日は酒のさかなにされる。多分そんなことになったらユフィーリアは間違いなくハーゲンを八つ裂きにして、エドワードとアイゼルネは素っ裸にひん剥いて土下座させていることだろう。絶対に知られたくない。

 紫煙を燻らせながらこの状況が知人に知られた場合はどうするべきかと真剣に悩んでいたユフィーリアだが、ふとなにか別の気配を感じ取って空を見上げた。


「どうした?」

「……誰か術式を使ったか?」


 見上げた空は相変わらず平和そのものであり、パラパラと天魔が降り注いでいる。異形の怪物が雨の如く降り注いでいるこの光景を『いつも通り』の一言で片付けられるのだから、慣れというものは恐ろしい。

 ユフィーリアが感じ取ったものは、肌がひりつくような殺気だった。つまりは相手を殺害する為の攻撃のようなもの――平たく言えば術式である。

 しかし、相棒のショウはおろか同行者のシズクも術式を使った痕跡はない。ユフィーリアも術式を発動させていない。残る選択肢として、ユフィーリアたち三人以外の誰かが術式を使ったということになるだろうか。

 不思議そうに首を傾げたショウは「使っていないが」と使用を否定する。使っていないことは自明の理であるはずなのにわざわざ報告するとは、なんと律儀な少年だろうか。もちろんシズクが術式を使えるほどの余裕はないので、今回の件に関しては除外とする。

 残る可能性として第三者であるが――見たところ夢遊病患者よろしく覚束ない足取りでアクティエラを目指す集団に、ユフィーリアたち以外の天魔憑きは存在しない。術式が使える天魔憑きは限られていて、よほど強い個体と契約をしなければ使えない。

 ならば一体誰が?


「ユフィーリア」

「ンだよショウ坊。おやつはさすがに持ってねえぞ」

「そうではなく、貴様の足元に百足がいるぞ」

「嘘だろおい!?」


 驚きのあまりに飛び退くユフィーリア。確かにショウの言葉通り、ユフィーリアの足元に百足がその細い体をくねらせてまとわりついていた。危うく踏み潰すところだった。

 想像していた百足よりも意外と大きく、ユフィーリアは人形めいた美貌を嫌悪感で歪める。


「うわあキッモ。こんな大きな虫はさすがに俺でも引くわ」

「燃やすか?」

「頼むわ」


 ショウの提案を即座に採用し、彼は「了解した」とお決まりの台詞で応じる。なんの未練があるのか、いまだにユフィーリアへまとわりつこうとする百足にショウが手をかざすと、ボッと自然と百足が発火した。さすが自由度の高い火葬術である。

 紅蓮の炎に包まれてあっという間に消し炭にされた百足は、なにやら「ピギィィ!!」と断末魔を上げて動かなくなった。最期まで気持ち悪い虫だった。


「ッたく、なんなんだよあの虫。スカイの使い魔よりも気持ち悪い」

「……………………」

「どうしたショウ坊、今更あの百足の命が惜しかったとか言うんじゃねえよな」


 なにやら思い詰めた表情で消し炭となった百足を一瞥したショウは、


「あの虫は術式から生み出されたようだ」

「あ? マジかよ」

「手応えが生者のそれではない。燃やせるということは『生きている』ということに数えられるだろうが、燃やすに際して中身が詰まっていない気がした」


 ショウの説明はよく理解できないが、ようは『なんかいつもと違う』ということが言いたいのだろう。術式行使者なりの感覚というものだろうか。

 他人の感覚にまでとやかく言うつもりはないので、ユフィーリアは適当に「ああそう」と相槌を打っておいた。なんかもう、よく分からない少年である。

 すると、前方から話し声のようなものが聞こえてきた。話し声は徐々に大きくなり、それが喧騒だと認識するのにユフィーリアは数秒を要した。耳朶に触れる幾人もの怒声と罵声を聞いたユフィーリアは、薬品めいた紫煙を吐き出しながら苦笑する。


「正気に戻った奴らが騒いでんのかね」

「ユフィーリア、あれはなんだ?」

「あん?」


 ショウが正面を指で示して、ユフィーリアに問いかけてくる。

 指し示された方向へと視線を投げると、そこにはキラキラと輝く青い海が広がっていた。青い海は果てがなく、彼方に横たわる水平線がよく見える。

 雄大な海に浮かぶのは、鋼鉄の巨大な島だった。

 形状はさながら年輪のようであり、三重の円が青い海にどっかりと浮かんでいた。波に攫われることなくそこに存在し続けるとは、よほどの質量を有していることだろう。最も外側の円には背の高い建物が乱立し、その内側にある円には複雑な形状の建物や観覧車などの娯楽施設が目立つ。それらを従えるように中央に浮かぶ鋼鉄の島にはガラス張りの鉄塔が空を穿うがたんばかりに伸びていて、その異質さをありありと伝えていた。

 ユフィーリアの脳裏に、どこかで読んだ雑誌の内容がよぎる。そういえばあの雑誌に起用されていた写真も、同じような光景を切り取っていたか。


「――アクティエラ」


 自然と、ユフィーリアの口からその鋼鉄の浮島の名称が滑り落ちていた。

 あれこそが蒼海そうかいに浮かぶ人類最大の商業都市と名高い人工島――アクティエラ。この夢遊病患者が辿り着く先に、果たしてどんな絶望が待ち受けているのか。

 喧騒が徐々に大きくなっていき、喚き声や怒鳴り声や罵声なんかの言葉が鮮明さを増していく。歩き進んでいくにつれて陸から人工島を繋ぐ巨大な鉄橋が見えてきて、その鉄橋の向こう側にたくさんの人集りができていた。


「出せ!!」「出せよ!!」

「ここから出せ!!」「家に帰して!!」

「なんで出られねえんだよ!!」「ふざけないで!!」


「なんだありゃ。出たけりゃ出りゃいいじゃねえか」

「よく見ろユフィーリア、なにかに阻まれているようだぞ」


 出たければ勝手に出ればいいだろうと理不尽なことを言ったが、ショウの言う通りよく見てみれば喚き散らかす人間たちは、透明な壁のようなものでき止められているのかアクティエラから一歩も出ることが叶わなかった。

 しかし、アクティエラに入る分には問題はないようで、意識のないままふらふらと鉄橋を渡り終えてアクティエラに入国した人間は、途端に意識を取り戻してここがどこであるかを認識する。そして【閉ざされた理想郷クローディア】ではなく外の世界だと認識したその瞬間、血相を変えて引き返そうとするが、やはり透明な壁に阻まれて出られない。それが何人も同じような状況を辿るので、あのような状況になってしまうのか。

 ははーん、なるほど。ユフィーリアは納得したように紫煙を燻らせて、


「行きたくなさが増したな」

「任務を放棄するつもりか」

「誰もンなこたァ言ってねえだろうがよ。お前って本当に冗談が通じねえのな」


 ただの愚痴すら本気として受け取るショウの扱いにくさは、ほとほと困り果てたものである。いつかポロッと悪口を呟いただけでも本人に「こう言っていたが事実か?」などと確認しに行きそうな予感がある。

 クソ真面目なのも考えものだな、とユフィーリアは胸中で呟いて、言葉の代わりに紫煙を吐き出して誤魔化した。

 怒号と罵倒で満たされる蒼海の人工島と接触するまで、あと残り一〇分程度。

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