第三十二幕 盤上遊戯
西軍がタナトゥスと戦っていた頃。ハルファルとグレモリーを結ぶダンチラ街道。その途上にある砦にアーデルハイド率いる東軍が布陣していた。
この砦はハルファルの県境に建てられており、ここを抜けられると一気にハルファル領内に侵入されてしまう。その意味では立派な戦略上の要衝と言えた。
「よし、我等はここで北上してくる敵を迎え撃つぞ。勝つ必要はない。主力たる西軍が敵を撃破するまで耐え抜いて足止めする事が我等の役目だ。西軍が勝利したという報が入れば奴等は勝手に瓦解するはずだからな」
砦の会議室にはアーデルハイドとミリアム、ファティマ、そしてアナベルの4人が集っていた。
「そうですね。西軍は敵を撃破後、ビルギット殿の部隊をこちらの援軍に回してくれる手筈になっています。それまで耐え抜けば私達の勝利ですね」
次席軍師のファティマが頷いて補足する。それを聞いていたアナベルが悔しそうに拳を握る。
「……折角待ちに待った奴等への復讐の機会だというのに、何故守りに徹しなければなりませんの? 私達も討って出て奴等と戦いましょう!」
卓に手を打ち付けながら声を張り上げるアナベル。彼女はガレス達によって直接両親を殺され国を追われた経緯があるので、奴等に対して復讐心を抱いている。ようやくガレス軍と雌雄を決するという機会に専守防衛させられるのが不満なのだろう。その気持ちはアーデルハイドとてよく分かる。だが……
「……アナベル。これは私闘ではない。戦なのだ。ましてや敵はあの強大なガレス軍。将兵それぞれが己の役目を全うできなければ到底勝利はおぼつかん。我等がここで奴等を足止めする事が結果として国全体の勝利に繋がるのだ。もっと大局的な視点で物事を見るのだ」
「……っ! で、ですが……私は奴等に直接両親を殺されているのですよ!? この機会に仇を討てずにいつ討つのですか!? あなたは奴等に家族を殺された訳ではないからそんな事が言えるのです!」
「……っ!!」
アナベルのその言葉に息を呑んだのは、アーデルハイドではなくミリアムだった。ファティマが頭を掻いた。
「あー……そうか。君はまだ知らなかったよね」
「え?」
アナベルが訝し気にファティマを見やる。アーデルハイドは渋い顔になった。
「ファティマ殿……私はもう過去の事は……」
「多分理詰めで話してもアナベルは納得しませんよ。これから敵の大軍を迎え撃つ激しい戦を前にして、意思の統一が出来ていないのは問題じゃありませんか?」
「……っ」
ファティマの言い分が正しい事を認めたアーデルハイドは増々渋面となったが、それ以上何も言わなかった。アーデルハイドの
「彼女……アーデルハイド殿とミリアムやビルギット殿が義理の家族だという事は知っているよね? では彼女の
「じ、実の家族……ですか?」
「彼女のご両親と妹さんは無残に殺害されたんだよ。……
「っ!! ド、ドラメレクですって……? それは、まさか……」
アナベルが目を見開く。当然奴の事は彼女も知っているはずだ。何故ならかつてムシナで、ガレスやミハエルが自分達の
「そう……そのドラメレクだよ。奴はムシナに推挙されるまでは、ガルマニア州では名の知れた凶悪な山賊だったんだ。アーデルハイド殿の故郷であった村は奴に蹂躙されたんだ」
「……!」
アナベルの顔が青ざめる。アーデルハイドは神妙に頷いた。思い出したくない過去ではあるが、ファティマの言う通りそれでアナベルを説得できるのであれば、利用できる物は利用するべきだろうと割り切った。
「そうだ。そして私の目の前で妹は無残に殺された。勿論両親もな。私もかつてはお前のように復讐心に身を焦がしていた。だが私怨だけに囚われて周りが見えなくなり、それをドラメレクに付け込まれた結果、取り返しのつかない事態に陥ってしまった。マリウス殿が助けてくれなければ、私はただ無駄死にするだけに終わっていただろう。私は二度と同じ過ちを繰り返すつもりはない。お前に私と同じ轍を踏んでほしくないんだ」
「…………」
アナベルは青ざめた顔のまま俯いていた。しかしややあって顔を上げた。その目には先程まで燃え上がっていた復讐の炎ではなく、一種の使命感に似た物が満ちているように見えた。
「……何も知らずに無神経な発言をしてしまった事を心よりお詫びいたしますわ。そのような過去を持つあなたが己を律して戦に専念しようとしている中で、私の言動はお恥ずかしい限りでした。復讐心を完全に失くす事は出来ませんが……それでも私は戦の間はそれを忘れ、作戦に従う事をお約束いたしますわ」
アナベルの決意を聞いたファティマとミリアムがホッと息を吐く。アーデルハイドも大きく頷いた。
「よく決意してくれた。容易い事ではなかったはずだ。だが我等が意思を統一し一丸となれば、必ずや作戦を成功させられるだろう。それが曳いては我が国の勝利と奴等の滅亡に繋がるのだという事を忘れないで欲しい。この防衛線、何としても守りきるぞ!」
「応っ!」
無事に意思の統一を図った面々は、アーデルハイドの号令に揃って気勢を上げるのだった。
そして砦を中心に防備を固める事数日……。高台に就いていた見張りから、北上してくる軍隊を確認したという報告が入った。
「いよいよか……。皆の者! 敵がどれだけ大軍でも怖れる事はない! 我等の役目はあくまで防衛に徹する事のみだ! 西軍が必ずや敵を打ち破ってくれる! それまでひたすた耐え抜くのだ!」
報告を受けたアーデルハイドは気勢を上げて自軍を鼓舞する。それから程なくして彼女達が籠る砦の眼前にまで敵軍が迫ってきた。ガレス軍の旗を掲げており、まちがいなくスロベニア勢のようだ。だが……
「思ったより数が少ない気がするが……」
砦の城壁から敵軍を見下ろすアーデルハイドは目を細めた。隣にいるファティマも頷いている。
「確かに……3000程度のようですね。勿論他に伏兵がいないと仮定してですが」
砦に籠って防備を固める相手に伏兵は無意味だ。となると目の前にいる3000程の軍勢が敵軍の全てである可能性が高い。勿論こちらの東軍は2000程度なので一応敵の方が数は多いが、彼女らの予測ではガレス軍の半数程……つまりは最低でも5000程の軍勢が押し寄せてくるはずであった。
敵が半数ごとに軍勢を二手に分けて北上してくるのを、西軍に戦力を集中させて撃破し、東軍はひたすら防衛と足止めに徹する。それがヴィオレッタの描いた作戦の概要であった。だがこれは……
「これは……ちょっと嫌な予感がしますね」
ファティマが厳しい表情で唇を噛み締める。そんな彼女達が見下ろす先、敵軍の中から指揮官と思われる武将が進み出てきた。その姿を見たアーデルハイド達は目を剥いた。何故ならそれはつい先日アナベルとの話の中で話題に上ったばかりの……アーデルハイドの
「ドラメレク……!」
他ならぬアーデルハイドがその姿を見間違える事などあり得ない。彼女の奥歯がギリッと鳴る。
「お、お姉様……」
彼女の後ろに控えていたミリアムは、そんな義姉の様子を気遣ってその手を握る。無意識に力んでいる事に気付いたアーデルハイドは、可愛い義妹に手を握られた事で昂っていた気持ちが落ち着いてくるのを自覚した。
「済まんな、ミリアム。もう大丈夫だ」
そう返してやるとミリアムは安心したように微笑んだ。
城壁上のアーデルハイド達に声が届く範囲まで近付いてくると、ドラメレクはこちらを見上げてきた。そしてアーデルハイドと目が合うと、その顔が醜い笑みに歪められたように見えた。
「くくく……誰かと思えば、あの山で無様に泣き喚いた挙句にマリウスに助けられた小娘か。これは楽な仕事になりそうだな」
「……!」
アーデルハイドは思わず声を荒げて反論しかけるが、寸での所で堪えて、フゥーーっと息を吐き出した。
「……言いたい事はそれだけか? 私はあの時とは違う。そんな安い挑発になど乗らぬ。貴様こそソニア殿らに手痛い目に遭わされて尻尾を巻いて逃げ帰ったと聞いているが、その割には随分強気だな?」
「……!」
痛烈な返しにドラメレクの顔が歪む。だが今度は向こうが寸での所で堪えて、再び邪な笑いを浮かべる。
「ふん、あんな物は只の遊びだ。本気になるのも馬鹿らしいと飽きて帰っただけよ。くくく……しかしこの小勢相手に撃って出て来ぬとは……。 どうやら
「何……!?」
聞き捨てならない台詞につい反応してしまう。隣ではファティマが増々その表情を険しくしていた。
「いい事を教えてやろうか? こちらの部隊の総大将はこの俺。後は元々ムシナ所属の者が何人かいるだけだ。これが何を意味するか解るか?」
「ま、まさか……」
ファティマだけでなくアーデルハイドの中にも、急速に悪い予感が膨れ上がっていく。反対にドラメレクの醜い笑みは更に深くなる。
「そのまさかだ。つまりこちらも
「……っ!!」
「しかもギエルとハルファル……双方の街の太守の
「くっ……!!」
アーデルハイドは歯噛みした。実際にここには3000程の兵とドラメレク達しかいない以上、ガレスやギュスタヴら主力の面々は軒並み西軍に割り振られていると見るべきであり、だとすると非常に不味い事になる。
こちらの西軍もソニア達3人衆と、オルタンス、ビルギットら精鋭を集めているが、敵も絶対に東西に分かれていると思われたガレスとギュスタヴが同じ部隊に集っている事になる。その状況は想定されていなかった。単純な兵力もほぼ互角となってしまったはずだ。
これでは到底迅速撃破など不可能だ。いや、撃破どころか下手をするとこちらの西軍が敗走する可能性も高い。そうなればもう戦の趨勢はほぼ決定したような物だ。
「こちらから援軍に向かうのも……難しそうだな」
「ええ。目の前のドラメレクを放っていく事は出来ませんからね」
苦虫を噛み潰したようなアーデルハイドの呟きにファティマも頷く。実際に3000の兵とそれを率いて攻めてきているドラメレクを無視する事はできない。
ミリアムかアナベルに半数の兵を率いて援軍に向かわせるのも駄目だ。中途半端な戦力では援軍としての効果が殆ど見込めない上に、ただでさえ砦を維持する限界の兵力を更に割ったりすれば、ドラメレクの攻撃からこの防衛線を維持する事も難しくなる。
さりとて今の東軍の戦力で用兵達者のドラメレク率いる、こちらより数の多い敵軍相手に撃って出るのはリスクが大きすぎる。
つまりアーデルハイド達は西軍に危機が迫っていると解っていながら、ここに釘付けにされているしかないのだ。敵を足止めするつもりが、足止めされたのは自分達の方だったのだ。
「何という事だ……」
ヴィオレッタとミハエル。軍師同士の読み合いは、またしてもミハエルに軍配が上がったようだ。
(ソニア殿、ヴィオレッタ殿、そして義母上……頼む。勝って……いや、
今のアーデルハイドに出来る事は、目の前の敵に対処する事、そして義母や同志達の無事を祈る事だけであった……
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